6 大逆転の朝


 カレンダー通りに働いている身にとっては疲れが出始める水曜日の朝だった。

 仁美は実家のダイニングで朝食を摂っていた。

 わずか十五分で会社に着く東天満のマンションではなく、京都のど真ん中からとあってはだんだんと気が重くなっていた。一時間以上も満員の電車に揺られなければならない。自然と食事のスピードが落ちる。欠伸を噛み殺しながらトーストを口に運び、テーブルに広げた新聞の記事に目を落としたが、今やニュースの確認はもっぱらネットだ。紙の媒体にはもう馴染まない自分がいて、まったく頭に入ってこなかった。

「――ほら仁美、早よ食べて行かんと遅れるえ」

 ガラス戸を開けた廊下を通り過ぎながら母親が言った。

「分かってる」

 するとすぐに洗濯かごを抱えた母親が戻って来た。「今日からまたマンションに戻るの?」

「そのつもり。通勤がしんどくなってきたし」

「空き巣が捕まってからにした方がいいって、お父さんも言うてはったのに」

「そんなん待ってたら、いつまで経っても帰れへんわ」

 仁美は新聞を閉じて立ち上がり、食べ終えた食器をキッチンのシンクに置くと、そばの椅子に置いたショルダーバッグを肩にかけ、ジャケットとボストンバッグを持った。

「ほな行くわ」

 そのときだった。突然、それまではただ流しているだけで気にも留めていなかったテレビのニュース音声が彼女の耳に入ってきた。

「――大阪からのニュースです。大阪府西天満警察は昨夜、昨年十一月から行方が分からずに家族からの捜索願が出ていた女性のアパートから大規模な血液反応を確認し、現場に残っていた指紋から、この女性の知人で、兵庫県西宮市に住む会社役員の男性を割り出して事情を訊くと同時に男の所有する車を調べたところ、女性のものと思われる毛髪などの痕跡を発見しました。そして男からも女性を殺害したとの供述を得たため、今日未明、この男を殺人の罪で逮捕しました。殺された女性は大阪市高槻市に住むスナック従業員、田村芙美江さんで、男は田村さんの遺体を兵庫県川辺かわべ郡の山中に埋めたと供述しており、西天満署では今朝から現場山中の捜索を開始するとともに、この男からさらに詳しい事情を訊いています――」

 仁美は呆然とニュース画面を眺めていた。腕からジャケットとボストンバッグが落ちたのにも気付かないでいた。

「――仁美、どうしたの?」

 母親が部屋に入ってきて、仁美の足元に落ちたバッグとジャケットを見て言った。

「……ううん、別に」

 仁美は画面を凝視したまま膝を曲げ、手探りでバッグの持ち手を掴んだ。




「――み、峰尾部長が?」

 内田は飛び上がった。デスクからはみ出していたファイルが踊り、その上の紙コップがひっくり返って、零れたコーヒーがあたりに広がった。

「あーあ、内田、なにやってんにゃ」

 同僚は慌ててファイルを取り上げた。

「……た、逮捕されたって、どういうことだよ?」

 内田は同僚の肩を掴んで彼の顔を覗き込んだ。自分でも冷や汗をかいているのが分かった。

「しーっ、声が大きい。俺もよう知らんよ、エレベーターの中で誰かが話してるのがちらっと聞こえてきただけなんやから。けど、去年のほら――贈賄疑惑の絡みではないみたいや」

 同僚は言うと内田の顔をまじまじと見た。「どうしたんや、悲愴な顔して――あ、そうか、おまえ部長に結婚式の媒酌人頼んでたんやもんな。まずいよな」

 内田は椅子に崩れ落ちた。ワイシャツが汚れるのも気にせず、コーヒー溜まりの上に両肘を突いて頭を抱えた。

「おしまいだ――」

「え、何やて?」

 同僚が気遣ってくれるのをよそに、内田はデスクに顔を埋めて髪を掻きむしった。するとあの若い刑事たちの顔が浮かんだ。

 とうとうこの日が来たのだ。峰尾に横領の件を知られた時点で、もう逃げられないと覚悟はしたものの、実際にそうなってみると何とか自分だけは罪を逃れたいという気持ちが、やはり頭の中を支配した。しかし、それはもう無理だと分かっていた。


 ――もう諦めろ啓介。これがおまえの運命なんだ。今さらどう足掻いても、おまえ一人の力ではどうしようもないことなんだ。こうなることはずっと前に決まってたんだ。そう、きっとあのヤクザの車に追突したときから――。




 とうとうやった、と持田はデスクの上で拳を握り締めた。

 リモコンを取り、テレビ画面に向けてボリュームボタンをMAXの向きに押した。饒舌のアナウンサーの声が、静かだった部屋全体に広がった。

「――この会社役員の自家用車から発見された毛髪と、田村さんの自宅アパートから見付かった毛髪とを鑑定した結果、同一人物のものであると断定されたことから、役員を追及したところ、犯行を自供したものです。なお、この役員の男性はかねてから田村さんとは親しい関係にあった模様で、二人の間に何らかのトラブルがあり、男性が田村さんを殺害するに至ったと警察は見ています。また、この男性は、昨年の国立療養所K病院における肥満児カウンセリング施設の設置に関連した贈収賄疑惑の業者側の中心人物であり、西天満署はこの件に関しても、直ちに大阪地検と協力体制をとり、一連の疑惑解明に乗り出すものと見られています――」

 持田は飛び跳ねるようにして椅子から立ち上がった。デスクに広がった書類を搔き集めて抽斗に流し込むと、その下に椅子を押し込んだ。そして大きな鞄を抱え、コートハンガーに掛けたジャケットを取ってドアに向かった。

「――これで勝ちだ」

 持田は呟いて鍵を回し、軽やかな足取りで廊下を歩いて行った。




 昼休みに入るや否や、仁美は使用されていない会議室に入ってスマートフォンを取り出した。

 すでに暗記していた番号だった。朝から何度か掛けたがなかなか掴まらない。彼らの状況を考えると理解できたが、それでも仁美は諦めて仕事に集中するということができず、ただもどかしい思いで午前中を過ごしたのだった。

 そしてようやく光明が見えてきた。応対に出た人物が、相手の名を告げると「お待ちください」と取り次ぐ様子を見せたのだ。

 しかしその瞬間から、仁美の心臓が息詰まるほど高鳴り始めるのが分かった。それと同時に、明らかにそういう恋心とは別の、何とも形容のし難い期待と不安が彼女を押し包もうとしているのも事実だった。

《――はい》これまでより少し翳りのある声が言った。

「あ、辻野です――」

 ああ、と芹沢は一息ついた。《知ってるのか、もう》

「うん。今朝のニュースで」

《ならその通りだ。また夕方に記者発表があるから、そのあとで詳しく流れると思う》

「やっぱり芙美江さんは殺されてたんやね」

《やつはそう言ってる》

「遺体は見つかったの?」

《見つかったら発表がある》

「ということは、まだなんや」仁美は息を吞んだ。「……それで、峰尾は葉子のことも……?」

《まだ訊き出せてない》

 芹沢は手短に言うと小さくため息をついた。《悪いけど、これ以上は言えねえんだ。裏が取れてねえから》

「あたしは報道の人間と違うわ。記事に書いたり、誰かに喋ったりするつもりで訊いてるんやないし」仁美はいくぶん強い剣幕で言った。「USBを見つけたときみたいな野次馬気分でもないわ」

《やっぱ野次馬気分だったんだ》と芹沢は笑った。

「……ええやない、それは。とにかく葉子が心配なだけ」

《分かってるよ。けど、とにかく全部はっきりするまでは言うわけにはいかねえんだ》

 ここで芹沢はようやく口調を和らげた。《それに、あんたはちょっとヒントを与えちまうと、すぐに勝手な行動をとるからな。要注意人物だ》

「からかうのはやめてよ」

《からかってなんかねえよ》と芹沢は即座に言い返した。《いいか。今まではただ佐伯さんの残したメッセージをめぐって、俺と鍋島があんたや持田先生とあれこれ勝手な推測を立てて好きなように動いてりゃいいだけの話だったけど、峰尾が殺人と贈賄を自供した今となっちゃ、これはただの推理ごっこじゃなくなったんだ。府警の扱う、極めて重大案件になったってことさ。地検も今日には動き出す》

「今度こそあたしは部外者やて、そういうことなんやね」

《その通り》

「じゃ、あたしが被害に遭った空き巣や脅迫のことは?」

《そこも今から詰めるところだ》

「内田は逮捕されたの?」

《いや、まだだ》芹沢は素っ気ない口調に戻った。《いいから、もう訊かないでくれ》

「分かったわ。ただ……無理を承知でこれだけはお願い。万が一、もしもよ。もしも葉子の、その――」

《遺体が出たら言うよ》

「お……お願いします」

《分かった》

「それから」

《うん?》

 芹沢が優しい声を出したので、仁美の心臓が弾けた。耳の後ろが熱くなり、鼓動を落ち着かせるために肩で息を吐いた。

「いいわ。何でもない」

《何だよ、言えよ》

「ええねん」

《思わせぶりなことするなよ。らしくないぜ》

 仁美は迷っていた。言わない方がいいと分かっていたが、彼の声を聞いているうち、結局は訊いてみたいという気持ちが勝った。

「この前、言うてたやん。あたしのこと『あんたは別』って」

 芹沢は黙っていた。そして、しまった、やっぱりやめておけばよかったと仁美が思った直後、

《そうだっけ?》

 と、まるで悪びれもしない口調で返事を返してきた。

「え……あ、憶えて……ないんや」


 ――何を期待していたのよ。馬鹿じゃないの。――


 仁美の全身から力が抜けた。それに代わって胸が苦しくなる。

「そ、それやったら別にええの。ほら、あたしも、何やったんかなあって、まったく見当がつかなくて、ちょっとほら、引っかかってただけやったから――」

《そうなんだ。なら悪かったな》と芹沢は笑った。《たぶん、大意は無かったと思うから、気にしないでくれよ》

「――分かった」仁美は言った。声が少し震えていた。「ほな切るわ。忙しいところごめんね」

《じゃあな》

「――じゃあ」

 そっと電話を切った仁美は、虚しいため息をつくとそのままそこから動けなくなってしまった。


 同じようにゆっくりと受話器を置いた芹沢は、デスクに肘を突くと、こめかみのあたりを掻きながらふっと短く笑みを漏らした。

「――あ、女と電話したあとでにやにや思い出し笑いとかか。キモ」

 コーヒーを手に隣の席に戻ってきた鍋島が言った。

「違げぇよ。苦笑いだ」

 鍋島はコーヒーを一口飲むと言った。「同じようなもんや」

 芹沢は頬杖を突いて鍋島をじっと見ると、困ったような口調で言った。

「――女ってのはよ、こっちが何気に言った言葉でもよく憶えてるもんなんだな」

「あれ、今の電話、警部か」

「なわけねえだろ。この電話だぜ」と芹沢はデスクの電話を指で叩いた。「……辻野だ」

 鍋島は片眉を上げた。「何が言いたいのか知らんけど、いつまでもとぼけた真似するのはやめろよ」

「何だそれ」

「辻野の気持ちや。気付いてるくせに」

 芹沢は黙って目を伏せた。

「応えるつもりもないのに、引っ張るなんて卑怯やぞ」

「引っ張ってなんかいねえよ。思わせぶりなことさえ――言ってねえ」

「何やそのは」鍋島は厳しい表情になった。「おまえはそのつもりでも、相手はそうは思わへんのや。どうせその気がないんやから冷たくしろ。冷たくして嫌われろ」

「厳しいな」

 芹沢は苦笑して呟くと、すぐに真顔になった。

「後悔しても遅いわ」と鍋島は吐き捨てた。「――ま、せいぜい悩め」

「うるせえよ」

 そのとき、「おい、鍋島に芹沢」と課長が二人を呼び、彼らと目が合うと小さく頷いた。二人は席を立って課長のデスクに向かった。

「――出たぞ。田村芙美江の遺体が」

「収容先は?」

猪名川いながわ署」

「家族を連れて確認に行きます」

 二人は間仕切り戸に向かった。



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