第8話 初体験
俺が住まう場所とは違い、ここは住居の数自体が少ない。
それはつまり、住民の数そのものが少ないということ。それが少ないということは……その生活を支えるインフラも少ないということ。
だから、道路には街灯などという明かりはほとんど無い。時々、思い出したように出現しては、通り過ぎてゆくが……正直、有っても無くても大した違いが見られない程度でしかない。
防犯用というよりは、ここに道路がありますよというのを示す意味合いが強いのだろう。実際、等間隔に照らされた場所と、その次の明かりにまでの距離が遠すぎるように思えた。
その道を……爺さんが運転する車が、ほとんど減速することなく進んでゆく。
ぶっちゃけ、もう少しゆっくり行けよと俺は思ったが、ボロが出るのが嫌なので黙っていることにした。まあ、通行人なんてまずいないだろうし、大丈夫だろう。
……そうして、だ。
俺は、何が嬉しいのか、聞き慣れない鼻歌(たぶん、演歌なのだろうけれども)を歌う爺さんを横目に見やりながら、ぼんやりと身体を休めていた。
……いや、訂正しよう。
身体を休めてはいない。というか、休められない。何故なら、今の俺の身体は風船のように軽く、腰の位置をずらすというただそれだけですら、腰が空中に浮く。
それ故に、今の俺は常に、何かに己を引き寄せていなければならない。
ここまで歩いてきたのだって、実は常時地面に身体を引き寄せることで、擬似的に歩いているように見せているだけだ。
実際は歩いているのではなく、前側に身体を傾けながら地面を蹴っているようなもの。
最近ではある程度無意識に出来るようにはなったが、それでも、心臓のように自動的には行えない。
だから、俺はこの状態でもまだ、本当の意味で気を休めているわけではないのであった。
……まあ、それでも、普通に歩くよりは……だいぶマシであるのは事実だけれども。
(……何だか、身体が重い)
爺さんから視線を外し、暗闇の水平線を見やった俺は……軽く、己が胸を叩いた。
『……大丈夫だ。それはいわゆる、疲れているという状態だ。分離した状態で休むのが一番だが、そのままでも安静にしていれば、徐々に回復はする』
すると、一拍遅れて返事が来た。
――そうか、それなら安心だ。
爺さんに聞こえないように、俺は呟く。ちらりと、横目で爺さんを見やり……相も変わらず鼻歌を歌っているのを見て、俺は軽く息を吐いた。
幸いにも、この軽トラは車内でもエンジン音が相応に煩い。また、爺さんも年齢相応に耳が遠いようで、声を潜めるだけでまずアンノウンとの会話が盗み聞きされる心配はなさそうであった。
『とにかく、今は身体を休めることだけを考えろ。襲ってきたあの男の事も気になるからな』
――あいつなら、死んだだろ。
一瞬、嫌な気持ちが俺の胸中に広がる。
その正体は、考えるまでもなく……狂人とはいえ、人間(ではない可能性もあるが)を殺めたことに対する罪悪感であった。
襲ってきたのは、あいつだ。有無を言わさず殴りかかって来たのもあいつだ。逃げた俺を追いかけて来たのも、あいつだ。
だが、それでも……こうして、高ぶっていた気持ちが静まると……すぐに、割り切れる話ではなかった。
『確認したわけじゃない。それに、あの男が単独で行動している保証もない』
だが、じくじくと出血のように俺を苛む罪悪感も……アンノウンの語る仮説によって……ぎくりと、止まった。
……一人では、ない?
言われて、俺は愕然とすると同時に……その可能性が当然にあることに、言葉を失った。
考えてみたら、そうだ。俺はあいつ一人だけ……つまり、単独犯だと思っていたが、仲間がいない保障なんてどこにもない。
もしかしたら、こうしている今も……そう思った俺は、窓越しに外を見やる。次いで、振り返って後部座席の向こうへ……それらしい影は、ない。
『まあ、そこまで怯える必要はない。あくまで可能性を示唆しただけで、おそらくは仲間はいないだろう』
――どうして、そう思えるんだ?
『簡単だ、もしあの男に仲間がいるのなら、先ほどの時点で襲われているからだ。こうして、何事も無くあの場から離れられている時点で、可能性は低い』
――もし、この爺さんが、その仲間なら?
『私に聞いても、竜司、お前の望む答えは出せないぞ』
――悪かった、意地悪な聞き方をしたな。
『構わない、お前は疲れているだけだからな』
それで、俺とアンノウンとの会話は終了した。それはアンノウンが怒った……というよりは、疲れた俺を気遣ってのことであると、俺は思いたかった。
……それから、さらに車は走り続ける。
慣れた様子で暗闇を突き進む爺さんを他所に、俺は後頭部にバイブでも貼り付けられたかのような気分になりながら、ひたすら目的地に着くのを待つ。
――がたがた、と。
ガスと水道のダブル工事の後にとりあえず年末まで補修は放置とされて、十年ぐらい経った後みたいな感じの、凸凹だらけの酷い段差に幾度となく揺らされること、幾しばらく。
――すぐに着くから。
豪快に笑いながらそう話していた爺さんの言葉に、俺は文字通りそのままの意味に受け取っていたが……結局、着いたのはそれから20分も後になってからだった。
「……?」
これまでとは違う挙動と、音。それが車をバックする時の音であることに俺が瞑っていた目を開けるのと、車が止まったのは……そう、変わらなかった。
エンジンが、止まる。着いたぞ……そう呟きながら、爺さんはさっさと降りると、傍の建物の裏口(おそらく、従業員用だろ)へと入って行った。
……ぽつん、と。
独り残された俺も、車を降りる。途端、鼻腔をくすぐったのは……甘い……砂糖醤油の匂い。他にもこれは……魚の焼ける匂いだろうか。
正直、興味をそそる。腹の音は鳴らなかったし涎も出なかったが、食べたいという欲求がむくむくっと沸き起こるのを実感した。
(……ふむ)
歩く……のはいちいち面倒なので、ふわりふわりと放物線を描くようにして、裏口の前へ向かう。
このまま勝手に入っても良いのか迷っていると、「――何やってんだか、入んな!」中から爺さんが顔を覗かせた。
というか、腕を引かれてそのまま引っ張り込まれた――瞬間、その腕が外された。ぐるりと反転した視界の中に、まん丸に目を見開く爺さんがいた。
(――え、何やってんの?)
意図が分からないが、まあいい。
結果的にぶん投げられる形にはなったが、その程度は何の問題にもならない。くるりと身体を捻って体勢を整えた俺は……ふわり、と。壁に向かって垂直に着地した。
そうして、辺り見回した俺は……へえ、と目を瞬かせた。
一言でいえば、俺が入った場所は和風……寄りの、何だろうか。モダンという言葉が当てはまる一室であった。
掃除はされているが年期の入った木目の天井と壁に、よく見れば経年劣化が伺える備品などの痛み。日焼けして若干のカラメル色が目立つ窓、同じく日焼けして山吹色になっている畳。
部屋の隅に置かれた液晶テレビに鏡台。小さな……何だろう、あれは冷蔵庫なのだろうか。ホテルや旅館に止まった事がないから分からないが、興味が引かれる。
そして……視線を内装から戻せば、だ。まん丸に見開いた眼で俺を見つめる、数名の男女の視線。誰も彼もが驚きに言葉を失くしているのを順々に見やった俺は……無言のままに床へと歩いて降りて、爺さんを睨んだ。
「……いや、すまん。あんめえ軽いんけ、驚いて手を放しちまったんか」
……ああ、なるほど。
申し訳なさそうに頭を掻く爺さんの言い訳に、俺は納得した。
今更ながら思い出したが、俺の身体は何もしなくても足元がおぼつかなくなるぐらいに軽いのだ。
普通の子供と比べても、その重さの違いはボーリングの弾と、ふわふわと舞う綿埃(我ながら、嫌な表現ではある)にも等しい。
普通の子供を引っ張るような感覚でやれば、老いた爺さんの力とはいえ、壁まで投げ飛ばされても不思議ではない。
これは説明しなかった俺にも落ち度がある。なので、俺は爺さんの謝罪を黙って受け入れ……それから、未だに黙ったままの男女を見やった。
割烹着に……着物、なのだろうか。いや、これはこの旅館の従業員服なのだろう。よく見れば、胸元に旅館の名前が刺繍されている。
とりあえず、私服なのはこの爺さんだけだ。客らしき姿が見受けられないのは……まあ、当然だろう。
「…………」
「…………」
黙って彼ら彼女らを見つめていると、旅館の人達も俺を黙って見つめ返し……いや、お前たちまで黙ってしまったら、俺はいったいどうしたらいいんだよ。
とりあえず、爺さんは……いない。
何時の間にか、この場からいなくなっている。着替えに行ったのか、それとも別の理由なのかは定かではないが……こんな状況で一人にするのは止めて欲しかった。
……とりあえずは、だ。
俺は、胸に抱えるようにして持っていた紙幣の束を、半分だけ彼らに向ける。「……え?」困惑しているのが傍目にも分かったが、俺は構わずその中で……一番近しい場所にいた、50代ぐらいの女性に渡した。
まあ、当たり前だろうが、「え、え、え?」札束を渡された女性は困惑した様子で同僚へと視線を送っていた……が、無視する。
これで、当分の料金は支払った。俺は晴れて、この旅館の客だ。それで、連れてきて貰ったはいいが、この後どうすれば……と。
「えっと、その……ちょっと、いいかな?」
爺さんが戻って来るまで待ちぼうけかと思っていると、この中では一番年若い部類に入る(それでも、40代だろうが)女性が、話しかけてきた。
髪を団子状にして後ろに纏めた、正しく旅館の従業員という雰囲気の女性である。正直、不必要に会話をしたくないのだが……まあ、仕方ない。
「あの……大治さんから、宇宙人がどうのこうのって連絡が来てたんだけど……ほ、本当?」
いったい何だと思って視線を向ければ、返されたのがその言葉であった。というか、この人は爺さんとは違い、標準語に近い話し方をするのか。
(……まあ、話を合わせておくか)
とりあえず、頷いてやる。
途端、彼ら彼女らから一斉に歓声……いや、違う。それは歓声というよりは、戸惑いが入り混じる複雑な……どよめきに近い代物であった。
まあ、そうなって当然だよなあ……と、俺は思った。
とはいえ、鼻で嗤うなんてことはしないだろう。何せ、たった今、この人たちは俺が起こした事を見ているからだ。
何の道具も使わず、重力を感じさせることなく壁へ垂直に足を付けて立つという、摩訶不思議な光景を。
――それでもなお信じきれないのは、俺の見た目が原因だろう。
『宇宙人』に見合う相応な姿であったなら信じただろうが……俺の見た目は、人間味こそ無いものの、造形は髪の色と目の色が普通とは異なる少女でしかないから……ん?
(何だろうか……美味しそうな匂いがしてきたぞ)
砂糖醤油の臭いはしていたが、それが強くなったような気がする。もしかして、爺さんは料理をしに調理場にでも行ったのだろうか……そう、思っていると。
「――あー、まだ此処におったんか。アンちゃんのご飯を用意してんけ、部屋をば案内しんか、早う」
何時の間に着替えたのか、白い調理服に身を包んだ爺さんが廊下の向こうから顔を覗かせてきた。自然と、室内にいた全員が爺さんを見やった。
それを見て、従業員……もしかしたら、家族経営なのだろうか。小さな声で「親父、説明しろよ」爺さんへと迫る男女がいたが……まあいい。
とにかく、何か食べて身体を休ませなければ。
そう思った俺は、トンと畳を蹴って、爺さんの横を通って廊下へと出る。廊下は、室内と同じく掃除が行き届いているが、年期の入った旅館という感じであった。
廊下は一本道で、左側に『物置』、『更衣室』、『調理場』という順に部屋がある。調理場の扉は開けっ放しで、中から蛍光灯の明かりと、室内に居た時よりもずっと香ばしい匂いが零れ出ていた。
廊下の突き当たりには玄関が見えていて、人の気配はない。ぽんぽん、と二歩でそこまで来て振り返る。
正面玄関を背にした状態で、左側に二階へと続く階段が有って、右側には、先ほどまで俺がいた部屋へと続く廊下がまっすぐ前方へと伸びている。
俺のすぐ右側にある『受付室』から、『調理場』、『更衣室』、『物置』、裏口がある部屋といった感じで、宿泊用の部屋は二階……というふうになっているようだ。
「――アンちゃん、お前さんの部屋は二階の『鈴の間』だよ」
ぼんやりと内装を眺めていると、追って来た爺さんがそう告げて、階段を登り始める。もういい歳なはずなのだが、その足取りは軽やかで、ひょいひょいとあっという間に二階へと登る。
下から見る限りでは、二階の様子は伺えない。登り切ってすぐに右に曲がった爺さんの足音が、とんとんと離れて行くのが……俺の耳にも届いた。
……お言葉に甘えよう。
そう思った俺は、トン、と床を蹴って斜め上に……階段を一度も踏むことなく、二階の床へと着地する。二階は、下と同じく長い廊下がすらりと伸びていて、各部屋の上がそのまま宿泊室となっているようだ。
パッと見た感じ、部屋の全ての出入り口は襖になっていて、そのどれもが閉まっている。あ、いや、よくよく見れば一番奥の方(位置的に、裏口の部屋の真上辺り)からは人の声がすると共に、少しばかり襖が開いていた。
……そこへ行くのだろうか。
そう思ってそちらを見やれば、「――おおい、こっちだ」背後から声を掛けられた。振り返れば、反対側の一番奥の部屋(位置的に、玄関真上か)から、爺さんが手を振っていた。
とん、と床を蹴って、爺さんの前へ。連れられるがまま中に入れば……俺は、おお、と目を瞬かせた。
爺さんが『鈴の間』と呼んだ部屋は、だいたい6畳半といった感じの、一人用(あるいは、二人用)の和室であった。
全体的な雰囲気は、裏口部屋とそう変わりない。ただ、宿泊室として使用しているだけあって、裏口部屋よりも全体的に綺麗であり、きっちりとした雰囲気が漂っていた。
……室内の内装は、特別立派というわけではない。
だが、俺は……どうしてか、ドキドキと胸の鼓動が激しくなった気がして落ち着かなかった。何といえばいいのか……こう、足元がふわふわっとしているような感じであった。
「そいじゃあ、俺ぁ晩飯を持ってくるかぁ……ゆっくり休んだか」
爺さんの言葉に、俺はハッと我に返る。「――そうだ、アンちゃん、嫌いなもんはあるか?」そんな俺に気付いているのかいないのか、そう尋ねてきた。
俺自身は特に嫌いなモノはないが……アンノウンはどうなのだろうか?
しばし、アンノウンの方から何かしら返答が来るだろうと思って待っていたが……来ない。「……アンちゃん?」なので、俺は仕方なく首を横に振って答えることにした。
すると、分かったと頷いた爺さんは、足早に廊下に出て、階段を下りて行った。気になって俺が廊下に身を乗り出した時にはもう、爺さんの頭は階段下へと見えなくなっていた。
……。
……。
…………まあ、いいか。
ひとまず、中に戻って……部屋の隅に纏められている座布団の上に座る。あ、よく見れば、小さい座椅子を発見……窓際辺りに折り畳み式の小さなテーブルが壁に立て掛けられていた。
……こういう時、どうしたらいいのだろうか?
外泊の経験なんてホテルぐらいだが、それだってカプセルホテルとか、安いビジネスホテルとかだ。旅館に止まるなんてのは、コレが初めて……手持無沙汰だ。
(た、確か、冷蔵庫の中身を飲むと、会計の時に請求される……だっけかな?)
はて、ホテルではどうだっただろうか……う~む、思い出せない。とりあえず、気を紛らわすという意味でテレビを付けて見る……のだが。
(……ビックリするぐらいにチャンネル数が少ねえ)
元々、テレビをほとんど見ない生活を送って来たからだろう。見覚えがあったり聞き覚えのあったりする番組が二つあったが……興味を引かれなかった俺は、ため息とリモコンを傍に放り投げる。
それから……大きく息を吐いた俺は、ぐでん、と座布団に寝転がった。反動で、ふわっと身体が浮いたが……俺は構うことなく、ゆっくりと落ちるがままに身を任せた。
『――眠るのか?』
すると、アンノウンが話しかけてきた。「……正直、眠たい」今なら誰もいないから、俺も普通に返事をした。
『――眠るなら、食事をしてから休め』
「この身体は、食事の必要がなかったんじゃないのか?」
『必要ではない。だが、食事というのはお前に限らず、生物の楽しみなのだろう? 心が満たされれば、その分だけ回復も早まる』
「……よく分からんが、元気への近道は、飯食って風呂入って布団に入れってことか?」
『概ね、そうだ』
なるほど……分かり易いといえば、分かり易い。
むくりと身体を起こした俺の身体が、反転する。そのままの勢いで逆立ちになった俺は、両手で畳を押して空中へ……そのまま、ふわりと天井に足をつけた。
――さて、晩飯は何時頃に運ばれて来るのか……それとも、食べる場所が決められているのか。
ただ、待っているのも退屈だなあ……そう思いながら、暇潰し程度の感覚で天井から逆さになった視界でぼんやりする。
そうして、何気なく(開きっぱなしで、襖を閉めることを忘れていた)廊下へと続く出入り口に目を向ける……と。
「…………」
襖の陰からこちらの様子を伺っている、二人の従業員(少しばかり白髪が見られる女性)と目が合った。
俺は全く気にしていなかったが、二人はビクッと肩を震わせる。「し、失礼します……」そして、恐る恐るといった様子で、室内に入って来た。
そのうちの一人の手には……確か、お膳という名前だ。そのお膳を両手に持っている。膳の上には、茶碗などを始めとした食器と、料理が盛られた皿とが所狭しに並べられている。
もう一人は……手提げが付いた小さな御ひつ(炊いたご飯などを入れておく食器の一種)と、小さな小鍋を手にしていた。
鍋の中身は何だろうと思っている俺を他所に、お膳を持った人が一旦それを畳の上……位置的に、テレビが見られる場所に置いた。
次いで、手早く立て掛けていたテーブルを広げ、膳の傍に。そのまま流れで座椅子を用意すると、それを待っていたかのように御ひつを持っていた女性が、テーブルの上に持っていたモノを置く。
(おお……旅館の食事って、こんな感じで用意されるのか……!)
何だか、感動する。ただ晩飯を配膳されているだけなのだが、それでもこう……楽しい。見ているだけで楽しいと、俺は本気で思っていた……と。
「――失礼します」
また、従業員が……いや、爺さんだ。先ほどとは違い、少しばかり居住まいを正した爺さんが室内に入って来た。
その手には……何だろうか。チャッカマンなのは分かるが、片方の手に持つ金物(かなもの)が何なのかが、いまいち俺には分からなかった。
『――竜司、アレは何だ?』
――俺に聞くな。
いったい何だと思って見ていると、金物の上に分厚い椀が置かれる。その下に……金属の箱だろうか。そこに、何か丸い物が……まるで、小さい釜戸みたいだなあ……あ、ソレか。
かちり、と。
全体図から察した俺の前で、簡易式のコンロが完成した。その上に乗せられた鍋の蓋が外され……立ち昇る湯気と共に、程よく煮られた色とりどりの具材が露わになった。
……お、おお!
なるほど、こういう感じになるのか。
堪らず、身体をくるりと反転させて、畳の上に降りる。まだ慣れないのか、女性たちは少しばかり驚いていたが……構わず、座椅子に腰を下ろした。
……。
……。
…………思いっきり足を伸ばせる風呂に入ったのは、何時以来だろうか。
ちゃぽん、と。
静まり返った浴室の天井に広がる、白い靄。何というべきか、昔ながらの銭湯という雰囲気そのままな浴室の内装は……不思議と、俺の心に馴染んでいる気がした。
この旅館の風呂は、離れにある。
最初は旅館の外に出る必要があることに驚いたが、こうして湯船に浸かっていると、まるで秘密基地にいるみたいでちょっと楽しい。
おそらく、脱衣所を始めとした風呂の内装が、古びているからだろう。
脱衣所のスペースこそ小さいが、浴室の大きさは一般家庭(大き目な浴室)の二倍ぐらいだろうか。
二人で入るにはちょうどよく、一人で入れば心から広々と使える……個人的には、大満足であった。
『――ほう、湯船に浸かるというのは何とも快い刺激だ』
「正確には、水面に浮いているだけなんだがな……気に入ったか?」
だらーん、と。水面に浮かぶ木の葉のようにぷかぷかと仰向けになっている俺に、『ああ、風呂を求める竜司の気持ちが分かった』アンノウンは……感慨深そうにそう答えた。
『だが、ズルいぞ。こんなに快いのであれば、どうして今まで独り占めしていたのだ。もっと早く、この刺激をもっと楽しみたかったぞ』
「家の狭い浴槽では無理なんだよ。水より軽いこの身体が悪い。風呂に入るときに、いちいち浴槽に身を引き寄せていちゃあ、疲れなんて取れねえよ」
『……否定は、出来ない。だが、身体を擦る……垢すりというやつだな。アレは心地良かった……アレを使う時だけならば、どうだ?』
「身体洗う度にいちいち浴室を出ろってか……それこそ面倒だろう。ていうか、シャワーだけなら何度かやっただろう、それで満足しとけ」
『しかし、だな……』
「それに、この身体は洗いにくいんだよ。股とかどう洗っていいか分からんから手で適当に洗ったが、それはそれで良かったのか?」
『……た、たぶん、良いと思うゾ』
「ほれ見ろ、それもあるから面倒なんだよ」
『むむむ……』
ぐぬぬ、と唸るアンノウンに俺は苦笑すると、ちゃぽん……と水面を叩く。表面張力というやつなのか、身体が空へ舞い上がることもなく、俺はぷかぷかと浮いたままだった。
……とても、静かだ。何も、変化がない。
時たま、水滴がタイルとぶつかって跳ねる音はするが、それだけだ。ただ浮いているだけから、湯船が溢れることもない。天井へ黙々と昇ってゆく湯気だって、音もなく見えなくなる。
……どうしてだろうか。ふう、と息を吐いた俺は、軽く目を瞑る。
こんなに静かなのに、とても心が安らいでいる。思い返せば、今日一日は行き当たりばったりで散々な目にも遭ったというのに……何といえばいいのか、心地良さが俺の中にはある。
まるで……そう、まるで、思う存分遊び歩いた後、ゆっくり風呂に浸かっている時のような……夏休みの初日を迎えた日の夜みたいな気分であった。
(……ああ、そうか)
そこまで考えた辺りで、俺は思わず笑みを零した。
(明日も明後日も仕事は無いから……今はある意味、一足早い夏休みみたいなものなのか)
そう考えると……何だろう、妙に気持ちが湧き立つというか、わくわくした気持ちになってくる。
(明日は、何処へ行こうか?)
宿代は多めに払ったし、さすがに一週間かそこらで無くなることもない。
……そういえば、この旅館を訪れる客は釣り目的の者が多いと聞く。
帰りの運賃を除いた金で、魚釣り……というのも、悪くないかもしれない。探せば、店はあるだ……ん?
――ぼんやりしていた頭に、何やら物音が聞こえてきた。
何だろうかと目を開けると同時に、がらりと出入り口が開かれる。視線を向ければ、10代の……背丈から考えて中学生ぐらいの少年の背中が見えた。
……はて、爺さんたちから俺が入浴しているという話を聞いていないのだろうか。
内心にて首を傾げる俺を他所に、少年は鼻歌を歌いながらシャワーで手早く汗を流している。
部活でもやっているのか、全身の肌がチョコレート色で幾らか筋肉質であった……あっ。
「――っ」
シャワーを止めて、足早にやってきた少年と、俺との視線が……交差した。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
俺と、少年は無言であった。どうしたものかと思う俺を他所に、少年の視線が俺の顔から胸元へ、腰から足先……腰から胸元へと、何度も行き来した……直後。
「――ごっ、め!!!」
辛うじて聞き取れたのは、その言葉だけであった。
ぼん、とチョコレート色越しでも分かるぐらいに一気に顔を赤らめた少年は、転げるようにして脱衣所へと飛び出し……足音が、遠ざかって行った。
……。
……。
…………とりあえず、出よう。
ふわりと水面から出て床に着地をした俺は……ふと、思いついてイメージをする。
途端、俺の身体に纏わりついていた水滴が、一斉に身体から滴り落ち……数秒後には、俺の身体はカラッと乾いていた。
『――何をしたのだ?』
「金を集めた時の応用だよ。身体に付いた水滴を、身体以外の場所に引き寄せられないかなって……やったらけっこう簡単に出来たぞ」
『ふむ……そういうことも出来るのか。少し、驚いた』
「おい、お前の身体だろう?」
『今は、お前の身体でもある』
そう言い合いながら、脱衣所へと出る。よほど慌ただしく飛び出したのか、脱衣カゴが二つほど床に転がって……あっ。
「……しまった、うっかりしていた」
思わず、俺は頭を掻いた。
どういうことかといえば、俺が見に纏っている病院服……みたいなやつだが、実はそれ……脱いだりして俺の身体から一定時間離れると、空気に溶けるようにして消えてしまうのだ。
どうしてそうなるのかは俺にも、当のアンノウンも分からない。
とにかく、肌から一定時間離れると、痕跡も無く消えるのだ。ある意味洗濯の手間が省けて楽ではある。だが、その度に新たに衣服を生成しなければならないのは難点である。
『……ずいぶんと慣れたものだな』
「そりゃあ、少なくとも30回以上はやっているからな。嫌でも慣れるよ」
ちなみに、服を生成する方法は簡単だ。
病院服を纏っている己をイメージするだけでいい。『たぶん、それで出来るぞ』というアンノウンの話から、本当にあっさり出来て……いや、それよりも、だ。
(旅館の人達の伝達ミス&脱衣カゴに衣類無し……そりゃあ、あの子じゃなくても誰もいないって思うよな)
とりあえず、あの少年を無暗に驚かせてしまったのは、こちらの落ち度だ。謝りに行くべきか、どうするべきか……元の姿(病院服、下着無し)に戻った俺は……。
……。
……。
…………まあ、いいか。
俺自身は特に気にしていないし、『――身体を見られることに不利益があるのか?』アンノウン自身に至っては理解すらしていない。
盗撮されたとかではないし、言ってしまえばコレは事故。偶然が重なった、不幸な事故。
だいたい、相手だって殴られて痛々しい身体を見て、相応にショックを……ん?
自分の身体を見下ろした俺は……そういえば、殴られて出血したりして衣服や手に血が付いていたことを思い出す。
爺さんもそうだが、誰もその事に触れなかったからすっかり忘れていたが……気を使ってくれた……いや、違うな。
(もしかしたら……衣服だけじゃなくて、血とかも身体の外に出ると消えるのか?)
思い返してみれば、この身体で汗がべたつくといった感覚や、喉の渇きや尿意といった感覚を一度として体感していない。可能性としては、高いだろう。
……まあ、結果的には説明が省けたからいいか。
そう結論を出した俺は、散らばっている脱衣カゴと、その他の小物を元の場所に戻した後……『鈴の間』へと向かう。
途中、お湯はどうだったと旅館の人達に尋ねられたので、頷いて誤魔化し……そうして、既に布団が敷かれた『鈴の間』に入った俺は、電気を消して寝床に着く。
まあ、そんな感じで……思いつきで始まった旅行初日は、終わった。
しばらく、この姿で寝ることが初めてなので落ち着けなかったが……気付いた時にはもう、翌朝になっていた。
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