7 定食、瓶ビール、どて焼き


 それぞれの任務を終えた鍋島と芹沢が合流したのは夕方の五時を回った頃だった。互いに成果を報告し合い、それから昨日逮捕した通り魔強盗犯の供述の裏付けに四人の被害者を訪ねて回った。そしてすべての裏付けを終え、署に帰ると午後九時近くになっていた。これから刑事部屋に戻って報告書をまとめるには、彼らの気力はすっかり萎えていて、また時間もそこそこ遅かったので、今日のところはここで終えることにした。


 拳銃を保管場所に戻して一階のロビーに出てきたところで、鍋島は両手を頭の後ろに回して大きな欠伸をしながら芹沢に言った。

「――俺、ここで帰るわ。刑事課うえには戻らへんし、課長がいたらおまえ一通り報告しといてくれへんか。明日は朝から東栄商事へ行って、そのあとで顔を出すってことも」

「分かった」

「んじゃ頼むー」

 鍋島は言うとブルゾンのポケットからスマートフォンを出し、操作しながら玄関を出て行った。三上麗子に会いに行くんだなと芹沢は思い、左右に首を捻って肩で一つ大きなため息を吐いてから階段を上って行った。


 刑事課の間仕切り戸を入ると、芹沢は自分のデスクのそばに座っている辻野仁美に気付いた。ごく淡いピンクのジャケットの中に同系色のキャミソール、白のパンツという格好で、膝に大きなバッグを抱えてその上に頬杖を突いている。芹沢よりも先に彼女の方が気付いていたようで、口の端で微かに笑いながらじっと彼を見ていた。

「こんばんわ」

 近付いてきた芹沢に仁美はにこやかに言った。

「……何の真似だ?」

「話を聞きに来たのよ」

「話があるなんて言ったか?」芹沢はデスクに車の鍵を放り投げた。「京都に帰れって言ったんだぜ。それを途中で切っちまいやがって」

「それはお互いさまよ」

「喧嘩を売りに来たんだったら、帰ってくれねえか」

 芹沢は即座に言い返した。その声に周りの捜査員たちが何人かこちらを見たが、仁美は一向に動じることなく、芹沢を見上げたまま相変わらず落ち着き払って続けた。

「あの三人の正体が掴めたんでしょ?」

「前に言ったはずだよな。あんたは余計なことに首を突っ込まねえで、普通の生活してりゃいいんだって」

「それやったら、こうも言うたやん。何か分かったら言うって」

「……口の減らねえ女だな」

「どうとでも。とにかく話を聞かせてくれるまでは毎日押しかけるし、葉子の部屋を調べることもやめへんわ。どうしても京都へ帰したかったら、そういう令状でも見せてよ」

「…………」

 芹沢は大きなため息をつくと、呆れ顔で仁美を見下ろした。「メシ食ったか?」

「え?」

「晩メシだよ。済んだかって訊いてるんだ」

「ええ。会社の帰りに済ませて、それでここへ来たから」

「だったら付き合えよ。こっちはまだなんだ」

 そう言うと芹沢はデスクに散らばった書類をかき集めて抽斗に入れ、回し抜いた鍵をジャケットのポケットに入れて仁美を見た。

「ほら、行くぜ」

「ま、待ってよ――」

 仁美は慌てて立ち上がり、同僚に挨拶しながら部屋を出て行く芹沢の後を追った。



「――女連れで食事するとこやないわ」

 仁美は憮然として言った。おはつ天神アーケード街の入り組んだ路地にある大衆食堂で、傾いた染みだらけのテーブルを前に芹沢と向かい合っていた。魚を焼く煙と油の匂いが厨房から遠慮なく押し寄せてきて、店全体が霧に霞んだように見せている。周りの席は、泥や汗まみれの作業着を着て鼻の頭を真っ赤にした労働者や、休憩中のタクシー運転手、耳に赤鉛筆を挟み、競馬や競艇の新聞を手にどんぶり飯を食べている男たちで埋まっていた。

「美味いんだぜ、ここの定食」芹沢は言った。「それに、あんたがもうメシは済ませたって言うから、俺だけが食うんならどこだっていいと思ったんだ」

「それにしても、堂島のレストランとはえらい違いよね」

「だってあれは――」

「デートやったんでしょ、分かってるわよ」仁美は芹沢の言葉を遮った。「それ以外では無駄にカッコつけたくないってことよね」

「……分かったよ。そこまで言うんなら出ようぜ」芹沢は腰を浮かせた。「どこがいいんだよ。フレンチかイタリアン? それともちゃんと目の前で握ってくれる寿司屋がいいのか?」

「ええやん、もう。定食頼んでしもたあとやんか」

「だったら文句言うなよ」芹沢は不機嫌そうに言うと座り直した。

 そこへ、薄汚れた割烹着姿の女が、配膳盆に定食らしき料理を乗せて運んできた。黙って芹沢の前に置くと、反対の手に持っていた二つのグラスと栓抜きを空いた手に移し、脇に挟んでいた瓶ビールと共に仁美の前に置いて去って行った。

「……何だか、生温なまぬるそう」

 仁美は言いながらビールの栓を開け、グラスに注いだ。「そうでもないか」

「当たり前だろ」と芹沢は笑った。

「で? あの三人はどういう人物だったの?」

「食うあいだくらい待っててくれねえのか?」

 割箸を二つに割きながら芹沢は顔をしかめた。「取り調べのときだって、俺たちは容疑者にメシの時間をとってやってるのに」

「そういうときってやっぱ、カツ丼なの?」仁美は目を輝かせた。

「アホか」芹沢は吐き捨て、いただきますと手を合わせた。

「……食べながらでも話せるでしょ。こういう場所なんやから、お行儀よくしなくてもええやない」

「あ、そ」

 そして芹沢は岡本信哉殺害事件の概要と、福井、大牟田、持田の三人に会って聞いた内容、中津のライヴハウスで聞いた話、そして鍋島が峰尾に会った件を仁美に説明した。

「――仮に峰尾って人が嘘をついてるとして、その理由は何やろ」仁美が言った。

「その日自分が高槻にいたってことがバレるとマズいことでもあるんだろ」

「何よ、そのマズいことって」

「そういうおっさんにまず考えられるのは、浮気だな」

「浮気やったら、あんたの歳でもやってるやん」

「何だって?」芹沢は思わず顔を上げた。

 仁美はグラスを両手で持ち、得意げな顔で芹沢を見ていた。

「あのときの美人、本命の彼女と違うんでしょ」

「……俺のことはいいだろうが」芹沢は俯いて食事に戻った。

「不倫か――あり得るわね。峰尾部長も、きっとあんたみたいに若い頃から女癖が悪かったんでしょうよ」

「うっるせえな。話を聞きたいんなら、俺を怒らせるんじゃねえ」

 あら怖い、とばかりに仁美は肩をすくめた。

「他の状況証拠も限りなく坂口に不利だ。自分が証言したところで彼女の容疑が晴れるかどうかも分からねえ。それなのに、アカの他人を助けるためにバカ正直な証言をして、こっちの秘密がバレちゃザマねえって、おっさんはそう考えたんだろ。今どきたいした悪人でなくても、それくらいの計算はするさ」

「じゃあ、内田って部下にはそのへんの事情を話してるのかな」

「警察に対して偽証させるんだから、いくら忠実な部下でも何の説明も無しじゃ納得しねえだろうな。正直に話してるかどうかは別にして、何らかの事情は聞かされてるはずだ」

「そこを明日、本人に会って確かめようってことね」

「簡単に吐くかどうかは大いに疑問だけどな。引っ張ってきて取り調べるわけじゃねえし」

 芹沢は食べ終わった定食をテーブルの端に寄せた。すぐにさっきの割烹着の女がその配膳盆を引きに現れ、芹沢はビールをもう一本注文した。

「ね、あたしも注文していい? お金は払うから」仁美が言った。

「え、今頃?」

「そっちが食べるの見てたら、お腹空いてきちゃった」

「どうぞ」

 仁美は所狭しと壁に貼られた品書きを眺めた。「えっと――じゃ、どて焼き」

 割烹着の女が頷いて立ち去り、仁美は話を再開した。

「――それか、こうは考えられへん? 峰尾部長は確かに坂口さんを知ってて、彼女に恨みがあるとか。それで陥れてやろうと思った」

「女の発想だな。恨みがあって仕返ししたなんて」

「それ、女性蔑視よ」仁美は即座に指摘した。「撤回してください」

 芹沢は黙って頭を下げた。そして言った。「だったら坂口がそのことを覚えてるはずさ。持田先生にはそうは言ってねえみたいだぜ」

「彼女自身は気付いてないのかも。峰尾に恨まれてるってことを」

「仮にそうだったとしても、恨みを買う以上は二人のあいだに直接何かがあったはずだろ。坂口はただ、昔のルームメイトの知り合いだとしか言ってねえんだ」

「そこも分からへんなぁ。ルームメイトの知り合いのことを、なんで坂口さんが知ってるの?」

 そこへビールとどて焼きが運ばれてきた。今度は芹沢が栓を抜き、二つのグラスに注いだ。仁美はどて焼きをひと口頬張ると、「うん、美味しい」と満足げに呟いた。

「そのルームメイト――村田江美子って言うんだけど――坂口が一緒に暮らしてたとき、一度だけ村田を訪ねて部屋に男が来たことがあるそうだ。そのとき村田は留守で、男はすぐに帰ったらしいんだけど、その男が峰尾だったって、坂口は言ってるらしい」

「男はその村田さんとどういう関係やったの?」

「はっきりとは言わなかったって。それこそ艶っぽい関係がありそうだけど、村田はそんな女性じゃなかったらしいし――今日、鍋島が峰尾に村田のことを話したんだけど、知らねえって言ったそうだ。ま、当然そう言うだろうな」

「村田さんとは連絡はつかへんの?」

「ああ。何しろ持田大先生は、俺たちから話を聞くまではこの案件は勝ち目がねえって思ってたから、坂口のアリバイを成立させるのに手を尽くしたとは言い難い状態だったんだ。俺たちの話を聞いたあとは早速調べるって言ってたけど、音信不通になってもう半年以上経つからな。すぐに見つかるかどうか」

「なんだか頼りない先生ね」

「まだ駆け出しだからな。金儲けに走るタイプじゃなさそうなのは好感が持てるけど」

「ふうん……まあとにかく、坂口さんのために頑張ってあげて欲しいけど」

 どて焼きをつつきながらそう言ったあと、仁美の目は何かを思い出したかのように微かな光を放った。

「ところで、あたしを襲ったやつの正体は分かった?」

「まだだ。ここまでの流れからいくと、坂口の無実が証明されちゃ困るやつだと考えられるから、おそらく岡本殺しの真犯人だろ」

「殺人犯に襲われたの? あたし」

 驚いた顔で自分を指差している仁美を眺めながら、芹沢は頬杖を突いてにやりと笑った。「そういうこったな」

「……今さらながらにぞっとする」

「それにしちゃ、あのやり方はずいぶん手緩かったように思うな。殺すまではいかねえにしても、もうちょっと痛い目に遭わせといても良さそうなもんだぜ」

「……そんな目に遭うのを期待してたような言い方ね」

「違うって。殺人犯にしちゃ優しいやり方だって、そう言いたいだけさ」芹沢は真顔になった。「そっちの調べは、何かと邪魔が入ってな。あんまり派手に動き回れねえんだ」

「邪魔って?」

「身内の話さ。それこそそっちにゃ関係ねえ」

 芹沢はグラスのビールを飲み干すとテーブルに戻し、伝票を持って立ち上がった。「お付き合いいただいてありがとよ」



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