第8話 この賭けは、俺の負けだ


 二人の家に、口論を持ちこみたくはない。


 リアナはずっとそう思ってきたし、フィルにしてももちろんそうだろう。このつつましい夢の家を、二人は大切にしてきた。かわいらしい家具を入れ、掃除をし、料理を作って二人だけの食事を楽しむ。小さな暖炉のそばでぱちぱちと薪がはぜる音に耳をすませ、暖かくなれば庭仕事も欠かさず、愛しあって寝台で眠る……。


 だが、いよいよこの家を長期に空けるというその前夜になって、二人は言い争うことになってしまった。


「どうしても、一緒に来てくれないつもりなの? フィル、あなたの力が必要なのよ」

 リアナは両手を広げて説得をこころみる。が、フィルは腕を組んでかたくなな姿勢を変えない。

「〈竜殺しスレイヤー〉として? 〈容赦なきハートレスフィル〉として? 俺はもう、あなたの剣じゃない」

「どうして、よりにもよって、今その話をするの?! 剣だなんて思ってない!」

「今だから言うんだ。俺を一人の男と思っているなら、そんなことを頼めないはずだ」


 デイミオンを追う旅についてきてほしいとリアナが言い、絶対にイヤだとフィルが返す。口論がヒートアップすると、フィルはあてつけのように出ていく準備をはじめた。家のなかを大股に歩きまわっては、ドロワーの中身を床にぶちまけ、剣と盾とメダルとを木箱に放り入れる。庭から切って活けたばかりのバラにも、大事に買いそろえたはずの食器にも目もくれず。


 がしゃがしゃとうるさい金属音に、リアナは思わず顔をしかめた。

「フィルやめて、壊してしまうわ」


 その言葉を聞いていたはずなのに、フィルは床に落とした長剣を蹴って、また不愉快な音を立てた。床をすべってキャビネットにぶつかったのは〈白のおん君ジ・ホワイト・ワン〉と名づけられたひと振りの宝剣で、つかには紫水晶アメジストがあしらわれていた。


「どうだっていい。……ままごとだ、こんなものは」

 そこでようやく振り向いた。チュニックにベスト、革のズボンとひざ丈のブーツ。髪はいつも短くて、陽に当たると砂色に見える。いつもどおりの服装の、いつもどおりの立ち姿だ。だが、振り向いたのは彼女の知らない男に見えた。人を愛したことなど一度もないような、冷たい顔をしている。


「全部、壊してしまえる」

 そして、彼女の前に立った。ハシバミ色の目が彼女を見下ろし、剣だこのある固い指が首をなぞった。

 マントルピースの前に剣が散乱しているのが、彼の肩ごしに見えた。どんなに忙しくても、フィルは家のなかが乱雑にしているのを嫌がった。それなのに、いまはまるで気にしていないらしかった。目の前にいるのは、パンを焼きドレスを着せて甘やかしてくれるだけの男ではない。神がかった力を持つ古竜でさえも恐れる竜殺しで、容赦のない男だった。


「俺が怖くなった?」

 フィルはさらに一歩近づき、そう聞いた。リアナは彼の目を見ながら「ええ」と答え、首をつかんでいる腕に触れた。

 何者からも守ろうとする一方で、ぐしゃぐしゃに踏みつぶそうとするようなフィルの欲望を感じることが何度もあった。怖いかと聞かれれば、イエスと答える。でも、その執着に不器用なこの男の愛を感じてしまう。子どもっぽい独占欲と、痛々しいまでに崇高な愛情とが、この男のなかに同居している。……首をおさえられたままのキスは息苦しかった。

 

「こんな終わりかたはイヤ」

 リアナはつぶやいた。

「もっと前に終わっているはずだった」フィルが返した。「あの、ヴェスランの屋敷で。あなたを抱いたあと、国を出るつもりだった。そうしていればよかった」


「本当にそんなことを思ってるの?」

 リアナは思わず涙声になった。「二人で過ごしたことも、ないほうがよかったの? この生活も……」

「花で飾られた小さな家? 温かいスープと、焼きたてのパンの幸福?」

 フィルは皮肉げな微笑みを浮かべた。「だけど、それを用意したのは俺なんだよ。……だから、俺がすべて壊してしまって、なにが悪い?」


 固い指先が、なぶるように首筋をこすった。フィルは彼女の困惑と恐怖を楽しんでいるようだった。間近に顔を寄せて、「傷ついた? かわいそうに」と甘くささやいた。

「あのとき俺を止めなければ、今、こんな思いをせずにすんだのに。俺だってくだらない政争を隣で眺めたり、なんの交流もない母親の相手もせずに、自由に生きられたのに。全部あなたのせいだ。……あなたは身勝手で、ずるい」


「だから、いま出ていくの? わたしが一番あなたを必要としているときに?」

 フィルの首に腕をまわすと、短い髪がちくちくと肌をくすぐった。「わたしに仕返しがしたいのね?」


「そうだ」

 声のトーンが変わり、腰を抱く男の腕に、ぐっと力がこもったのがわかった。「俺の手であなたを傷つけて、苦しむところが見たい。俺の気持ちをもてあそんだむくいを受ければいいんだ。……いいや、違う、俺は、俺は……」


 息もできないほどきつく抱きしめられながら、リアナは言葉の続きを待った。どんな罵倒ばとうの言葉でもいい。だが、その先はなかった。ゆっくりと抱擁がとかれると、見あげた顔はすでにいつもどおりの平静さを取り戻していた。


「デイミオンから、あなたを奪えると思った。でも、ダメだった……。この賭けは、俺の負けだ」いたわるように頬にふれ、フィルはそう言った。


「婚姻を解消してくれますか? 今、ここで」


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