3 笑顔の下で


 風呂から出た琉斗がリビングに戻ると、芹沢は隣の和室で布団を敷いていた。一条の姿はなく、どうやら寝室へ移動したようだった。やっぱりお姫様抱っこやったんちゃうかなと琉斗は想像した。

「オレ、ソファでいいよ」琉斗は言った。

「こっちの方がいいだろ。ソファだと、起きたとき全身バキバキだぜ」

「え、そうかな?」琉斗は首を傾げた。「しょっちゅうソファで寝てるけど、そんなことにはならへんよ」

「……まあ、若いから平気なんだな」

 芹沢は言うと和室から出てきた。「何か飲むか。さっきのジャスミンティーもまだあるし」

「いただきます」

 琉斗はぺこりと頷き、ソファに座った。「――芹沢さん、お風呂は?」

「あとでいい」芹沢は冷蔵庫を開けた。「おまえが完全に寝てから入る」

「……え、なんか疑ってんの」琉斗はへへっと笑った。「安心して。そのあいだに寝室に行ったりは――」

「言うな」芹沢は冷蔵庫をバタンと閉めて振り返った。「冗談でもNGだ」

 おお、怖い怖いと琉斗は両腕を抱えて肩をすくめた。芹沢はその様子を見てふんと鼻を鳴らし、ジャスミンティーをグラスに注ぎながら言った。

「……おまえ、俺のこと歳の離れた友達くらいに思ってんだろ」

「かもね。ほら、学校のクラスにもいろんな年齢層の人がいるし」

「命の恩人だぜ?」

「……忘れてへんよ。恩着せがましい警察官やな」琉斗は言った。

 四か月前、父親が絡んだ事件の真相を知り、自棄を起こして自分の腹を刺すと言う自傷行為に出た琉斗を救ったのが芹沢だった。

「市民からの謝意や称賛の声でもないと、やってらんねえのよこんな仕事」

 芹沢は琉斗の前に立ってグラスを差し出した。「友達でもいいけど、一応目上だからな。敬えよ」

「……分かってますよ」

 琉斗はグラスを受け取ると、ごくごくと飲んでふう、と息を吐き、首に掛けたタオルで髪を拭きながら言った。

「――ねえ、ちょっと相談してもええかな」

「ほら、その態度だよ。人に相談するのに、髪乾かしながらってどういうことだ」

「……うっるさいなぁ」琉斗は小声で言い、髪を拭く手を止めた。

 何だって? と芹沢は眉を上げ、すぐに笑って缶ビールの栓を開けた。酒屋の息子らしく、どれだけ飲んでもほとんど様子は崩れない。ダイニングの席に着くと、ひと口飲んで頬杖を突き、琉斗に話を促した。

「言ってみろよ」

 琉斗はコホンとひとつ咳払いをし、膝を抱えてソファにもたれかかると、ゆっくりと言葉を噛み締めるように言った。

「――芹沢さんはさ、一条さんといずれは結婚するつもりなん?」

 芹沢は琉斗をじっと見た。「おまえの相談じゃねえのかよ」

「オレの相談やで。そのための参考質問や」

「十七歳の相談ごとに必要な質問か? そっからの着地点が見えねえな」

「そうやってはぐらかすってことは、まだ決められてへんってことか」琉斗はふんふんと頷いた。「付き合ってどれくらいなん?」

「……泊めてやるなんて言わなきゃよかった」芹沢はビールを飲んだ。「帰るか? 今から。飲んじまってるから送ってやれねえけど」

「分かったよ」

 琉斗は肩で息を吐き、少し前のめりになって芹沢を見た。「怒らんと聞いてよ」

「もう怒ってる」

 その言葉を聞き流して琉斗は言った。「芹沢さんと一条さんってさあ、要はその――格差カップル、ってやつやろ。しかも女の方がだいぶ上っていう、定番の」

 芹沢は顔を逸らしてふふっと笑った。「……ド直球でえぐってくるね」

「ごめん、でも、そうやんな。しかも遠距離」

「だったら?」

「それって、どうやってメンタル保ってんのかなって思ってさ。お互いそうやけど、特に芹沢さんの方が」

 芹沢はビールを飲んだ。「……まあでも、あんま考えてねえけどな」

「え、それは何で?」

 芹沢は缶をテーブルに置き、腕組みしてうーんと俯いたかと思うと、やがて顔を上げて言った。

「……あいつ、俺のことめちゃくちゃ好きじゃん?」

「もぉなんやねん〜」琉斗はソファに倒れ込んだ。「真面目に答える気ないよこの人〜」

「ったりめえだろこのタコ」

 琉斗が倒れたことで弾け飛んだソファのクッションを拾って芹沢は彼に投げつけた。「二十八歳の大人が、何で十七歳のガキに恋バナ掘り下げられなきゃなんねえんだよ」

 琉斗はクッションを抱えてあははと笑った。「せやから、それはオレの――」

「ならさっさとてめえの話をしろよ。参考質問だの何だの、結果俺に刺さってくる話はよせ」

「ははぁ、やっぱ気にしてるんや」

「だからうっせぇよ」

 芹沢は今度はテーブルに残っていたビニール袋入りの紙おしぼりを投げた。琉斗はクッションでそれを防ぐと、クッションの後ろから顔を出して「イケメンにも弱味はあるってことや」と舌を出した。

「こンの――」

 芹沢は立ち上がって琉斗に覆いかぶさり、彼の髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。琉斗はきゃーと声を上げ、クッションに顔を埋めて足をバタバタと動かした。こもった笑い声が弾んでいる。そのクッションにパンチを入れる芹沢もまた笑っていた。とても愉しそうだ。

「ひゃぁっ、やめろ〜、暴力警官、やぁめろぉ〜」琉斗はわざとらしくひ弱な声で言った。「助けて、一条さ〜ん、助けて〜」

「あっ、ふざけんな、この」

 芹沢は小さく舌打ちし、琉斗からクッションを奪って床に投げた。そしてヘラヘラ笑っている琉斗の首の後ろから腕を回して頭を脇で締める――いわゆるヘッドロックをかけて琉斗の首をぐらぐらと揺らした。琉斗はきゃあきゃあと声を上げ、芹沢の腕をバシバシと叩いて抵抗した。

「やめて、あは、痛い、痛いよーう」

 琉斗はリズミカルに動いて芹沢から離れようとした。芹沢はだいぶ面白くなってきて、少し強めに腕を締めた。

「参ったか、この」

「ま、参った参った、わぁ、痛いよ」

 その声に少し苦痛の色が混じっているのに気付き、芹沢はすぐに腕を緩めて琉斗の顔を覗き見た。

 琉斗はきつく目を閉じ、唇を固く結んでいた。眉を歪め、曲がった鼻がピクピクと小刻みに動いている。

「!――――」

 芹沢はハッとした。すぐさま腕をほどいた。

 すると琉斗が目を開けた。え? という表情で芹沢を見上げてくる。芹沢はその視線から顔を背け、琉斗から離れて倒れ込むようにソファに腰を沈めた。

「……え、どうしたん?」 

 琉斗は首を触りながら上体を起こした。

「いや――」

 芹沢は口元を押さえ、肩を落として床に転がったクッションを見つめていた。今度は彼の方が悲壮感を滲ませている。

「芹沢、さん――?」

「……何でもない。ちょっと悪ノリした」芹沢はふらりと立ち上がった。「ほら、もう遅いから寝ろ」

 琉斗もゆっくりと立ち上がる。「……ごめん、なんかオレ、空気読めんかった?」

「そんなことない。絶対」芹沢は激しく首を振った。「とにかく寝ろ。明日仕事だろ」

「……分かった」

 そして琉斗はおやすみなさいと言って和室に消えていった。

 芹沢は肩で大きく息を吐き、床のクッションを拾った。それから琉斗が飲んでいたグラスと自分の飲みさしの缶ビールをキッチンまで運び、シンクに置くともう一度ため息をついた。

 そして思い切り自分の頬を叩いた。

「何やってんだ――」


 リビングを出て廊下を寝室に向かうと、洗面所からドライヤーの音が聞こえてきた。どうやら目を覚ました一条が入浴していたようだ。芹沢は寝室に入り、ベッドに倒れ込んだ。腕を額に当て、天井を眺めた。

 つい忘れてしまっていた。琉斗が長年、父親からの暴力に苦しんでいたということを。

 さっきの顔は、その頃の記憶が甦ってきたせいで――あるいはそれが板についてしまっているがゆえの――怯えた表情だったのではないか。楽しそうにふざけていても、少し長引くと無意識にああなってしまうのだろう。そう言えば、中学まではイジメを受けている。

 子供の頃から毎日のように殴られ続け、鼻が曲がり、心も折れた。耐えきれずに死ぬことを考えてもその勇気すら出ない、そんな絶望の日々を琉斗が送っていたことを、自分は知っていたのに。どうしてそこに思いを寄せてやれなかったのか。


 俺はいったい――何のつもりだ――?


 ドアが開いて、一条が入って来た。化粧水でたっぷり潤った素顔は瑞々しく光っていた。

「琉斗くん、もう寝た?」

「ああ」

 そう、と言って一条は芹沢のそばに腰掛けた。

「ずいぶん愉しそうにはしゃいでたわね」

「そうか」

「気が合うのね。歳は離れてるけど」

「……どうだか」

 芹沢は吐き捨てるように言うと、また大きなため息をついた。

「どうしたの?」

「別に」

 芹沢は寝返りをうって一条に背を向けた。「……また自分が嫌いになっただけ」

「あら、そう」

 一条は肩をすくめ、ベッドに上がって芹沢と並んで横たわると、彼の背中に手を添えて言った。

「その分、わたしが好きでいてあげる」

 芹沢はははっと小さく笑うと、背中に腕を回して一条の手を取った。



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