5 現われた狂気


「――峰尾さん。あなたの車のトランクから検出された毛髪と、田村芙美江さんのアパートに残っていた衣服に付着していた毛髪を簡易鑑定に掛けた結果、同一人物の可能性が極めて高いことが分かりました。さらに詳しいDNA鑑定にも回してありますので、その結果が出ればより確実に証明されると思います」

 取調室の硬い椅子に身体を預け、鍋島は向かいの峰尾をじっと見つめて言った。

「へえ、そうですか」

 峰尾はぼんやりと答えた。視線はずっと宙を泳いだままだった。

「田村さんの遺体をトランクに入れて運んだんですね」

「そういうことになりますかねえ」

 峰尾がそう言うのを聞いて、鍋島の斜め後ろで丸椅子に座り、壁に背をつけて腕組みしていた芹沢はふんと鼻を鳴らした。

 芹沢にちらりと振り返って、鍋島はまた前を向いた。「彼女はもともと、東栄商事の社員だったそうですね。内田啓介さん――今、あなたの部下でしたね――その内田さんの恋人だったとか。それをあなたが無理矢理別れさせて、自分の愛人にしたと聞いています。本当ですか」

「無理矢理自分のものにしましたが、内田と別れさせたなんてことはありません。私と芙美江の関係に気付いた内田が、勝手に彼女に別れを持ち掛けたんです」

「無理矢理自分のものにしたとは、どういうことですか」

「横領――内田の横領の件はご存じですか?」

「ええ。大まかなことは」

「そのことがきっかけに内田との仲がおかしくなり始めたとき、内田と喧嘩した芙美江は、会社の帰りにデパートで万引きをしてしまったんです。男性物のハンカチ一枚でしたけどね。よほど悩んで、追い詰められていたんでしょう。それを私が偶然目撃していて、彼女が店員に問い詰められているところを私が助けに入ったんです。この女性は私の部下で、私に頼まれたハンカチを見つけて、これでいいのか私のところへ持ってこようとしていただけだとね」峰尾の口調が徐々に滑らかになってきた。

「それをネタに関係を迫ったんですね」

「ええ。高校を出てからずっと自活していた芙美江にとって、職を失うことは何より怖いことだったようです。そのときはまだ私は知りませんでしたが、会社の金に手を付けたことが発覚することも恐れていましたから、私を味方につければ何とかしてもらえると思ったらしいですよ。のちにそのことを告白したのも、そういう、藁にもすがる思いが生まれたようです」

「で、結局は内田さんと別れることになって、彼女にはあなたしか頼る人物がいなくなった」

「そういうことです」

「彼女は内田さんと別れてすぐに会社を辞めていますね。それからひと月ほどして坂口郁代さんと同居を始めている。あなたはそれをすんなりと許したんですか」

「あれだけは芙美江は強く主張しました。結局は会社も辞めてしまったことだし、何から何まで私の言いなりになるのが嫌だったんでしょう。私との関係は続けるけれど、どうしてもあのホステスと同居したいと言って――じゃあ私はどこでおまえに会えばいいんだと訊いたら、ホテルにしてくれ、その金も払ってくれなくていいと。本当は人目に付く危険のある場所で会うのは嫌でしたが、聞き入れてやることにしたんです」そこで峰尾はふっと笑った。「意地だったんでしょうかね? 自分はただ好きでもない男の愛人ってだけではないという」

 さあ、と鍋島は首を捻った。峰尾の落ち着き払った態度が気に食わなかった。

「彼女との関係はどれくらい続いたんですか。今年の一月までずっとというわけではないでしょう」

「ええ。去年の……ちょうど今頃に別れました」峰尾は答えた。「それからずっと会っていませんでしたよ。別れるときに多少の金は渡しましたし、彼女も異存はなかったようでしたから、それっきりどうしているのか、まったく知りもしませんでした」

「ところが去年の十二月、再会した」

「そうです。携帯に電話がかかってきて、相談があるから会いたいと。私は断りましたが、芙美江が強く言ってきたので仕方なく。まあ、一時は深い仲だったわけですし。そう強く頼まれては無下にも嫌とは言えませんし――それに彼女はあの通りの美人でしたから」

「どこで会いましたか」

「梅田のホテルです。食事をしながら話しました」

「彼女の用件は」芹沢が訊いた。

 峰尾は眉をひそめてため息をついた。「……案の定、金でした。三百万都合してほしいと言ってきましたよ」

「それはまっとうな融資の申し出ですか、それとも――」

「脅迫です」と峰尾は即答した。「調べてあるんでしょう。例の贈収賄疑惑の件も」

「ではやはり、あなたは医師の娘の大学入試に関して便宜を図ったんですね」

「そうですよ」

「田村さんはそのことを知っていて、あなたを脅迫してきた?」

「ええ。あの話が持ち上がったのは、ちょうど芙美江と私の関係が始まった頃で、彼女があのホステスと暮らす前に借りていたマンションの部屋を使って医者といろんな相談をしましたから。医者は芙美江のことを気に入って、どうにか一度と私に頼んできたこともありましたよ。私は芙美江を説得して、医者の相手もさせました。芙美江は渋々でしたが」

 どこまでも汚いやつだ。二人はそれぞれの心の中で吐き捨てた。鍋島は何とか気を取り直し、顔を上げて言った。

「彼女の横領を知ったのはいつですか」

「去年の二月頃だったと思います。その裏口入学の話が決着した頃でしたから」峰尾は答えた。「あ、確かその頃です。マンションを訪ねて行ったら芙美江は留守で、代わりにあのホステスが出てきたのは」

「なぜマンションを訪ねて行ったんですか」

「その日の朝に芙美江が思い詰めたような声で電話してきて、話があると言ったんです。それで会う約束をしたものの、どうも気になりましてね――ほら、医者との話も全部知ってるわけですから、何か良からぬことを考えてるんじゃないかと。それで、仕事の合間につい」

「彼女はなぜあなたに自分の横領の話を打ち明けたんでしょうね」

「会社を辞めてしばらくしてから彼女が偽名を使っていることに私が気付いたんですよ。村田江美子と書いた名刺を何枚か持っていたのでね。問い質したんです」

「そこであなたは横領の事実を聞いて、内田さんを自分の部下に引き抜く計画を立てた。田村さんと同じように、何かのときに利用価値があると思ったからや。違いますか」

「その通りです」と峰尾は頷いた。「会社勤めをしている男は、女よりももっと従順ですからね。何しろ人生がかかっている。特に内田は脅しには弱いタイプだと睨んだんです。下っ端のヤクザに凄まれたくらいでさっさと金を用意するような人間ですよ。しかも女の知恵を借りてね。軟弱な男です」

「彼女と別れたのはなぜですか」

「例の医療機器疑惑の件で、マスコミが私の周りを何かと嗅ぎ回るようになったんでね。彼女の存在が露見するのも時間の問題だと思ったんですよ。だから関係を切りました」

「――話を元に戻しますが、あなたは三百万円という彼女の要求を吞んだんですか」

「ええ、とりあえずはね。というのも、半年以上も経って彼女がそんな話を言ってくるのはおかしいと思ったんです。もしかしたら、後ろで男が糸を引いてるんじゃないかと思いましてね。それで、一旦は承知しておいて、あとでじっくりそのあたりのことを調べるつもりでした。内田がチンピラに脅されてすぐに金を用意したのとはわけが違いますから。そこを一緒にしないでくださいよ」

「金は払ったんですか」

「三百万はね。十二月の十日頃に、彼女の指定した口座に振り込みましたよ」

 峰尾は言うと苦々しい表情で首を振った。「そこでやめておけばいいものを、また――」

「再度要求してきた」

「そうですよ。今度は五百万です」と峰尾は目を見開いた。「そうか、早速エスカレートさせてきたなと。男が指図しているに違いないとも思いました。だからもっと詳しく探るために、彼女の住む高槻へ足を運んだんです」

「それが十二月二十六日。駅前のハンバーガーショップですね」

「ええ。さすがによくお調べですね」と峰尾は感心したように微笑んだ。「ところが、会ってみるとどうも男の気配がない。だから余計に不思議でしたよ。なぜ急に金を要求してきたのか。あの女はそんな女じゃないんです。世間の、脳みそが空っぽの女ども違って、金に目の色を変えるタイプじゃない。そんな彼女がどうして今になって金を要求してきたか、腑に落ちないと同時に、無性に腹が立ってきましてね。おまえはそんな女じゃないだろうという思いが止められなくなって、思い知らせてやろうと思ったんです」

「何をですか」

「おまえのような女が欲に目を眩ませると、きついお仕置きが待っているということをです」

 峰尾は何食わぬ顔で肩をすくめた。(何を今さらわかり切ったことを)とでも言いたげだった。

「……どんな女やて言うんですか、彼女は」

「男の言いなりになっていればいい女です」

「何やて?」

 鍋島は峰尾を睨みつけた。逆に芹沢は俯いてふふっと笑った。

「男を立てて、男に尽くして、男の慰めになって。ただそうしていればいい女です。それしか価値のない女です」

「……馬鹿なことを」

「馬鹿なのはあの女です。施設育ちのくせに、うちのような会社に入れたのがそもそもおかしいんです。美人で学校の成績が優秀なら当然だと本人は思っていたようだが、とんでもない。東栄商事は、学歴もなく、親が誰だかも判らないような人間が働ける会社じゃないんだ」

 峰尾はだんだんと興奮し始め、腹立たしげに机を叩いた。「それを内田や私が可愛がってやったのをいいことに、あの女はとんでもない思い違いをしたらしい。私から金を巻き上げようなどとは……会社の金はうまく拝借できたかも知れないが、私はそうはいかない。そのことをあの女に分からせる必要があったんだ」

「それで殺したってことか」

「そういうことだ」

「どうやって」

 峰尾の視線がまたふわふわと宙を漂い始めた。芙美江に手を掛けたときのことを思い出しているのか、ときどきその目に狂気の光が浮かんでは消えた。

「――金を払うと言って、一月三十日にあの女のアパートへ行った。振込みにしなかったのはもちろん、金を渡してしまうつもりなどなかったからだ。女は最初は拒んだが、人目に付きたくないと言い張って、何とか部屋に案内させた。女は風邪気味だと言っていた。睡眠薬で眠らせるつもりだったから好都合だった。風邪薬を飲むときにコップに水を入れてやり、睡眠薬を混ぜて眠らせた」峰尾は切れ切れに淡々と話した。「眠ったところを首を絞めた。それから部屋中を調べて回って、自分とあの女の関係が分かる証拠を探した。そのとき、突然女が息を吹き返して騒ぎ始めたから、咄嗟にキッチンの包丁を取って女を風呂場まで追いつめ、今度は失敗のないように刺した。胸と、腹と、首も刺した。血が大量に出たが、あとですっかり拭き取るつもりだったからいくら出ても平気だった。あの女の顔や衣服が、真っ赤な血でみるみる染まって――あの女は、血まで綺麗だったよ。ルーツのない女で、血筋はどうだったかは分らんがね」

 芹沢が立ち上がり、峰尾に向かって来るのを鍋島の左手が抑えた。芹沢のジャケットの脇腹あたりを掴み、口を真一文字に結んで峰尾をじっと睨み付けている。芹沢はデスクに右手を突き、彼もまた峰尾を凝視したまま唇を噛んだ。

「……先を話せ」鍋島が言った。

「夜中になるのを待って、高槻駅の近くに停めておいた車を取りに行った。遺体を運び出し、そこから二時間以上走って山に入った。用意しておいたシャベルで土を掘り、女を穴の中に落とした」

「戻ってきて部屋を片付けた?」

「ああ。時間がかかったね。翌日はヘトヘトだったよ」峰尾は明るく笑った。「もう若くないね」

「そのあとの家賃はあんたが払ろてたんか」

「そうだ。振込先は女の部屋に控えがあったからすぐに分かった」

「で、七時半頃に駅前で坂口郁代に会ったんだな」芹沢が訊いた。

「ああ。女に会いに行く前、車を停めて駅の裏手から出てきたところ声を掛けられた。誰だか咄嗟に分からなかったが、あまりにもあの女の愛想が良かったから、つい会釈を返してしまったよ。あとで思い出したときにはもう遅かった。だからあの女もいずれ消すつもりだったが、こともあろうにその前に逮捕された。そしてアリバイ主張のために私の名を挙げたが、もちろん認めるわけにはいかなかった。そんなことをしたら私が破滅するからだ」

「そして内田に口裏を合わさせたのか」

「そういうときのために、あの男には目を掛けてやってたんだ。あいつには横領という脛の傷があったからな」と峰尾は言った。「それ以外では用無しだ。たいして有能でもないのに、私の下で働けるのが分不相応というものだ」

「佐伯葉子さんを脅迫したのもおまえか」

「あの女については内田に任せた。詳しいことは内田に訊け」

 そう言ったのを最後に、峰尾は刑事たちの質問にはまるで答えなくなった。相変わらずあらぬ方向ばかりに視線を泳がせ、時折にやりと笑った。東栄商事の部長室で会ったときの紳士的な風貌とは、似ても似つかぬ不気味さ、醜悪さだった。

 やがて峰尾は口を開いた。誰に話すでもなく、意識は自分の内側に引きこもったままらしかった。

「――私に逆らったから死んだんだ。おとなしく人形をやっていればいいものを、金なんか欲しいと言い出すからだ。男の言いなりになるしか価値のないつまらない人間のくせして、自分一人で生きたいと言って……これだからああいう手合いは困る。犬猫じゃあるまいし、親がどこの誰かも判らないなんて、下劣な人間の典型だ。死んで当然だ」

「……何を言うてる」と鍋島は峰尾を睨んだ。「おまえこそゲスや」

 その様子を見て峰尾はくっくっと笑い出し、そして言った。

「分らんのかね。私はね、妻の無念を晴らしているのだよ」

「奥さんの?」

「ああ。私の妻こそこの世で最も素晴らしい女性だ。これ以上はないという教育を受けた、由緒正しい家柄の娘だ。美しく、気品があって、私に相応しい女だ。その妻が病に倒れ、死人同然となったのに、他の女どもがのうのうと生きているなんて私には許せない。もし死刑にならなかったら、次に出てきたときも女どもを何人も殺してやる。そうすれば妻も満足して、喜んでくれると思うよ」

 峰尾は言うと今度はとても愉しそうに笑った。旋回し続けている視線は、間違いなく妻を見つめていた。

「――馬鹿な女どもは皆殺しだ。妻への供物にするんだ――」

「……こいつ」鍋島は唖然と峰尾を見た。「芹沢、あかんぞこの男」

「そうみてえだな」

 芹沢は立ち上がり、ゆっくりとした足取りで部屋を出て行った。

 廊下を横切って刑事部屋に入ると、芹沢はデスクの課長に言った。

「課長。全部やりなおしです。その前に、阪和館はんわかん大の志賀しが先生に連絡を取っていただけますか」

 課長は顔を上げ、怪訝そうに芹沢を見つめてから言った。

「……狂ってるんか」

「俺たちにはそう見えます」

 芹沢は言って、うんざりした顔で前髪を搔き上げた。



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