はなうた

「帰る気なんてないですよ」

 下野は、脱いだレインコートの上着のポケットから、奇妙な形をした茶色の物体をつまみ出すと、その端っこをぱくりと咥え込んだ。よく見るとそれはバスケットボールの表面を切り取った一部だった。スイカの皮で漬物をつくるという話は聞いたことがあるが、下野曰く、バスケットボールはステーキであるらしいので、その皮というのはどんな味と食感がするのか見当がつかない。

「私はバスボを愛でて、バスボを食べられたら、それで幸せなんです。家に帰ったらそんな日常は送れないでしょう」

「君のご両親は悲しんでいるよ」

「知ってます。でもしょうがないじゃないですか」

 下野は腹立たしく言い捨てると、ポケットに手を突っ込んで同じような欠片を四、五枚ほど掴み出した。もう片方のポケットも妙に膨らんでいるところを見るとそちらにも何か入っているらしいが、下野はそちらには手を出さぬままレインコートを僕に向かって放り投げた。受け止めはしたが水滴が飛び散った。失礼な奴だ。

「あの人たちと私とでは、生きてる世界が違うんですから。終わりでしょう。……うちの事は、坂本さんにどうこう言われる筋合いないです」

 ――他人の気持ちを考えない中学生め。

 そう言ってやりたいが、今は黙ることにした。こいつと便所の前で喧嘩をすることが外出の目的ではない。

 大人しくレインコートを着込む。ポケットの物体が気になる。バスケットボールの欠片ではない。丸い。

「あ、それ万代さんからの差し入れです」

 手に触れる。野球ボールだった。

「食べていいですよ」

 レインコートのズボンを脱ぎながら、下野は冷たく笑った。

 その笑みの理由はわかる。きっとこう言いたいのだろう。

『あなただって妖怪じゃないですか。素直にボールを食べてお腹を見たしましょうよ』

 僕は下野の笑みを正面から見返しながら、ボールにかぶりついた。

 美味い。

『ほうらね』

 勝ち誇った笑み。差し出されるズボン。どっちも真顔で受け取った。

 食ってやるさ。ボールなら。僕が今後どう動くにせよ、体力は絶対に必要なのだから。

「どうもありがとう。美味しかったよ」

「どうも。ですけど、お礼なら万代さんに直接言ってください。食べたらさっさと行きましょうか」

 下野の着ていたレインコートは元々男物だったのか、問題なく着ることが出来た。ただ、顔が濡れるのを防ぐにはフードを目深にかぶらなければならないため、随分怪しい風貌になってしまうけれど。

「じゃ、行きましょう。大丈夫ですよ、そんなに遠くないですから」

 薫の傘を広げて、下野は先に行く。僕はついていく。

 なるほど。ジャージ姿の行方不明の少女と、その後について歩く怪しい男とでは、人に見咎められてマズいのは僕の方だ。途中で逃げたり騒いだりしないための口封じ。この状況を計算したのが下野だとしたら称賛モノだが、おそらく万代老人の入れ知恵だろう。

 鬱陶しいコートを脱ぎ捨てた下野の足取りは軽く、上等な傘を掲げて歩く様はどこか楽し気に見えた。こんな状況、たとえ彼女を救うために必要な道程であろうと、薫にだけは見られたくない。

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