5 その節はどうも
「――侵入経路は非常階段か」
鍋島は出てきた芹沢に訊いた。
「ああ。ベランダの西側に半分だけだが靴跡が残ってる。非常階段から乗り越えるときに付いたんだろうな」
芹沢は答えると仁美を見た。軽く頭を下げ、平坦な口調で「どうも」と言った。
「……お世話掛けます……」
仁美は生返事をしながら記憶を辿らせた。
(どこやったかな……)
「手がかりはそれだけか」鍋島が言った。
「今んとこはな。けど、こりゃど素人だぜ」
「と言うと?」
「ま、俺も専門じゃねえから分かんねえけどよ。とにかく、やり方が何もかも、大胆と言うより雑なんだよ。明らかに本職の仕事じゃねえな。さすがに、指紋まで残すようなバカはやってねえみたいだけど」
「見つかったところで、
「だろうな」
「けどそんなちゃちなやり方で、よう誰にも見付からんで済んだな」
「運が良かったんだろ。それにこのあたりは、夜七時を回れば
そのあいだも仁美はずっと芹沢の端正な顔を見つめていた。それを見た鍋島は、芹沢を初めて見たほとんどの女性がそうであるように、仁美も彼に
「何か?」
仁美は待ってましたと言うように頷き、言った。
「あの、こんなときに大変失礼かと思いますけど」
「はい?」
「どこかで、お会いしませんでしたか?」
「俺とですか?」芹沢は自分を指差した。
「……大阪中の女と知り合いなんやな」
鍋島が吐き捨てるように言って首を振った。
「どうだっただろ……」
芹沢はじっと仁美を見据えながら首を傾げ、人差し指でこめかみのあたりを掻いた。「最近ですか?」
「ええ、そうやったと思います」
そう言うと仁美は気を取り直したように頷いて言った。「すいません、つまらないこと言うて。どうぞ本題に戻ってください」
オチの部分のない謎かけを聞かされたようで、芹沢は心地の悪さを感じながら鍋島に振り返った。鍋島も同様の気分らしく、腑に落ちない様子で肩をすくめ、言った。
「ほな、被害状況を確認してもらってもええか」
「どうぞ。中はもう済んだ」
「じゃ、お願いします」鍋島は仁美に言った。
仁美は何か言いたげな顔を二人の刑事に向けながらドアをくぐった。刑事たちはそれに続いた。
芹沢の言う通り、プロの仕事ではない荒業だった。クロゼットやチェスト、ドレッサー、本棚からベッド、オーディオラックの中まで、とにかくひっかき回されている。犯人はどうやらかなり急いでいたようだ。窓ガラスを割るときに音を立て、誰かに気づかれたのではないかという不安でもあったのだろうか。これが常習犯の仕事なら、もっと綺麗にやるはずだ。
「――相当追い詰められてたか、かなりのいらちか」
玄関口に立ち、仁美が奥の部屋を調べているのを見守りながら、鍋島は隣の芹沢に言った。
「そんな感じだな」芹沢も同じ方向を眺めながら答えた。「それとも、彼女がすごく用心深いのかもな。すんげえお宝をどこか絶対に見つからねえ場所に隠してて、犯人はそれをなかなか見つけられなかったとか」
「けど、こう言うたらあれやけど、エロい欲求を満たすためならまだしも、金が目当てで一人暮らしの若い女の部屋を狙うってのもなあ。もっとでかい家で、それでいて楽に入れる実入りの良い獲物があるやろ」
「信じられねえほどの大金をどっさり貯めこんでる女だって、
「そういう女に貢がせるだけ貢がせといて、飽きたらポイ捨てする男もいてるよなあ」鍋島は芹沢を見上げた。「ホストでもなんでもない、ただの公務員のくせに」
「何の話をしてるのか分からねえな」
芹沢は平然と言うと、部屋に上がって仁美に声を掛けた。「どうです、何が盗られてます?」
「それが――大事なものはほとんど実家に置いてあって、ここにあるのは高くてもせいぜい十万前後のアクセサリーと、財布代わりに使ってる銀行の通帳だけなんです。それも全部、盗られずに残ってます」
「カード類は?」
「財布に入れて持ち歩いているから、無事でした」
「ハイブランドのバッグとか洋服なんかはどうです?」
「いくつか持ってますけど、どれも使い込んであるし――換金できるような上物ではないです」
「なるほどね」
空き巣に部屋を荒らされたショックを隠し切れないはずの彼女が『換金できるような上物』などどいう言葉を使ったので、芹沢は思わず頬を緩めた。しょげ返っているようで、案外気丈で現実的な女性なのかもしれない。都会で一人暮らしをしていれば、たいていの人間がそうならざるを得ないのだ。
仁美が言った。「さっきあちらの刑事さんに被害届を出してくれって言われましたけど、これでは何も書けませんね」
「いいえ、部屋をめちゃくちゃにされているんですから、立派な被害です」
「そうですか……」
仁美はため息をついた。ほっとしているような途方に暮れているような、どちらともとれるため息だった。
芹沢が後ろを振り返ると、いつの間にか鍋島がいなくなっていた。煙草が吸いたくなったんだなと芹沢は思った。玄関口に行ってドアから顔だけを出し、すぐそばにいた制服警官に「
警官は苦笑して頷いた。肩に装着した無線で一階の同僚を呼び、「巡査部長に戻るように伝えて」と言った。
ほどなく鍋島が戻って来た。目が「バレたか」と語っていた。
「盗難の被害は無しだ」
「そうか」と鍋島は平然と頷いた。
「ま、とりあえず被害届だな」
そして芹沢は仁美に振り返った。「じゃ、お願いできますか」
「はい」と仁美は立ち上がった。部屋の中央に置かれたテーブルの足下にあるバッグを掴み、空いた手でスカートの皺を直した。柔らかなブルーのアンサンブルニットに薄いベージュのスカートという春らしい格好で、肩のあたりまでのセミロングの髪を自然な感じに遊ばせて、すっきりと顔を出している。自然だが引き締まった仕上げのメイクは、仕事から戻ったばかりだと言う本人の状況を表していた。視力の悪そうな潤んだ瞳を少し細めて、相変わらず記憶を辿るような表情で芹沢を見上げていた。
やがてその瞳は、何かを閃いたように大きくなった。
「思い出した……」
「はい?」
「一週間ほど前、堂島のレストランでお食事なさってませんでしたか?」
「……ええ」芹沢の顔に戸惑いの色が浮かんだ。
「あのとき、あたしが落としたライターを――」
「あ、そうか……」と芹沢は頷いた。「あのときの――」
仁美は芹沢をじっと見据えながら頭を傾けた。いくぶん挑戦的な態度だった。「あのときはありがとうございました」
「あ、いいえ」
「お連れの女性、とても綺麗な方でしたね」
「あーいや、そんな……」
芹沢は慌てて手を振りながら言った。隣を見ると、明らかに軽蔑した表情の鍋島が、短いため息をついて彼を見つめていた。
仁美は心の中で舌を出した。あのとき、この刑事が一緒だった女性は、彼が本命の恋人との格差に自棄を起こし、浮気心を出して誘った相手だということを知っていたからだ。ライターの仕返しだわ、と仁美は思った。もちろん、彼が親切であれを拾ってくれたのは分かっていたが、その大きなお世話のせいで自分は窮地に追い込まれたのだし、度量の小さな浮気男にはそれくらいの皮肉は構わないと思った。
「悪いことはでけんな」鍋島が言った。
「うるせえ」
芹沢は吐き捨てると部屋を出て行った。
※「いらち」……せっかち。
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