ぷれいぼーる

 小学校の体育の授業。野球。どんな運動音痴にも活躍のチャンスを与えようという博愛精神に満ちた教師のご意向により、僕はマウンドに立たされた。

 一点差の九回裏ノーアウト一二塁。いま考えてみると鬼の采配だ。クラス中が注目する中、とにもかくにも精一杯、球を投げた。

『ストライーック!』

 少々怪しい判定だったが、先生は全力で叫んでくれた。生まれて初めてストライクを取ったその瞬間は確かに熱く、人並みらしい青春の力が漲る気がした。

 僕のこれまでの人生で球技と縁があるのは、この一瞬だけだ。たまっころに目覚めた僕が最初に野球ボールを求めたのも、その時以来の潜在意識であったのかもしれない。

 今、その野球ボールの食いかけ半分が手元にある。

 あの日のようにブン投げてみる。

「坂本さん!?」

 一歩前を歩いていた下野の肩を飛び越えて、ボールは暗いコンクリートの廊下を飛んだ。半欠けの不完全なボールなのに、驚くぐらい真っ直ぐなストレートだ。狙いはミットではなく、白髪の側頭部。ただし当てるつもりはない。

「やあ、お久しぶりですね」

 こちらを向いて余裕の笑みを見せる万代老人の手前で、ボールは止められた。素手でボールを受け止めたのは、老人の隣に立つスキンヘッドの男だ。今日はサングラスをしていないが、以前、下野と古本を老人の車へ連れ込んだ人物だ。

「ウォン君、ご苦労様です」

 ウォンは老人の労いにも答えず、厚い唇をむっと結んだまま、静かな気迫のこもった目でこちらを睨んでいる。南風では見かけなかった人物だが、おそらくはこの男こそが、万代老人の最も信頼する仲間、あるいは側近なのではないか。無言のその態度からは、老人に仇なすものを許さぬという気構えが窺えた。

「まあまあ、こんなところで騒ぐ事もないでしょう。中へどうぞ」

 老人は自ら先に立ち、廊下に立ち並ぶ扉の一つを押し開けた。

 そこは公園から雨に降られて三十分ほど歩いたところの繁華街で、様々な酒場に通じる暗いコンクリートの地下道だった。真っ昼間のことで人気はなく、いかにも妖怪たちの隠れ家に相応しい。それにしても、薫のマンションのほとんど目と鼻の先に潜んでいようとは、万代老人の大した度胸というべきか、あるいは薫たちの必死の捜索を愚弄する悪趣味な性格の表れというべきか。

 招かれたドアの内は、ジャズバーのような施設だった。外から見た以上に内部は広く、狭いステージの上にピアノとドラムセットが置きっぱなしになっている。老人は僕と下野を丸テーブルにつかせると、自身はカウンターの奥に引っ込んで飲み物を用意を始めた。ウォンは僕らと同じテーブルにつかず、あくまで老人を警護するように、カウンター席に座った。

「紹介しときましょう。このお店のオーナーのウォン君です。もっとも、公には日本風の名前を名乗っていますがね。彼はかつて雑技団に所属していて、特にジャグリング……ご存じでしょう、あのお手玉みたいな曲芸の名手だったのです。この長い腕で無数のボールを操り、目にも止まらぬ早業で観客を沸かせていたんですが、少しやり過ぎましてねえ。ある日の演目で突然、次々に空中へ放り投げられていた二十個ものボールが徐々に少なくなって、ついには一つもなくなってしまうという大奇術をやってのけたのです。同じ団のマジシャンでもカラクリのわからぬ奇跡ですが、もちろん坂本さんには、この種がおわかりですよね?」

「種って言うようなものじゃないでしょう」

 僕は軽く笑って答えた。老人もニタリと笑った。ウォンは背を向けているから、僕のリアクションをどう受け取ったのかはわからない。

「ところで、坂本さん」

 お盆を抱えてカウンターから出て来た老人は、お得意のコーヒーを一緒に、半欠けの野球ボールを僕の前に置いた。

「これを私に投げてきたのは、どういう意図ですかな?」

 顔を寄せる老人の口に、黄ばんだ歯が見えた。

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