第32話 おまえに特別なものを感じない
♢♦♢ ――リアナ――
「妻が帰ってきたのに、お帰りのハグはないの?」
そううながすと、デイミオンはようやく抱擁してくれた。体温も、その匂いも夫のものだったが、他人行儀な腕のなかでは安堵は感じられなかった。
これなら、リックの抱擁のほうがずっとマシだ。少なくとも、フィルの養父は彼女に家族のハグをしてくれた。これは――こんなものは……もちろん、フィル自身の腕の強さとは比較にならない。
デイミオンもそう思ったのかはわからないが、少なくとも違和感は同じらしかった。
抱擁をとくと、まじまじとリアナを見下ろし、「不思議だ」と漏らした。「おまえに特別なものを感じない。本当に、俺の妻なのか?」
記憶喪失のせいとわかっていても、その問いはリアナの胸をえぐった。
「……そうよ」かろうじて、そう返す。「わたしは一節のあいだ、王であるあなたの王配としてここで過ごしているわ」
一時的に忘れているだけだ。
思いだすまで、何度でも説明するつもりだった。
でも、他人そのものの顔をされるとつらい。「そうか」と言い、いぶかしそうに見下ろされると……。
十年以上も夫婦だったのに。
王国の竜の
北部領まで飛んで、〈冬の老人たち〉と戦い、ようやく取り戻したのに。
「わたしたち、つがいの誓いを立てたのよ」声に涙が混じり、リアナはいそいで頭を振った。
クルルル、と柔らかい声が落ちてきて、レーデルルが彼女をたしなめているのがわかった。でも……。
「ごめんなさい、もう行くわ。……グウィナ卿のところに、報告を受けにいかなくちゃ」
竜舎を出ていく自分の背中を、夫と竜たちの目が追いかけてきているのが感じられた。
ばたばたと廊下を進んでいくと、役人や女官たちが波のように引いてお辞儀をしていく。リアナはそれに目もくれず、盛りあがった涙をこらえながら執務室へ急いだ。
扉の前に立つと、手の甲でぐっと
(こんなことで、落ちこんでいられないのに)
執務室に入ると、普段リアナが使っている机にグウィナが座っていた。
「リアナ」
グウィナは立ちあがって部屋をまわり、優しい抱擁で迎えてくれた。「ああ、あなたもデイも、アーダルも、無事でよかった」
「グウィナ」これも、家族のハグ。ほっとして、また涙が浮かんでしまう。「仕事をたくさん任せてしまって、ごめんなさい」
「助けあうのは当たりまえよ、家族なんだもの」
「はい……」
輝くような赤毛のグウィナは彼女を座らせ、要点をしぼって報告をしてくれた。シーズンの宴は、つつがなく進行したこと。心配していた義理の母レヘリーンは、有力者が城にいなくて退屈したのかすぐに王都を出て行ってしまったこと……。
リアナは報告を整理しようとつとめたが、どうしても気がそぞろになって、落ちつかなかった。
「デイミオンから聞いたわ。あなたのことを一時的に忘れていると」
グウィナもそんな彼女に気がついたのだろう、報告をやめて彼女の隣に腰かけた。
「つらいと思うけれど、思い詰めすぎないでちょうだいね」リアナの膝に手を置き、グウィナは優しく
「記憶はじょじょに戻ってくると、ヒーラーも言っているでしょう」
「そうですね」リアナはしいて笑顔を作った。
でも……。
グウィナにはわからないに違いない。夫の目のなかに、他人を見るようないぶかしげな色があること。以前と同じたくましい腕のなかでも、リアナ自身が安堵を感じられなかったこと。
どちらか片方のなかにしか記憶が存在しないとき、愛情の存在を信じるのはとても難しいのだということを、リアナははじめて知った。半死者たちの待ちかまえる場所に単騎で乗りこむほうが、よほど楽だ。
落ちこんでいる場合じゃない、デイのためにも自分がしっかりしなければ、とは思うのだが……。
自分が自分ではないような感じがして、どうしても、地に足がつかないようにそわそわしてしまう。ぼんやりしていたかと思うと、また涙が浮かんできて……それに、体調不良も続いていた。
忘れずにエンガス卿のところに行かねば。例の〈呼ばい〉の件もあるし……。
「おい」
聞きなれた呼び声がして、リアナはびくっとした。
「あら、デイ」グウィナがにこにこと甥を招きいれた。「奥さまのことが心配になったの? こちらの話は、もう終わってよ」
「な……なに? デイミオン……」
「なにって……話が途中だっただろう」デイミオンは扉近くに仁王立ちして、不機嫌そうに言った。「なぜ途中でどこかに行くんだ」
「は、話?」
「おまえに特別なものを感じない、という話だ」
「それは、わたしの責任じゃないわ!」リアナは叫びだしたくなった。この男は、わざわざ人の後を追いかけて、傷口をひろげに来たのか。
「そうは言っていない」デイミオンは、青い目をぱちりとまばたいた。「で、順番に確認するが、そもそも俺がおまえに求婚したというときのことだがな」
「まあー! それは、わたくしも聞きたいわ」グウィナが目を輝かせる。
「どうして今、そんなことを確認しなきゃいけないの?! あとにしてよ……」
「どうしてって、今、それ以上に重要なことがほかにあるのか?」
不在中の報告を受けるだけでも苦労しているのに、このうえ傷をえぐるような質問は聞きたくない。リアナはグウィナに別れも告げず、大柄な男の脇をすり抜けるようにして立ち去った。城のなかにいれば、仕事はいくらでもある。デイミオンの顔を見なくてすむような仕事が……。
しかしその後も夫はたびたび彼女の前にあらわれ、無遠慮な質問をくり返した。リアナはそのたびに逃げまわったが、深い疲労を感じないわけにはいかなかった。
**
そして夜になってしまった。ついに、どこにも逃げられない。王の居住区、夫婦の寝室で、リアナは聞かれないように小さくため息をついた。
本音を言えば、いまのデイミオンと肌を合わせるというのは気が進まなかった。フィルのことで、後ろめたいというのも理由の一つとしてあった。複数婚が当たり前の竜族にも浮気の概念はある。繁殖を目的としない、契約にない性交渉は、非難されるべきものだ。
(だけど、不安だったのよ)リアナは自分に言い訳した。(抱きしめて、大丈夫だよと言ってほしかった)
旅から戻ったばかりで疲れている、といえば、理解してもらえるだろうか? ……だが、こんなふうに夫婦の愛情が不安定なときに、デイの
「あの……しばらく、普通に寝るというのでもいいのよ」リアナは迷いつつ言った。「あなたは目が覚めたばかりだし」
デイミオンは書きものを終え、寝台のほうに歩いてきた。
「病人あつかいは好きじゃない。それに、ベッドの上で気づくこともあるだろう」
それはいかにも夫の言いそうなセリフで、緊張しているのに思わず笑いそうになってしまった。
「おいで」デイミオンは言った。その声は、リアナの好きな低く男性的な響きだ。迷いを忘れ、リアナはそろそろと夫に近づいていった。手をひかれ、隣に腰かける。
大きな手が包むように頬の横にふれ、波うつ髪が耳にかけられた。吟味するような真剣な顔で、じっと耳のあたりを見ている。と、黒竜王の動きにあわせるように、灯りが白く明るくなった。
「耳飾りは? 俺の贈ったものか?」
ふいにそう聞かれ、リアナはとまどった。
「え? そうよ」
真珠をあしらった、夏用の装飾品だ。飾りと耳とを指ではさみ、境目をなぞられると緊張が高まった。デイミオンは耳飾りをはずし、ナイトテーブルに置いた。
「ドレスは?」
「これは、女官長に言われて仕立てたのよ。……どうして?」
「確認しているんだ。じっとしていろ」
デイミオンはそう言うと、背中側のボタンを外していく。うなじを軽く
「傷があるな」熱い指にさぐられ、リアナは思わず肩をふるわせた。
「どうしたんだ? この傷は?」
「これは……ザシャと私兵たちに竜車を襲われたときに……フィルをかばおうとして」
「いつ」
「去年……」
「なぜフィルを?」傷口の盛りあがった皮膚をなぞりながら、そう問われる。首にかかる息がくすぐったく、声は耳もとに流しこまれるように近かった。
「あいつの仕事は、おまえを守ることだろう」
「そうだけど……わからないわ、どうしてそんなことをしたのかなんて」
「わからないでは困る」
背中に触れていない右手が、リアナの左手をつかまえた。こちらも確かめるように動き、太い指が印章指輪に触れ、その隣の細い指輪に触れた。「これはなんだ? 弱いが、竜術がかかっているな」
「フィルが」リアナは言いよどんだ。「……別れても一度だけ、剣として助けるって。そのしるしに……」
「妙なことを言う」デイミオンは薄く笑い、手を持ちあげて指輪のある薬指を見せしめのように噛んだ。「
「だってこれは……」
「竜が目を覚ましたのに、ネズミが
「そんな言い方」
反論しかけたが、青い目に見据えられると言葉を続けられなくなった。獲物を前にした
「さあ、続きだ」デイミオンは唇に息を吹きかけた。「確かめさせてくれ。……おまえが、本当に俺の運命の相手なのか」
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