第33話 まさか、だって、そんな


 ♢♦♢ ――ハダルク――


 国王夫妻が再会後はじめての夜を過ごしていたそのとき、竜騎手ハダルクは城内の妻の寝台にいた。

 もともと仕事の鬼だったグウィナは、息子ナイメリオンの事件を機にふたたび古巣の竜騎手団に戻り、精力的に仕事に励んでいる。また、王国の政務をになう五公の一人としての責任もある。


 国王代理のリアナ王配が北部に滞在していたあいだは、文字通りの城の守りとして、掬星きくせい城全体の指揮をとっていたのだ。そんな女性が、自分の腕のなかでだけ安らいでいる。……長いあいだ、夫ではなく単なる「繁殖期の相手」だったハダルクにとって、幸せを感じる瞬間だ。


「……ん……」

 その妻が、ハダルクと同じタイミングで目を開けた。

 「エンガス卿の竜の波長だわ」グウィナは目をこすった。「誰か……城に急病人が……?」

 起きあがろうとする妻の肩をおさえ、ハダルクは言った。

「私が見てきますから、あなたは寝ていなさい。ここのところ働きづめだったでしょう」

 グウィナは眠そうににっこりと笑い、「お願いします」と答えた。夫に心配されて嬉しいと顔に書いてある。この表情を見ると、子どもが小さくて夜に手がかかった頃を思いだす。この顔が見たくて、眠気と疲労のたまった身体でぐずるヴィクをあやし、ナイムのおしめを替えたものだった。

 ハダルクは毛布ケットごと妻を抱き寄せ、白い肩にキスして起きあがった。団の制服のズボンに、チュニックを手早くかぶり、その上から長衣ルクヴァをざっと羽織る。移動しながらボタンを留めてチュニックを隠せば、いちおうは体裁が整う格好だ。



 竜騎手団の副長であるハダルクは、古竜の力を示す「忠誠度」も高いが、〈呼ばい〉への耐性が高いことも強みとして持っている。城内を無尽にとびかう〈呼ばい〉の連絡を一度に受容できるほどで、その力は団と城の安全に不可欠なものだ。


 気配の集まる場所は、王の居室だった。まさか王にまた異変が、と案じたが、当のデイミオンは苦い顔でうろうろと歩きまわっている。と、すると……

「リアナ陛下さまに何か?」

 問いかけると、デイミオンは深刻な顔でうなずいた。「ああ」


「ついさっきのことだがな。キスしたら吐かれたんだ」まじめな顔をして、そんなことを言う。

「キ……いえ、嘔吐ですか?」思わず、そう問い返す。「それで……わざわざ、エンガス卿を……?」

 ハダルクはあっけに取られてしまった。


 たしかにエンガス卿は、現在、リアナの主治医だ。しかし仮にも王国の五公の一員であり、おまけに高齢である。城には侍医の集団もあるのだから、嘔吐ぐらいならそちらにまず診てもらえばいいのでは? 


「俺とのセックスがイヤで吐く女などいない。よほどの重病に決まっている」デイミオンは堂々と言いきった。

 やれやれ、男としてそこまでの自信をお持ちとはうらやましい。

 王は整った顔にうれいを浮かべ、ため息をついた。「俺のつがいは、病弱な女なのか?」


「お召し物を……」女官がやってきて着替えをうながしたが、王は苦い顔のまま首をふった。「後でいい。まだ吐くかもしれないだろう」


 エンガスの侍従がデイミオンを呼んだ。問診と触診が終わったらしい。記憶のことがあるので、王にことわり、ハダルクも診察に入らせてもらうことにした。



 エンガス卿は、知らせを聞いてすぐに飛んできたのであるらしい。夜着の上にガウンを羽織っただけの姿で、あいかわらずリアナ本人よりもよほど病人めいて見える。竜術の使用のために、水色のはずの目がトパーズ色に輝き、まなざしは虚空にそそがれていた。目の輝きに、時おり文字列のようなものが反射して走った。


 丸椅子に座ったリアナを、デイミオンが背後から支え、背中をさすってやっている。二人の姿は夫婦らしく見え、こういう状況ではあるがハダルクは微笑ましく思った。

 エンガスはまた、虚空に向かって手をのばし、見えない書面を整理するような動きをした。本人の目には患者の情報が見えているらしい。それが幻術まぼろしでない証拠に、指先が青白く輝いて見えない文字列をなぞっている。


「――なるほど」

 それが、ハダルクが聞いた老大公の第一声だった。


「『はらは使えぬ』とは、こういうことだったのか」

 エンガスはそう言うと、ヤギのような顎ヒゲをしごいた。「冬の老人たちも存外、良い目を持っている」

「なにを言っているんだ?」デイミオンが眉をひそめた。「わかるように説明してくれ、エンガス公」


 エンガスは自身の思索という名の森に入っていきかかっていたが、王に問われてふり返った。そして簡潔に答えた。

「半死者化によって生殖機能が損なわれないという、私の仮説が立証された」

「……つまり?」

「ひらたく言えば、リアナ陛下は妊娠しておられる」


「妊娠」デイミオンがくり返した。

「まさか、だって、そんな」リアナはぼうぜんとつぶやいた。「フィルの子どもだわ」


***


 エンガス卿が帰ると、本当の混沌がおとずれた。



 デイミオンはといえば、すぐに机をあさって結婚契約書を確認し、そこに親権の記載を見つけて勝ちほこった。

「さすがに俺は抜け目がないな。フィルバートとの婚姻期間は一年。そのあいだにできた子どもの親権は第一配偶者、つまり俺のものだ」


「陛下……」真っ青になっているリアナを前に、ハダルクはおろおろと両者を見まわした。

「竜の力ではやくに分かりましたが、まだ兆候ちょうこうとぼしく、ご懐妊かいにんといえる時期ではありません。母胎おなかが落ち着かれるまでは、公表もなさらないほうが」

「わかっている」デイミオンは上機嫌で答えた。「だが、準備はおこたらないようにしなければな。なにが必要なんだ? おまえは詳しいだろう、ハダルク」


 リアナは青い顔のまま、信じられないものを見るような目で夫を凝視ぎょうししていた。

「ん? どうした?」

 デイミオンが猫なで声で尋ねる。

「どうした、って……デイ、あなたこそなんなの?」

「なにを怒ってるんだ。そういう時期なのか?」


 リアナはわなわなと震え、拳を固く握りしめていた。不思議そうな夫をきっとにらみつけ、

「フィルの子どもなのよ! どうしてそんなに喜べるの!?」

 そう叫ぶと、脱兎のように走り去った。



「いったい、どうしたっていうんだ、あいつは」

 デイミオンはあっけにとられたようだった。「つがいとの間でないとはいえ、初めての妊娠だろう? 喜ばしいことじゃないか」


「それは……奥さまに聞かれませんと……」ハダルクは眉間を押さえた。

 デイミオンは扉のほうをふり返った。「おい、逃げたぞ」


 ハダルクはさらに深く嘆息した。

 ではないもの同士の妊娠――。かつて自分とグウィナとのあいだに起こったような出来事が、リアナとフィルバートのあいだにも起こったのだ。愛情についても同じ道をたどらないと、どうして言えるだろう?


 一年前、デイミオンが案じていたのはそのことだった。そして今、すっかりその懸念を忘れ去ってしまったらしい。思いだすほうがいいのか、忘れたままが幸せなのか、ハダルクには断言できなかった。




 ♢♦♢ ――リアナ――


 空に浮かぶような、ティーカップ型の空中庭園。夜会になれば恋人たちが愛をささやき交わす小さなパゴダのなかに、リアナは逃げこんでいた。観賞用のコケが覆い、ネモフィラがささやかな青色を点々と散らしている。晴れわたった空の下ののどけさとは正反対の心境だった。


 頭のなかがぐちゃぐちゃで、嬉しいのか悲しいのか、腹が立つのか、怒りだとすれば誰に対してなのか、ただただ衝撃を受けているだけなのか、自分にもまったくわからなかった。


「なんで、どうして……?」

 思わず口から漏れた疑問が、そのときの本音だった。


 デイミオンとは、十年も連れ添ってできなかったのに。フィルとは、たった一年なのに。どうして、婚姻を解消した今になって、フィルの子どもができたなんて。


 デイミオンだって、本心では嫌がっているに決まっている。それとも、本当に嬉しいの? ……わたしなら、デイがほかの女性とのあいだに作った子どもなんて絶対に欲しくない。


 子どもなんて……。リアナは首をふった。

 もちろん、子どもは欲しかった。ほかならぬデイミオンが欲しがったからだ。だから、欲しかったのは、子どもだった。


 フィルの子どもじゃない。


(こんなことってある!?)

 誰より子どもを欲しがっていた夫ではなく、子どもを欲しくないと公言していた男とのあいだにできるなんて。悪い冗談か、運命の皮肉としか言いようがない。


 デイミオンをさしおいてフィルに心を移しかけた自分への、竜祖の罰なのではないかとすら思った。

 おまえが欲しいのはデイミオンではなくフィルバートなのだ、と言われているような気がした。

(ちがう、ちがうわ)


 でも……。

 ふと、マルミオンのことを考える。領地で会った、フィルそっくりの子ども。

 フィルの子どもだって、きっとマルみたいな金髪と明るいハシバミの目をして、あんなふうにしゃべったり笑ったりするに違いないのだ。頬を寄せるとすべすべして体温が高くて、清潔な布地と牛乳みたいな匂いがして……。


 マルのことを考えるうちに、しだいに空想は子ども時代のフィルにおよんだ。竜殺しとも英雄とも呼ばれる前の、かつて子どもだった彼のことを思うと、なぜだか泣けてきた。リアナにだけ甘えたがるフィルは、どんなに孤独な子どもだっただろう。

 もしもレヘリーンの愛があったら、フィルはあんなふうに一本の剣としてではなく、もっと幸せな道を選んでいたのではないか。わたしと人生をともにしていたら。でも、でも、でも……。


「一本の剣じゃなく、ひとりの男として、俺を愛してくれるんじゃなかったのか」


 フィル、……フィル、フィル、ごめんなさい。


 今になって、フィルの詰問が胸にせまる。ぽろぽろととめどなく涙があふれてきて、もう、抑えられなかった。


 顎からしたたりおちた水滴が、床でぱしゃんと跳ねた。涙にくれるリアナは気づかなかったが、床に落ちた水滴は拳ほどの大きさがあった。壁面のコケが水をはじいて、勢いよくぴちゃぴちゃと音を立てた。


 ぽつん、ぴたん、ぱしゃん。


 床をひたひたと濡らす涙は、しだいに水そのものとなって、水量を増していった。小さな水たまりから、しだいに、もっと大きな水たまりへと。


 自分の起こした雷が遠くで鳴っていることにも、リアナは気づかなかった。とぷとぷと柔らかい音を立てて、水面はひざ下にまで迫りつつあった。

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