4 怪物の襲撃


 夜気がくすんだ窓のそばまで迫っていた。透明で、匂いもなく、ぴんと張りつめて真新しかった。それはちょうど、遥か遠く大気圏のそのまた向こうのどこか宇宙の果てから、たった今、銀河という新雪の上を滑るように降りてきたばかりの隕石のように、この街ではまったくの新顔だった。昼間の街は、人間の横暴と自然の反逆が繰り返されて掃き溜めとなっているが、闇に包まれた都会では、時にこういう新鮮さが似合うこともあった。

 刑事部屋の隅にある手垢まみれの鑑の前で、鍋島は自分の顔にため息を漏らしていた。

「――なあ、芹沢」

「なんだ」デスクで報告書を作成していた芹沢が答えた。

「俺、もうこれからあんまり無茶するのやめるわ」

「どんな無茶やってたんだよ」

「この顔や、このひどい顔」鍋島は振り返った。「田舎の小学生やあるまいし、年がら年中顔に生傷作ってても自慢にならへん」

「そういうことか」と芹沢は小さく頷いた。「おまえはいつでも正面突破だからな」

「それしか知らんのや。攻撃は最大の防御やから」

「おまえの場合、防御になってねえからそんなツラになるんだろ」芹沢はパソコンの画面を見ながら笑った。

 鍋島は鏡越しに芹沢を睨んだ。「おまえはええよな。少々殴られたかて、元の顔がええからサマになる。むしろ『傷を負ったイケメンもまた、萌え~♡』てなもんや」

「なんだよ、今さら嫌味か?」

「嫌味やない、痛感してるんや。秋に結婚して、クリスマスには三十一になるって言うのに、いくらなんでもひどすぎる」

 芹沢はキーボードから手を離し、身体を起こして腕を組んだ。「いくら射撃の腕がいいからって、よその国みたいに危険を感じたらバンバン撃ちまくっていいって理屈は、この国じゃ通らねえからな。もうちょっと喧嘩のやり方を覚えといた方がいいぜ」

「どうやって覚えろって言うんや。まさかそこらのゴロツキに片っ端からガン飛ばして歩くわけにもいかへんやろ」鍋島は席に戻って来た。「おまけに、この体格ガタイや。せやから射撃の訓練にシフトチェンジしたんや」

「……無茶しねえように心掛ける方が手っ取り早いな」芹沢は首を振って呟いた。

 時刻は午後十時を七分ほど回った頃だった。二人が当直勤務に当たっている夜で、部屋にはあと二人、三係の当番の刑事がいたが、その二人はさっきからずっと卓上型の将棋盤を覗き込んでいる。

 一係のデスクに置かれた電話が鳴った。将棋の二人が顔を上げ、鍋島が受話器を掴むのを見て再び下を向いた。

「一係」

《鍋島巡査部長?》電話応対担当の声だった。

「はい」

《辻野さんとおっしゃる方から電話です》

 鍋島は受話器を手で覆うと芹沢に言った。「また彼女からや」

「彼女って?」

「辻野仁美」

 そして鍋島は覆っていた手を離して話し始めた。「――あ、こんばんわ。ええ、俺です。昨日はどうも」

「……しつこい女だな」芹沢は独り言を吐いた。

「――なんやて?」

 声を上げた鍋島に、芹沢が振り返った。鍋島は彼をじっと見つめたまま、仁美が話すのを聞いていた。そのうち、慌てたように立ち上がって椅子をデスクの下に押し込んだのを見て、芹沢も立ち上がって車の鍵を持った。

「――分かった。とにかくすぐにそっちへ行くから。今、部屋にいるんやろ? うん、じっとしててや。俺らが行くまで、絶対にドアは開けたらあかんで」

 叩きつけるように受話器を置いた鍋島に、芹沢は戸惑い顔で訊いた。

「何があったって?」

「出先から帰って部屋の鍵を開けようとしたところへ、後ろから襲われた」

「……それで?」

「大丈夫や。大した怪我はないらしい」

 二人は廊下へ駆け出した。




 インターホンを鳴らすとしばらくしてドアが開き、ドアガード越しに鉛のような顔色をした仁美が半分だけ見えた。

「……大丈夫?」芹沢が訊いた。

 仁美はすぐには答えず、一度ドアを閉めてガードを外すと今度は大きく開き、言った。

「大丈夫といえば大丈夫やけど……まだちょっと動揺してる」

 仁美は部屋に戻り、鍋島と芹沢も中に入った。テーブル脇の絨毯の上に、左の肘のあたりが鈎状に裂け、裾に泥の付いたモスグリーンのワンピースが無造作に広げられていた。

「怪我は?」

「首の後ろを殴られて、お腹を蹴られて転んだだけ。その痛みも、氷で冷やしたらもう治まったし」と仁美は肩をすくめた。「それより、見てよこのワンピース。先週うたばかりやのに」

「……あんた、タフやな」

「みんなに言われる」仁美は顔を歪めて笑った。

「そいつの顔は見た?」

「バッチリ。かの有名なやった」

「……マスクか」

「尾けられてた感じやった?」

「ううん、どこかに潜んでて、帰ってくるのを待ってたんやと思う。あたしが降りたあとでエレベーターの開く音はしなかったから」

「後ろから羽交い絞めにされたんやな。それで?」

「顔の前にナイフを突きつけられて、それから――意外なことを言われたわ」

「意外なこと?」

「……『の件から手を引け』って」

「え?」鍋島は片眉を上げた。

「これ以上続けると、きっと後悔することになるって。そう言うとナイフの柄で首の後ろを殴って、膝で腰を蹴ったわ。あたしが倒れると、走って階段の方へ逃げて行った」

「…………」

 黙って自分を見つめている二人を交互に眺めて、仁美は腕を組んだ。

「狂言と違うわよ。あなたたちに葉子を捜させるための」

「分かってるよ」

「今度こそ正真正銘、あたしと葉子を間違ってるってことよね」

 仁美は言うとしびれを切らしたかのように腕を解き、軽く広げて二人に訊いた。「――で、どうなるの?」

 俯いていた芹沢は視線だけを上げた。「被害届、出すよな」

「出さへんと事件にならへんのでしょ?」

「ああ。事件になりさえすりゃ、これは俺たちの担当だ」

「刑事事件ね」仁美はにっこりと笑った。「出しましょう」




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