4 友達よりも


 翌朝琉斗が起きてくると、芹沢がすでに朝食の準備をしていた。 

「――簡単なものでいいだろ。昨夜ゆうべオニ食いしたから」

「うん」

 琉斗は頷いた。本当はもうすっかり胃袋はリセットされていたのだが、日頃は母親の勤務時間の都合でコンビニのおにぎりか前夜の残り物を胃に流し込むだけの朝食が日常だったので、できたての食事にありつけるだけでもありがたいと思った。

「一条さんはまだ寝てるの?」

「起きてるんだけど、すっぴんだから。見られたくないらしい」

 いやいや、すっぴんも可愛いでしょと笑う琉斗に、芹沢は顔を洗ってこいよと言った。

「あ――はい」

 琉斗は洗面所に向かった。ドアが閉まるのを見届けて、芹沢は小さくため息をついた。


 琉斗が戻って来ると、ダイニングテーブルには味噌汁と納豆、生卵、海苔、それにご飯が並んでいた。味噌汁の具はじゃがいもと玉葱だ。

「え、すごい。味噌汁」琉斗は言った。「ちゃんと作れるんやね」

「鍋島が昨夜、食材の残りで作って冷蔵保存しといてくれたんだ」

「……すごいのは鍋島さんやった」

「そういうことだ」

 さあ、早く食べろよと芹沢に促され、琉斗は席に着いた。

 その後も二人は会話は交わすものの、どことなく気を遣い合った。芹沢はどうしても口数が減り、琉斗もそんな芹沢の様子を気にしてあまり話し掛けなかった。そして、普段の癖でつい用もなくスマートフォンを触りながら食べていると、芹沢が「食うか見るか、どっちかにしろ」と言ったので、琉斗はなんだよ、そっちがヘンな壁作ってるからだろと思ったが、黙ってスマートフォンをテーブルに置いた。


 やがて朝食も済み、支度を終えた琉斗が和室から出てくると、芹沢はバイクの鍵を持って「行こうか」と立ち上がった。その無機質な様子を見て、琉斗はどうしてこんなに気まずくなってしまったのかと憂鬱になった。

 玄関で靴を履いていると、寝室のドアが開いて、中から一条が少しだけ顔を出した。

「いってらっしゃい」

 一条は微笑んだ。やはりすっぴんでも可愛らしい。「琉斗くん、元気でね」

「ありがとうございます。お料理美味しかったです」琉斗は頭を下げた。

「またときどき来て、この人の相手してあげて」

 琉斗ははぁ、と芹沢に振り返った。芹沢は肩をすくめ、行ってくると言うとさっさと部屋を出て行った。琉斗はごめんなさい、じゃあと言い残し、慌てて後を追った。

 閉まったドアを見つめながら、一条はため息をついた。

「……まったく、どっちが子供なんだか」


 地下の駐車場に着いて自分のバイクの前まで来ると、芹沢はシートレールからヘルメットを外して琉斗に渡した。そしてハンドルに手を掛けて動かそうとしたところで、ついに琉斗が言った。

「――ねえ、何か怒ってる?」

「いや」

 訊かれることを予測していたのか、芹沢は即答した。

「オレ、何か悪いこと――」

「違う、おまえは悪くない」芹沢は首を振った。「そうだな……実は昨夜、彼女と喧嘩したんだ。しょうもない喧嘩さ」

 嘘ばっかり、と琉斗は思った。昨夜、風呂から出たあと、お互いあんなにリラックスして軽口を言い合っていたのに、しばらくするとあんたが突然、潮が引いたように心を引っ込めたんだ。そして口まで閉ざしたかと思うと、一方的にオレを拒絶し、雑に突き放したんじゃないか。それは今も続いている。それには何か理由があるはずだ。いったい、昨夜のリビングで何があったんだ? 考えろ、思い出せと琉斗は記憶を巡らせた。

「もういいだろ。遅れるぜ」

 芹沢はバイクにまたがった。ヘルメットを被り、エンジンを掛けて琉斗に振り返る。琉斗も鞄のストラップを斜めに肩に掛け、ヘルメットを被ってタンデムシートに跨った。

「掴まってろよ」芹沢は言った。「つまんねえこと考えてたら、振り落とされるぜ」

「警察官のくせに、スピード違反するつもり?」琉斗も言い返した。「捕まるなよ」

 芹沢が床を蹴り、バイクは走り出した。



 五分ほどで中津のバイクショップの前に着き、琉斗はバイクを降りた。そしてヘルメットを胸の前で抱え、上目遣いで芹沢をじっと見据えると、おもむろに言った。

「友達じゃないよ」

「えっ?」

「歳の離れた友達とか言うてたけど……やっぱり違う」

「ああ」

「そうやなくて――」

 琉斗は目線を泳がせながらちょっと気恥ずかしそうにこめかみを掻いた。「お兄ちゃんやな」

「は」

「そう。お兄ちゃんみたいな感じ。歳の離れた」

「それなら川島くんの方が相応しいだろ。歳は近いし、しっかりしてるから」

「さとっちゃんは友達。似たような目標があって、でも全然タイプが違うから、刺激になるし、逆に焦ったりもする。あんなに頭のいいヤツ相手にライバルって言うたらあつかましいけど、あんな秀才にもやっぱり高いハードルがあって、それを越えるのにコツコツ努力してるんやと思たら、オレも頑張れる。大事な友達や」

「そうか」と芹沢は頷いた。

「――でさ。兄弟やったらさ。ちょっとばかり手荒なこともするやろ。さ」

 琉斗は言い、またちらりと上目遣いで芹沢を見た。「男同士やと、ふざけてやる喧嘩も手加減無しやって、さとっちゃんも言うてた。手加減を知らん子供の頃の調子が、ずっと続くって。でも、お互いどんなにやられても、次またそれに挑もうとするんやてさ。そのときはめちゃくちゃ腹が立ってもう二度と相手にせぇへんって心に決めるんやけど、気付いたらまたムキになってるって」

 芹沢は何も言わずに琉斗を見つめた。そう、琉斗は気付いたのだ。なぜ急に芹沢の態度が変わったのか、その理由に。

「ま、オレ、ひとりっ子やからさ。実際、きょうだいってあんまよう分からんのやけど」琉斗は首を傾げた。

「俺も上が女ばっかの末っ子だから、よく分かんねえな」

「分からんもん同士やな」と琉斗は笑った。「芹沢さんは恩人や。崩壊してたオレの家族を、ちょっとはまともな方向に軌道修正してくれた。それは忘れてへんよ。せやから甘えついでに、家族をオレの理想の形に近付けるのに手を貸してもらおうと思ってさ」

「それがお兄ちゃんで補完されるってわけか」

「え? ホカン?」

「いや、いい。話の腰を折る」

「もちろん、ホンマにお兄ちゃん扱いしようとは思ってないよ。でも、そんな風に思うから。思うことにしたから。ええやろ?」

 芹沢は黙って頷いた。

「プロレス技でも空手技でも、何でもかけてええよ。ヘンな顔するかもやけど、それかて気にせんでええから」

「許可なんかすんなよ」芹沢は苦笑した。「じゃあその仮想兄貴が忠告するよ。もう行け、ホントに遅刻だぜ」

「あっヤバい」

 琉斗は腕時計を見た。そしてヘルメットを芹沢に渡してにこっと笑った。「いろいろありがとう」

 芹沢はエンジンを吹かせた。「じゃあな」

 琉斗は頷き、店の入口に向かって走って行った。ところが急に振り返り、両手で口を囲って叫んだ。

「そうや! ホカンってなにー⁉︎」

「てめえで調べろ、入試に出るかも知んねえぞ――!」

「ケチー!」

 琉斗の声を背に、芹沢は走り去った。何がケチだ、ふざけんなよと思った。腹いっぱいメシ食わせて風呂と寝床まで提供したのに、その言われようはあんまりだろ――まぁ、俺は一銭も出してねえし、何も作ってもいねえけど。

 で、その結果、仮想兄貴という謎のポジションに就かされたというわけか。

 まぁいいよ、好きにしてくれと思いながらも、芹沢は救われた気持ちになっていた。

 昨夜、俺はいったい何のつもりなんだと自分に嫌気がさしたのを、琉斗が「お兄ちゃん」だと答えをくれたのだ。兄弟だから、ふざけ合うのに遠慮なんてなくていいんだよ、これからもそれで行こうよと言って、俺のくだらねえ罪悪感を拭ってくれた。

 人が嫌いで、人に煩わされるのがもっと嫌いで、人に迷惑をかけるのが一番嫌いだった。だけど知らないうちに俺は、それら全部に巻き込まれ、自らも巻き込んで毎日を生きているんだな――。


 めんどくせえなと思いながら、今度は少し誇らしい気分になった。



 マンションに帰って、部屋のドアを開けると、目の前に一条がいた。

「……びっくりした」

「お帰りなさい」

 一条は昨日琉斗たちに貰ったアレンジメントフラワーをシューズボックスの上に置いて、グラスの水を差していた。

「いい子ね」一条は言った。「あんなに懐いてくれて。あなたにはもったいないかも」

「そうだな」と芹沢は頷いた。「……お兄ちゃんだってよ」

 へえ、と一条は目を細めた。「ただそのお兄ちゃんのこと、ひとつも見倣みならってほしくはないけど」

 分かってますよと芹沢はため息をついた。「じゃあ、いよいよメインの誕生日祝いだな」

「お店はリサーチしてあるわ」一条は人差し指を立てた。「あとは予約の電話を入れるだけ」

「空いてそう?」

「大丈夫でしょ」と一条は肩をすくめた。「あんな高いとこ、そうそう埋まらないわよ」

 芹沢は悲壮感いっぱいの顔になった。「……俺、来月まで水飲んで暮らさなきゃなんねえの?」

「昨日たくさん食べておいて良かったわね」

 一条はにっこりと笑った。


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