第9話 いつもの夜のように、いつもの朝のように

 フィルの決意は固かった。


 彼の献身は、もとをただせばリアナの母エリサとマリウスの確執かくしつに行きつく。王を守るため、やむをえずマリウスの竜を殺したフィルは、その償いとして王の子であるリアナを守る誓いを立てた。

 だから、王となった彼女の権力が盤石ばんじゃくとなった時点で、フィルはそばを離れてもいいはずだった。そうしなかったのは、愛のためだ。


 リアナは剣士としての彼を利用するため、その愛に気づかないようにしながら思わせぶりな態度をとってきた。ある程度は意識的に、そして無意識に。いつの間にかリアナの側も恋に落ちていたとしたら、それこそ自業自得だろう。


「フィルには領主として、夫や父親として幸福になってほしい」。ニザランで自分はそう言ったし、その言葉は嘘ではなかった。でも、いまフィルバートが自分以外の伴侶はんりょを得て幸福になる図を描くのは耐えがたかった。

 


 だが、どのみち二人の関係がもうすぐ終わるのなら、いつ終わるかくらいはフィルの望みどおりにするべきなのではないかとも思った。デイミオンを取り戻すための旅に、フィルをつきあわせるのは彼が言うとおり、身勝手だというのもわかっている。

 そして、地上のいかなる権力も、〈竜殺し〉フィルバートを思いどおりにすることはできないのだ。


 リアナは赤くなった鼻をすすりながら、二人の婚姻契約書を書きかえた。気を抜くと目がうるみそうになり、いそいでまばたきをしてごまかした。

 デイミオンとの婚姻には、こんな書面は存在しなかった。つがいの誓いは、たがいの〈竜の心臓〉に誓う神聖な契約だ。それなのに、フィルバートとの関係は、こんな紙一枚で済んでしまうのか。


「これで、あなたは自由よ」

 そう言ってから、リアナはふと重要なことを思いだした。「あの……心臓はどうする? 〈竜の心臓〉のことだけど」

 〈竜の心臓〉をもつライダーたちは、心臓にかける負担を減らすため、ハートレスたちをパートナーに持つ決まりだ。その最初の例になったのはリアナとフィルで、この一節(12年)の期間、二人は心臓を共有していた。一年のうち、タマリスの短い夏ほどのあいだ、リアナの〈竜の心臓〉はフィルバートの体内に入っている。そうすることで、この謎に満ちた器官が修復されると考えられているのだった。


「あなたがそうしたいなら、解消してもいいわ」

 気が進まないながら、リアナはそう言った。「誰か、ほかのハートレスを紹介してくれれば……」

「それは……ひとまず、今は残しておきます。あなたの健康に、一度に負担をかけたくない」

 フィルは迷いながら答えた。「……半年後には、王都ここに会いにきますから」

 それは、アエディクラにいたあいだの二人の関係と同じだった。


「でも、今が一番つらいのよ」リアナはつい、泣きごとを言った。「あなたの支えなしで、あなたの助けなしで、行かなきゃいけないの?」

「リア……」

 フィルは、そんな弱音で決意をぐらつかせたようには見えなかった。だが……彼女をかわいそうに思ったのか、どうなのか。

 落ちついた顔で、ポケットからなにかを取りだした。


「手を出して」

 言われたとおりに両の手のひらを出すと、フィルはすこし笑って、左の手をとって表に返した。それから彼女の指に細い指輪をはめた。すでに印章指輪がはまっている中指の、隣の薬指だ。

「指輪?」

 言わずもがなのことを尋ねると、彼はうなずいた。

「ハートレスには〈呼ばい〉が使えないけど、道具をつかって一時的に、似たような通信をすることができる。これは一回だけ、俺と通信できる術具……のようなものかな」

 フィルは穏やかに言った。「一度だけ、剣としてあなたを助けます。俺の、あなたへの愛に免じて。……これは、そのためのお守りだよ」


「だけど、それで終わりなのね?」リアナは、その約束の意味がわかってしまった。「それで、本当に終わり」


「うん」

 フィルはまだ彼女の手を取ったまま、自分がめた指輪のあたりに、視線を落とした。これを用意してあったという時点で、彼はリアナと離れるつもりだったということになる。この口論が起きる前から……そう考えると辛かった。

「あなたは辛辣しんらつだなと、ときどき思う。他人にも、自分にも。……あいまいにしておけば、都合のいいこともあるのに」

 それからあきらめたように優しく笑った。「でも、そこが好きだよ」


 リアナはみっともなく追いすがりたい気持ちを隠して、鼻をすすった。「……わたしにできることはある?」


 フィルは彼女を抱きよせ、言った。

「いつものように俺と過ごしてほしい。この夜と、つぎの朝とを」


 ♢♦♢


 だから、それはフィルバートの望みどおりの、いつもの夜と朝だった。甘く優しく、だが容赦ない交わりにリアナは翻弄ほんろうされた。その後は彼の腕のなかで、なにも考えられないほど深い眠りに落ちた。……明け方、隣のぬくもりが消えるのもいつもと同じだった。フィルは早朝にいつも剣の稽古に出ていく。四半刻か、半刻か。……それくらいの間のあと、寝台のなかに戻ってくることもあるし、朝食だよと声をかけられて起きることもある。


 今朝は、そのどちらでもないことがわかっていた。フィルは、もう戻らない。


 起こしに来た女官の顔を見て、リアナはいよいよ現実と直面した。家の中に、すでにフィルバートの痕跡こんせきはほとんどなかった。わずかな私服と、使い慣れた剣だけがなくなっている。調理用のコンロに指をすべらせると、すこしばかり小麦粉が残っていた。


 あっけない幕切れだった。それを嘆いている暇がないことは、幸運だったかもしれない。

 女官と竜騎手とは別に、スターバウ家の家令も来ていた。この一年で頻繁ひんぱんにやりとりするようになった男を、リアナは呼んだ。「レフタス」


 レフタスは挨拶もそこそこに、屋敷が書類上すでに人手に渡っていると告げた。

「もちろん、陛下がお望みであれば、お好きなだけ滞在いただいてかまいませんが……」

 と、申し訳なさそうにレフタスが言った。「この家に限らず、フィルバート様の使……住む場所はそのようにあらかじめ手配してあるのです」

 家令は、「住む」ではなく「使う」と言いそうになっていた。たしかに、フィルの生活にはそちらのほうが近いだろう。 

 それは、いかにもフィルバートがやりそうなことで、リアナは笑ってしまった。

『だけど、それを用意したのは俺なんだよ。……だから、俺がすべて壊してしまって、なにが悪い?』

(そのとおりね、フィル)

 そう、胸中で語りかける。(ここは、あなたが用意した夢の家だった。だから、あなたの手で壊せる。決定権は、最初からあなたにあった)


「家は必要ないわ。これから北部領につの。そのあとは城に戻ります」

 リアナはレフタスに向かって言った。その間にも、女官が彼女のドレスの後ろを整えている。書類関係の確認を頼み、婚姻契約書についても彼に渡す。フィルバートのサインが見えたが、気づかれないように目をそらした。書類が苦手だという彼らしい、乱雑でどこかかわいらしい字だった。


「それから、ストア庄の慰霊祭についても、計画どおりにお願い。当日にはわたしも出席するから」

 スターバウ家の領地について言及され、レフタスは一瞬、面食めんくらった顔になった。書類上はもうスターバウ領主の妻ではないので、領地関連の行事に彼女が出席するとは期待していなかったのだろう。もちろん職務だから、すぐに真面目くさったいつもの顔にもどった。

「住民たちも喜びます。しばらく前から、領をあげて準備しておりましたし……領主夫妻が参加されるのはずいぶん久しぶりになりますから」

 婚姻関係の解消は、領民たちにはすぐには広まらないだろう。リアナは領主の妻としての最後の務めは果たそうと思っていた。肝心のフィルが来るかは疑わしいが。



 屋敷の前には、飛竜ピーウィと騎手が待っていた。竜車でないのは、所要時間を短縮するため。すでに、出発の時刻が迫っていた。掬星きくせい城では、巡幸じゅんこうの支度も終わり、あとは王を待つだけとなっているはずだ。

 リアナは大きく息をつき、気持ちを切り替えようと努めた。

(大丈夫……わたしにはやれる……竜騎手たちもハートレスの部隊もある……)


 エメラルドグリーンの筋肉質な飛竜に騎乗しながら、彼女は一度だけ二人の家をふり返った。誰もいない小さな家は、朝の柔らかい光のなかで、最初のバラのさかりを迎えている。



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「リアナシリーズ」について

※※作者名の付記されていないサイトは無断転載です。作者名(西フロイデ)の表記がある投稿サイトでお読みください※※

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