7 不安と焦燥

第35話 『飼いならされていない黒竜大公』


 ♢♦♢ ――デイミオン――


 北部から戻ってひと月もつと、体力も戻ってきて、日常の政務にほとんど差しさわりを感じなくなった。おとろえた筋肉もずいぶん戻ったし、記憶の断絶もめったにない。近衛兵たちと訓練する時間を作っているのがいいのだろう。


 妻リアナに関する記憶だけはいまだ戻らず、医師たちも首をひねるばかりだが、デイミオンは気長に取り組むつもりだった。妻はそこに存在しているのだから、焦ることはない。なにしろ王は忙しい。


 エクハリトス家のある東部にも一族の長としての仕事があり、移動も含めて十日ほどかかった。日程をこなして王都に戻ってきたのは、竜神祭まであと数日という朝だった。


「お帰りなさいませ」

 執務室で出迎えたハダルクは、目をぱちぱちして驚きをあらわした。「どうなすったんです、そのヒゲ

「ん? か?」

 デイミオンは手をあごにあて、上機嫌で答えた。「たまにはいいだろう、気分転換だ」

 領地に発つ前から剃っていなかったので、二十日分ほどのヒゲが顔周りに伸びていた。つい触ってしまう癖がついたが、悪くないと自分では思っている。

「リアナさまが見たら、驚かれますね」

「どうかな」

 そう言いながらもデイミオンは、このちょっとした変化を妻が気に入ると信じて疑っていなかった。


 帰城したばかりの王のもとに、署名の必要な書類が運ばれてくる。ハダルクはそれらをより分けながら尋ねた。

「……東部はいかがでした?」

「妻が来ないので残念がっていた。リアナ・ゼンデンは、なかなか人望があるんだな」

 デイミオンは窮屈な長衣ルクヴァの襟をゆるめながら答えた。「白竜のライダーは神聖視されているし、この一年もずいぶん領地のほうには顔を出してくれていたと聞いた。書簡のやり取りも」

 ハダルクは予定表を渡しながらうなずいた。

「あちこちに心を配っておられたと思いますよ。代理王の仕事のほかに、ふたつの領地を行き来されていたわけですからね」 

「彼女自身が王だったわけだから、それも当たり前ではあるんだろうが。……王配としては立派なものだ」

 デイミオンは素直に褒めた。少子化がいちじるしい竜族では、女性の領主や族長も多いが、みなに適性があるわけではない。グウィナのような男まさりの領主はまれで、母レヘリーンのように社交と繁殖にしか興味がない女性のほうが多いのだ。

「まあ、俺のつがいを選ぶ目に間違いがあろうはずはない」


 ハダルクはあいまいにうなずいてから、あらためて尋ねた。

「陛下は、つがいとしてリアナさまを選ばれた理由は思いだされたのですか?」

「いいや」デイミオンは即答した。「だから今、それを探っているところだ」

「そうですか……」

「ん? なにかあるのか?」

「いいえ。ただ、伴侶を求める感情というのは、なかなか一口に説明できることでもありませんから」

「そうか? ……自分にふさわしい相手であるかどうか、言葉で説明できなければ困るだろう」

「そうかもしれませんが、こう、ともに過ごした時間の長さとか、一緒にいるときの安心感とかですね」ハダルクはしどろもどろに続けた。「肌の感触や匂いや……うまく説明できない部分もあるのではないかと」

おまえもずいぶん、情緒的なところがあるんだなぁ」


 デイミオンはそう言いながら、予定表に目を通した。

 王都に人が集まる繁殖期シーズンは、行事も多い。五公十家の催事となれば顔を出さないわけにもいかないので、夫婦で出かける機会も増えそうだった。ハダルクが妻の体調について報告してくれたので、先日のをイヤでも思いださないわけにはいかなかった。さいわい夜中だったし、花以外には大きな被害はなかったが、惨事には違いない。豊穣ほうじょうの使いのような明るいイメージがあるが、白竜の力とはおそろしいものである。


「それにしても。……俺以外の種で妊娠して、妻があんなに動揺するとは思わなかった。記憶がなくて残念だ」

 デイミオンはまんざらでもない顔になった。「あいつはよほど俺を愛しているんだな。……帰宅のあいさつに行ってやろう。みやげもあるし」


「ええと」その提案に、ハダルクはすぐには賛同せず、なぜか間を置いた。

「今朝はつわりをお感じだということで、部屋で執務されていました。お着替えがまだではないかと」

「つわりか」デイミオンは思案した。「第一子だし、心配だな。では書類は彼女の顔を見てからにしよう」


 踵を返して扉に向かおうとすると、ハダルクが「あっ」と素っ頓狂とんきょうな声を出した。

「なんだ?」

「そういえば、昼は竜球ヴァーディゴをやるご予定では? ライダーたちが楽しみにしていますよ」


「そうだった! 今日だったな」デイミオンは先の発言も一瞬忘れ、にんまりした。竜を駆る騎手たちが王都に集まる繁殖期は、ヴァーディゴの季節でもあるのだ。なまった身体を鍛えなおすのに、スポーツ以上のものはあるまい。


「メンバーにおまえが入っていなかったな?」

「恥ずかしながら最近、腰痛の気がありまして」

「そうか、無理するなよ」


 至急の書類をいそいで片づけ、デイミオンはいそいそと準備をはじめた。妻へのあいさつは、その後でもいいだろう。



 ♢♦♢ ――リアナ――


 染めたような青空に、夏の雲が白く勢いよく浮かんでいた。飛竜たちがあちこちに散らばって飛び、ときおり鱗をきらめかせる。ヴァーディゴをしているらしい。王宮内の居住区は最上階に近いので、竜を駆るライダーたちの顔までよく見えた。


 リアナはそれを、窓際に頬づえをついてぼんやりと眺めていた。十日間ほどの不在からデイミオンが帰ってきて、本来なら真っ先に顔を合わせて無事を確認したいのだが、いまはそういう心境になれないでいる。それでハダルクに頼んで、少しばかり時間を稼いでもらったのだった。


「お、試合やってますね」

 リアナの隣にやってきた金髪の男が、手でひさしを作って外を見た。「デイミオン陛下は名手で知られてますからね。俺もたまにはやりたいなぁ」

 ハートレスの兵士、テオである。このあとハダルクが来る用事があるため、ついでに打ち合わせようということらしい。彼も部隊の長としてすっかり忙しくなり、リアナの護衛としての任務は後進に譲ったので、テオと話すのは久しぶりだった。ミヤミと同じで、フィルとのことには踏みこむことなく、世間話などをしてくれる。城下のうわさ話や、新しい雑貨店の繁盛ぐあい……。

 一見するとバラバラな個性をもったハートレスたちだが、こういうところに共通点を感じる。芯のところで、一本の剣であるように見える。


 しばらくするとハダルクが入ってきた。妊娠のことはまだ機密あつかいなので、テオとともにあれこれと身辺を気遣ってくれている。

「デイのこと、いろいろとありがとう」

 リアナが言うと、ハダルクは思案げにうなずいた。「陛下も、リアナさまのお身体を気遣っておられるんですが……」

「デイが大切にしてくれているのはわかっているのよ。妊娠も喜んでくれてるし」リアナはあわててフォローした。「……ただちょっと、気持ちが追いつかないだけなの」


「妊娠した女性の世話は、親権のある男の義務です。生まれた子は、父親がどうあれ自分の子になるわけですから……。でも、ご夫婦のどちらにとっても複雑な気持ちがあって当然です。いまのデイミオン様のほうが不自然なのです」

 ハダルクの声には実感がこもっていた。

「閣下は、いまのフィルバート卿の立場だったわけですよね?」

 テオがあっけらかんと聞いた。「どういう感じなんですか? その……父親側というのは」


 ハダルクは小さく息をつき、迷いながら答えた。「正直に言えば、まったく実感がなかった。ゲーリー卿とグウィナ卿……当時のお二人には、私がさしはさまる余地はないように思えたし。私自身も、なんというか……繁殖期の男の義務を、一種の仕事のように思っていたので」

「……でも、子どもを育てて変わった?」と、テオ。

「ああ」ハダルクはリアナの顔色を気にしつつ続ける。「まったく変わったよ。恋愛の後ろ暗い感情をすべて味わった」


 『恋愛の後ろ暗い感情』か。「それは、フィルには味わってほしくないわね」

「デイミオン様もですよ」ハダルクは柔らかく、だがはっきりと言った。「自分の種ではない男の子を育て、妻を信頼して愛し続けるのは、なみなみならぬ努力が必要なことです」

「そして失敗した」

 リアナは陰うつに呟いた。「グウィナ卿はあなたを選んだ」

「それは……」ハダルクは口ごもった。「それは私たちの場合です。陛下たちとは違う」

「……」

 その言葉にはなにも返さず、リアナは窓の外へ目を向けた。試合は終わったようで、飛竜と騎手は地面に着地し、チームはたがいの健闘をたたえ合っている。ひときわ大きな笑い声と歓声の中心に、デイミオンがいる。背が高くて、ハンサムで、伸びかけの黒髪も似合っていて……。

 

「楽しそうだわ」リアナはなにげなくつぶやいた。

「あんなに屈託くったくがないデイを見るのは、はじめてかもしれない」


 記憶の欠落という異常をのぞけば、デイミオンはこれまでにないほど元気そうに見えた。肉体的にも、精神的にも。……王位に就く前から彼を知っていた竜騎手たちの中には、『飼いならされていない黒竜大公が戻ってきたようだ』なんて言っているものもいる。それを聞いたリアナはずいぶん機嫌を悪くしたものだった。自分が、デイミオンを飼いならしている? 竜の調教師じゃあるまいし。


 だが……。

 くびきが取れたようにはつらつとしている夫を見るにつけ、しだいに自信がなくなってくる。

「やっぱり、飼いならしていたのかしらね?」

「え?」

「なんだか、自信がなくなってきちゃった。わたしは、デイを幸せにしてなかったのかも」

 テオとハダルクが、どことなく気まずそうに目くばせをしあったのが見えた。


「独身のころはあれもできたこれもできたと、友人たちにぼやいてみせる男がいますが……」ハダルクはやんわりと擁護した。

「あんなのはポーズなんですよ。本当は自慢したいんです。『俺はこんなに妻に必要とされてる、仕方ないから帰ってやらなきゃ』……男なんてそんなものです」 

「そうかしら」

「ええ」

 だが、同じ男でもハダルクとデイミオンとではずいぶんと違うように思える。それとも……同じなのだろうか?


 結局のところ、自分との結婚生活を、デイミオンはどう感じていたのだろう? 愛し愛されることに慣れすぎて、見えなくなっていたのかもしれない。これをきっかけに、一人きりで考えなおしてみるべきなのかもしれない。


「そうそう、あとで陛下にお会いになっても驚かないようにしてくださいね」

 部屋から出ていく前に、ハダルクが言った。「その、お顔に少し……変化がありますので」


 そして、そのちょっとした変化について注意しておいてくれたのだった。

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