第十章 真相

1 いざ仕切り直し


 峰尾と内田が逮捕されても、坂口郁代の無罪が即刻認められたわけではなかった。

 一月三十日に高槻駅前で郁代と会釈を交わしたことを峰尾は認めたが、なにしろ彼は、今や専門家による精神鑑定の必要性を問われている人物である。その成行き如何によっては、彼の発言は法廷ではまっとうな証言として扱われなくなる可能性がある。内田はただ峰尾と口裏を合わせていただけで、彼自身が郁代のアリバイを証明できる存在ではないし、それに、郁代が岡本信哉を殺害したとされる状況証拠までもが否定されたわけではない。ということで、持田弁護士は峰尾の逮捕に伴って郁代の無罪放免を期待していたのだが、残念ながらそううまくはいかず、検察によって岡本信哉殺害事件の捜査の『見直し』が決定された旨の報告を受けたに過ぎなかった。

 ただ、検察からの指示を受けてその『見直し』を実際に行うのが、これまでの功績を買われた西天満署刑事課一係の刑事たちだと聞いたときには、持田は望が繋がったと確信した。彼らによって厳密な捜査が進められ、郁代の逮捕の少しでも疑問が残るとなれば、その時点で彼女は釈放となるだろう。



 そして翌日、持田から西天満署に電話があり、鍋島に捜査の進展状況を訊いてきた。

「――残念ですが先生、今となってはあまり詳しくお話しするわけにはいきません」

 刑事部屋のデスクで朝刊の社会面を広げながら、鍋島はスマートフォンに向かって淡々と話した。「ご理解いただけるとは思いますが」

《現時点では僕はあくまで当該事件の被告人の代理人ですからね》持田は答えた。

「まあ、それもありますが――真犯人が別にいると考えられている状況ですから、捜査の進展状況については、きつい箝口令が敷かれてるんですよ。そうでなかったら、まったくの部外者というわけではない先生には、ある程度のことはお話しできるんですが」

《分かりますよ。それに、僕のような立場は、決して検察と友好的な関係とは言えませんから》

「そういう仕事ですからね。それに、被告人の弁護士だからと区別をしてるわけやないんです」鍋島は言った。「先生にはいろいろご協力いただいたから、話して差し上げたいのはやまやまなんですが」

《分かりました。ではとにかく僕は僕にできることをして、あとはお二人がお手柄を立てたという吉報を待つことにします。というのも、検察はあくまで『捜査の見直し』とは言っていますが、僕は実質再捜査だと考えています。そうなれば坂口は一旦釈放されるべきなんです。ですから僕は彼女の釈放を要求するつもりです》

「ええ、そうですね」鍋島はほっと息を吐いた。「ところで、その坂口さんの様子はどうですか」

《峰尾氏が田村さんの殺害容疑で逮捕されたことを聞いて仰天してましたよ。しかし現金なもので、それじゃあなぜ自分が釈放されないのか、それが気懸かりでならないといった感じでしたね。アリバイ主張がまだ完全に認められたわけではないと説明すると、いかにももどかしそうでした》持田は明るく答えた。《事件の見直しが決定したと告げると、ほっとしてましたよ》

「そうですか」

《とにかく、坂口も僕も、真犯人逮捕のニュースを首を長くして待っているという状況です》

「全力を尽くします」

《これで真犯人が逮捕されれば、お二人は本当にお手柄ですね。きっと大出世されるでしょう》

 持田はそれが彼の持ち味とも言える、屈託のない声で言った。

「そんなにうまい具合に行きませんよ」鍋島も笑って答えた。

《それに、大牟田刑事にはそれなりの処分が下されるのでは?》

「それは――」鍋島は返事を詰まらせた。「それは分かりませんよ」

《……いや、申し訳ない。鍋島さんを困らせるつもりはないんです》持田は慌てたように言った。《鍋島さんからすれば、大牟田刑事もご同僚ですからね。身内の失敗が嬉しいはずがない》

「……まあ、そういうことになりますね」

《それではこれで。お忙しいところをお邪魔しました》

 持田は電話を切っていった。鍋島は耳からスマートフォンを離して新聞を閉じ、その上に頬杖を突いた。

 大牟田のことを考えると気が重かった。最初は何としても岡本信哉殺しの真犯人を挙げ、あの嫌味な中央絶対主義の部長刑事をとことん屈服させてやろうという決意に溢れていたのだが、あの夜、麗子の前で父親との因縁話を聞かされてから、鍋島はそれまでの彼に対する嫌悪と憎悪の感情が萎えていくのを感じていた。かと言ってあの夜に感じた後ろめたい気持ちも日を追うごとに消えていき、それに代わる憐みや同情心も湧いてはこないのも事実だった。ただ、あのときの大牟田のいくらか颯爽とした後ろ姿と、今こうして自分が彼を持田の言うような結果へと導きつつある現状が、まさに一人の人間、一人の警官の栄華と没落を象徴しているような気がして、鍋島にはひどく気の滅入る現実には違いなかった。


 署長や課長と一緒に、マスコミの対応に追われていた芹沢が戻ってきた。滅多にないことだったが、一係の関わる事件で署が記者会見を開いたり取材を受けるようなときは、幹部や指揮官たちの他に現場の捜査員として引っ張り出されるのはたいてい芹沢だった。芹沢には迷惑な話だったが、むさくるしいおっさん刑事よりも彼の方がはるかに府警のイメージアップに繋がると幹部たちは考えているのだ。実際、そういうときはあとでちょっとだけSNSがざわつく。

「――どうしたよ、浮かねえツラして」

 芹沢は自分の席に着くと言った。

「……別に」

 鍋島はスマートフォンを操作して画面を開き、芹沢に向けながら彼を見た。「ほれ。またちょっとバズってるぞ」

「どうでもいいわ。迷惑千万」芹沢はスマートフォンを弾いた。「おまえもいちいち検索すんな」

 鍋島はふふんとほくそ笑むと、スマートフォンを取って上着のポケットにしまい、神妙な顔で言った。

「フランケンシュタインはふりだしに戻る、やな」

「ああ。内田のアリバイ主張が正しいとしたら、そっちはやっぱ岡本殺しの真犯人ってことになるし」

「でも、使ったナイフのちぐはぐさは残るぞ」

「そこなんだよな――」芹沢は頭の後ろに手を回した。「こだわるべきか、この際排除して考えるか」

「辻野にもういっぺんあんときのことを詳しく訊いた方がええかな」

 鍋島は言うと真顔で芹沢をじっと見つめた。「その後、何か言うてきたか」

「別に」芹沢は目を細めて鍋島を見た。「その詮索もうぜぇよ」

「今さら何を言う」鍋島は肩をすくめた。「ひょっとしてこじれてるんか」

「は? 拗れてねえし」芹沢は舌打ちした。「いいから、おまえは三上サンに渡す指輪の心配でもしてろ」

「そういう言い方で八つ当たりするところを見ると、やっぱ何かあるな」

「うるせえよ」と芹沢は追い払うように手を振った。「ジュエリーショップに行くんだろ。今度はすっぽかさねえように、早く行けよ」

「あ、そやな」と鍋島は腕時計を見た。「昼には戻ってくると思う」

「いや、面倒だからどこかで落ち合おうぜ」

「ええよ、どこにする?」

「阪和館大の先生が今日は研究会とかで中之島のGホテルに来てるらしいから、その近所にしてくれねえか。さっき電話したら、いつ身体が空くか分からねえって言われたから、ひょっとして長引くかもしれねえし」

「分かった。ほな、十三時くらいにそのホテルへ行くよ」鍋島は立ち上がった。「ほんならな、悩める青年」

「……じゃあな、浮かれた青年」



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