ぞわぞわ

 僕は野球ボールを一つ食べた。おかげで少し落ち着いた。それから茶の支度をしながら下野の話を聞いてみると、どうも、盗難そのものはあまり深刻な問題になっていないようだった。転売目的での窃盗ならもっとゴッソリ根こそぎ持っていくはずで、少しだけ数が減っているのは生徒の悪戯だろうというのが、今のところの学校の見解らしい。

「食べる目的でボールを盗む人がいるなんて、先生も思わないですよ」

「ええ、まったく。そんな可能性を考える人なんて、僕らぐらいのものでしょう」

 安心したせいで僕の頬もいくらか緩んだ。テーブルに茶を出して下野の向かいに座ると、下野もニンマリ笑っていた。

「本当に、ふふっ。だけど、私だってバスボを食べようなんて考えたの、ついさっきが初めてですよ」

「君はどうして倉庫に忍び込んだりしたんだ」

「盗難の話を聞いて、心が動いたんです。……羨ましい、って」

 差し出された茶をひと啜りして、下野はゆっくりと語りだした。

 誰が盗んだか知らないけれど、その人はきっと楽しいだろう。ボールを自由に使えるのはとても良いことだ。スポーツのため? 遊びのため? そんな事はどうでもいい。私はバスケットボールが好き。抱きしめたいほど大好き。私もボールを自由にできたら、どんなに幸せなことかしら。部活でしか会えないバスボをおうちに連れて帰って、一晩中愛でていられたら。ああっ! 素敵!

「うふふふふ」

「それは、まあ、情熱的……なんですね」

「純愛です。先生は倉庫の戸締りを厳重にするって言ってましたけど、問題ありません。だってあの倉庫、ずっと昔に鍵が紛失してそのまんま放置されてるの、みんな知ってますから。それで、もう我慢できなくなって」

「それで家を飛び出して……」

「倉庫に忍び込んでっ」

「バスケットボールを盗み出して……」

「食べちゃいました」

「飛躍ですねえ」

「へへっ」

 ぺろりと舌を出して、茶を啜った。それは照れ隠しのつもりなのか?

「そんなつもりじゃあなかったんですけど、夜中にバスボを抱けるのが嬉しくて、ひんやりした触感が新鮮で、そのう……ゾワゾワして。気が付いたら……」

「まあ、僕も最初にボールを食べたのは半分無自覚でしたし……」

「あっ、坂本さんもボールが好きで?」

「いやいや、僕は全然。野球ボールに思い入れどころか、スポーツ全般に疎い方で。どうしてこんな体質になったのか、不思議なぐらいですよ」

 僕はポケットに残っていたもう一つのボールを取り出し、お茶請けを味わうような感覚で一口やった。

 むしゃり。やっぱり美味いわけではない。でも慣れた味だ。安心する。

「あのう……」

 下野が遠慮がちに声をあげた。

「はい? あ、そちらにもお茶請けがいりますね。気が利かなくてすいません、確か戸棚に煎餅が……」

「いえ、その。その……野球ボールも、おいしそうだなーって、思って」

 恥ずかしい事を打ち明けるようにもじもじと、顔を真っ赤にしている。乙女心。乙女のツラとはこういうものか? ああ、わからん。この女のボールに対する情熱は、僕にはわからない。

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