第34話 なんて面倒な女なんだ!

 ♢♦♢ ――デイミオン――


「おい、また逃げたぞ」


 デイミオンは扉の方を向いて言った。「逃げた」の主語は妻リアナである。副官のハダルクは、複雑な表情で返した。

「お一人で考えたいことがおありなのでしょう。……しばらくのあいだ、放っておいてさしあげては?」

「妊娠についてか? なにを一人で考える必要があるんだ?」

 腕組みをして首をかしげる。

 ハダルクはデイミオンよりかなり年上で、叔母グウィナの配偶者でもある。結婚生活については自分より詳しいということは理解していた。


「もちろん、すべての竜族にとって妊娠は喜ばしいことですが……お相手は陛下ではないのですから」

「種のことか? だが、フィルバートは俺の同母弟だぞ。血も近いし。……ハートレスなのが問題なのか?」


 ハダルクは言葉を選びながら言った。「フィルバート卿は、つがいの相手であるデイミオン様が不在のあいだに、仮の夫として過ごした相手です。その男性との子どもというのは、リアナさまにとっても本意ではないでしょう」


 デイミオンはますますわからなかった。

「だからといって、俺から逃げても問題は解決しないだろう」


 そもそも、あの二人はどういう契約をしていたんだ? リアナは子どもができてから狼狽ろうばいしているし、フィルにいたっては王都にいない。繁殖期をともに過ごせば子どもができる可能性はあるのに、その責任をどう考えているのかと両者に問いたくなる。


 ともあれ、デイミオン・エクハリトスは解決を座して待つタイプではない。よく「白竜のライダーは雑草を摘み、黒竜のライダーは焼き尽くす」などと揶揄やゆされることがあるが、彼はまさに黒竜のライダーの化身だった。


「妻を探してくる。……本人に確認して、一人で考えたいというならそれはそれでいい」

 

 一応は殊勝しゅしょうなことを言って、執務室の高価なガラス扉から外を確認したときのことだった。デイミオンの中にある〈血の呼ばい〉が、伴侶はんりょのゆくえを知らせてきた。……窓から見える距離の、城内の空中庭園だ。ご丁寧なことに白い竜も屋根に乗っていて、あるじの所在はあきらかだった。


 ガラス扉を押して開け、デイミオンは外に出、庭園の方に黒い頭をかたむけた。夜闇のなかに、真珠色の美しい鱗が輝いている。

「おい、なんだ、あれは?」

「な、いったい何が」ハダルクも絶句する。

 二人が二の句を告げなかったのも無理はなかった。ティーカップ型の小庭園は、文字通り、滝のように水をあふれさせていたのだ。まるで形のままのティーカップに、見えざる巨大な手が水をそそぎこんでいるかのように。


「散水機能が壊れたのか?」

「庭園にそんな機能はついていません」

「わかっている、一応確認しただけだ」


 パゴダの屋根に雌竜レーデルルがいる。蛇がとぐろを巻くようにそっと尾を巻きつけ、なかにいる者を守ろうとしているようだ。


「あの部分にだけ雨を降らせているのか?」

 デイミオンはさっと空をあおいだ。「だが、雲がない」

「白竜のライダーを呼びましょうか?」

 ハダルクが返す。たしか、竜騎手ジェーニイが王都内にいるはずだ。が、デイミオンは首を振った。

「とりあえず、あの中だ。〈血の呼ばい〉があそこにつながっている」

 そして、執務室前の狭い通路を抜けて庭園のほうへ向かっていく。


 水流が強いと、膝より浅い川でもおぼれることがある。水の勢いを止められるのであれば、そのほうが安全だろう、と考える。


「アーダル」

 力の通路をひらくと、炎をびだした。とはいえ、水が蒸発して消えさるほどの炎を使うと影響が甚大なので、リアナの竜を直接制御するほうがよさそうだ。水流の勢いを一時とどめるくらいの……。


〔ファイアブリンガー〕

 〈血の呼ばい〉を強く引こうとすると、頭の中に〈呼ばい〉の声が響いた。〔強く呼んではだめ〕

「レーデルル? おまえなのか?」

 声と念話で、妻の竜の名を呼ぶ。「そうか、おまえはアーダルと違って、念話ができるんだな。なぜ〈呼ばい〉がだめなんだ?」


〔痛い、いたむ、大切な乗り手の、だめ〕

 竜の会話はヒトとは違うが、言いたいことはわかる。大切な主人であるリアナに損害を与える可能性があるということだろう。

〔あるじの羽毛の、かわいい羽毛の子。心臓がふたつ。石もふたつ〕

「ん? ……ああ、妊娠のことか。おまえも気づいたんだな」

 ルルは「ググッ」と喉をならし、それに答えた。

「……炎もだめなのか?」

〔だめ〕

「しかたがない」


「陛下!」

 ハダルクが慌てたように呼んだときには、すでに長衣ルクヴァとシャツを脱いでいた。「中に入って、連れ戻してくる」


 固くとじられた扉からも、鉄砲水がとびだしていた。デイミオンは意を決して近づき、扉に触れた。すでに限界だったようで、把手とってごと崩壊し、水があふれだした。これが全部、竜術だとは。


「なんて面倒な女なんだ!」

 そう叫び、足を取られそうになりながら、水流に逆行するように進む。灯りは壊れたらしく、溜まった水のせいもあって外と同じくらい暗かった。

 十歩も歩けば端につくほど狭いのだが、その一歩ずつが泥の中の行軍のようだ。あらゆる呪詛じゅそを吐きつつ、妻だという女性を抱えあげた。ずるずると進むと水を吸ったドレスが腹立たしいほど重たい。……動物的な好奇心で庭園をのぞきこんでいるアーダルの気配を感じる。なんとか外に出ると、レーデルルはのんきに水をかぶって遊んでいた。……まさか、単に水遊びがしたかっただけではないだろうな。


「ご無事で」と、ハダルク。

「これが無事に見えるか? 濡れるのは大嫌いだ」


 アーダルの炎を使えば、一瞬で身体を乾かすこともできるのだが……しかたがない。念のため、簡単な竜術も使わないことにした。


 腹をつぶさないよう横抱きにして、水をしたたらせながら建物内に戻る。廊下をすすむと濡れた革靴が不快な音を立てた。かたつむりが這ったように廊下が濡れて、侍従たちが布を手にあわててあとをついてくる。……向かった先は、居住区内の風呂場だ。人の手によらずに湯が使える、王族用の贅沢な設備だった。


 やれやれ、妻と最初に入浴する機会が、ただ温めるだけになろうとは。


「湯につけるぞ。熱かったら言え」

 リアナはすっかりおとなしく、されるがままだった。寒くはなかったがくしゃみが出て、妻はまたびくっと肩を震わせた。ついでなので、自分も温まることにした。裸になって湯につかっていると、今度はあくびが出た。……考えてみれば夜中だ。いろいろなことがありすぎて、まだ眠気は感じないが、明日の執務に差し障りそうだ。


 なぜあんなことをしたんだと叱ろうと思ったが、目に見えて落ちこんでいる姿を見ると強くも出られなかった。


 温まって口がゆるんだのか、リアナはしばらくしてぽつりと言った。

「デイミオンの子どもが欲しかったの」

「そうか」

 ほかになんと言いようもなく、そう返す。


「でも、フィルのことを考えてたら泣けてきて。……スターバウの領地でマルミオンと会ったの」

「……ああ」

「フィルだってあんなふうに……あんなふうな子どもだったことがあるはずだと思って……」

「そうか」

「そしたら涙が止まらなくて。レーデルルの力も、制御できなかったの」

「……今は考えるな。あとで原因を一緒に探してやるから」


 独言のような言葉に相づちを打っているうち、リアナは落ちついてきたらしかった。裸で肌を合わせているので、さすがに多少は下腹部が反応したものの、あわれさのほうが増してその気にもなれない。


 髪からしたたる水といっしょになって、湯にぽつりと涙が落ちる。肩の震えは止まったが、まだめそめそと泣いているのだった。もともとの性格なのか、妊娠のせいなのかは判然としなかった。


 温まったか尋ねるとうなずいたので、念のため手足をさわって確認し、湯からひきあげた。浴布で拭いて髪をしぼり、ガウンで包み、寝台まではこぶ。ずいぶんと手慣れている自分に気づいて、デイミオンは驚いた。どうやら、結婚したデイミオン・エクハリトスはかいがいしく妻の世話を焼いてやっていたらしい。「オンブリアの雄竜」と呼ばれていたはずだが、長い結婚生活で「飼いならされた竜」になってしまったのかもしれない。残念なことだ。


「……眠ったが、これでいいのか?」

 寝台の上で丸くなっている妻を見下ろし、デイミオンは自問した。「さっぱりわからん」


 もちろん、過去の自分があらわれて答えてくれるでもない。


(本当に、面倒な女だ)と、デイミオンは心から思った。彼女を選んだ理由は、家柄か、知性か、器量か? 王配に必要な資質が彼女にあるのか? ……少なくとも、自分が想像するような理想の妻の像とはずいぶん違っている。


 妊娠は夫婦の一大事だ。となると、自分の記憶が戻るのをこれ以上待ってはいられない。なぜこの女をつがいに選んだのか、過去の自分を問いつめたいのはやまやまだが、それもできない。こうなったら記憶に頼らず、理由を調べるしかない、と考えはじめていた。

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