第5話 行き当たりばったりな始まり



 ……平日の昼間。



 言葉にすれば、それは何てことはない。人によっては週5か週6かはさておき、だいたいひと月に二十回以上有る、その名の通り何でもない日だ。


 俺が住まうマンションは、住宅街の一角にある。表通りからは離れており、用が無ければわざわざ通行人が入ってくることはない、そんな場所にある。


 言い換えれば、マンションの周辺も似たようなモノだということだ。


 だから、エレベーターを降りてマンションを出た俺を出迎えたのは……通行人一人いない、昼間の静けさだけであった。


 幾らか枝葉が伸びたまま放置されている街路樹に、色違いの継ぎ接ぎアスファルト。空から差し込む日の光によって伸ばされている影の形が、視線の先にある。路駐している車もなく、道路はガラガラであった。



 ……きょろきょろ、と。



 我ながら不審な動きだとは思いながらも、辺りを何度も見回す。普段、出歩かない時間に出歩こうとしているからだろうか……何だか、落ち着かない。


 正直、今すぐ踵をひるがえして帰りたいと……思った。


 でも、そうしなかった。それは俺の中にいるアンノウンの影響もあるが……何というか、ここで帰りたくないという気持ちも、少なからず有ったからだ。


 もしかすると……ちょっと、楽しいと思えているのかもしれない。


 思い返してみれば、昼間の間に、アンノウンの身体(と、表現するのが正しいのかは俺には分からないが)で出歩くのはコレが初めてになる。


 ……何だろうか、そう考えると……何とも言い表し難い、不思議な気分だ。


 心の中でそう思いつつ、ぺたぺたと、素足のままアスファルトの上を歩く。幸いなことに、日差しはそう熱くはない。熱過ぎず冷た過ぎないおかげで、火傷や霜焼けの心配をする必要はなさそうだ。


 ……というか、実の所、この身体は熱や寒さには物凄く強い。


 何せ、うっかり火が付いているコンロに手を置いても火傷はおろか、熱さすら全く感じなかったのだ。それに比べたら、真夏の日光すら、今の俺にとってはそよ風みたいなものであった。


 もう一つ付け加えるなら、身体が軽いおかげ(あるいは、意外に頑丈なのか)だからなのか。時折、小石を踏む感触を覚えるが痛みは全くない。固く尖った破片とか絶対にあるはずなのだが、平気だった。



「それで、まず何処へ?」



 時刻は……既に昼をけっこう回ったところだ。


 昼時というには些か遅く、間食というには些か早い。適当な場所へぶらりと出かけるなら丁度良いかもしれないが、遠出するには少々出遅れた時間であった。



『まずは、食事だ。食事を食べられる場所へ行け。そこから先は、随時指示をする』

「この身体って、食事の必要がないんじゃなかったのか?」

『必要ではない。だが、不必要でもない。特に、今のお前には……』

「……? どういう意味だ?」

『――いや、気にしなくて良い。今は只、転ばないよう気を付けて』



 何とも勿体ぶった言い方に気になって、尋ねる。けれども、アンノウンはそれ以上を語ることはなく、とにかく今は食事を取れる場所へ行けとだけ指示をした。


 ……まあ、いいか。


 これがどう俺に働くのかは知らないが、任せると決めた以上は任せるだけ。そう結論を出すと、俺はぺたぺたと素足のまま……駅前へと向かうことにした。





 ……。


 ……。


 …………途中、自転車で行くべきだったと思ったが、アンノウンから止められた。何故かは知らないが、歩いて行けということなので、素直に従う。


 少しばかり傾斜になっている道路を進み、幅の狭い住宅街の路地裏を進み、大通りへ。自転車では入れない通路を通ったおかげか、思いの外早くそこへ出られた。



(……へえ、この時期って、色んな花が咲いているんだな)



 だから、なのだろうか。あるいは、昼間だから、なのだろうか。普段は気にも留めない街路樹の根元に繁茂する花々に対して、妙に目が留まった。


 はっきり言って、花には欠片も興味はない。花の名前だって、チューリップとアサガオ以外はさっぱりだ。だから、どの花を見てもそれが何の花なのかは分からない。


 だが……不思議と、目が向かってしまうのを抑えられなかった。


 そうして、色取り取りの花を横目にしながら歩き続ける事、幾しばらく。


 目的も無く出歩いているからか、そのうち、見慣れ過ぎて素通りしていた様々なモノが気になり始める。特に興味はないが、何とも言い表し難い物珍しさがあった。



 ……基本的には、だ。



 俺にとっての平日の昼間は、派遣先に行って働いているか、家で動画を見ているかの二つに一つ。それ以外の行動を取ることは、ほとんどない。


 夜も、基本的に用が無い限りはまず出歩かないし、その用事も割引品を求めて近所のスーパーに行くぐらいで、ルートは決まっている。


 日曜日や祝日も、大体は同じだ。アウトドア系の趣味を持たないインドア派の俺にとって、余暇の使い方はほとんど決まっている予定調和みたいなものであった。



(……そういえば、前に外出したのは何時だったかな?)



 ぽかぽかとした、陽気。頭上を見やれば、晴天が広がっている。静かではあるが、けして静かではない昼間の気配。時折通り過ぎてゆく車を横目で見やりつつ……ふと、思う。


 振り返ってみたら、平日の昼間から……日用品等の買い物以外で外出するのは今年に入って……いや、ここ2,3年で初めてかもしれない状況だ。


 だからなのか、何だろうか……どうにも、足元が浮ついているような気がしてならない。でもそれは、嫌な気分ではない。


 いちおう、常に身体を大地に引き寄せるよう意識してはいるので、浮き上がって転ぶ心配はないけど……ん?



「――へえ、まだ売っている自販機があったんだな」



 何気なく素通りした自販機。視界の端にちらりと移ったソレに、俺は思わず足を止める。戻って見てみれば……懐かしい炭酸ジュースが販売されていた。


 それは、俺がまだ学生の時に好んで購入していたモノだ。


 コンビニやスーパーでは販売していないらしく、当時はこのジュースを見つける度に購入して飲んでいた。多い時は、一日三本も、だ。


 でも、何時からか見掛けなくなって、てっきり販売中止になっているのかと思っていたが……まさか、こんな近くで売られているとは。



『よし、竜司。ジュースを買え』

「――え、何だよ、いきなり……」



 しばし眺めていると、唐突にアンノウンの指示が身体の中から響いた。「飲みたいならここよりも途中にあるスーパーで買った方が安いぞ」とりあえず、そっちの方が良いんじゃないかと提案してみた。



『ジュースを買え、竜司』



 だが、アンノウンは一考すらしてくれなかった。



 ……まあ、たかがジュースだ。



 こんなことに金を使うのが怖いけど、今の俺は億単位の預金持ち。


 そう己に言い聞かせつつ、小銭を入れてボタンを『――違う、それじゃない』押そうとしたが、待ったが掛かった。


 今度は何だと聞けば、俺が今押そうとしていたジュースでは駄目らしい。


 どういう意図があるのかさっぱり分からないが、スポーツドリンクでは駄目なようだ。もしかして、スポーツドリンクは苦手なのだろうか。



 ……こっちの方がお得なんだけどなあ。



 まあ、仕方がない。促されるがまま、左上から順々に指を向け……止まったのは、懐かしいあの炭酸ジュースだった。



 ……なんだ、コイツもこれが飲みたかったのか。



 意外と可愛い所があるじゃないかと思いつつ、ボタンを押す。久しぶりに聞くジュースが取り出し口に落ちる音。あの頃と変わらないデザインに目を細めつつ、俺は……ごくりと、一口飲んだ。



「……っ! ああ、そうそう、この味この味。甘いけど甘すぎない、物凄く丁度良い感じの炭酸……やっぱこれが一番美味いなあ……」



 堪らず、そのまま一気に……あっという間に全部を飲み終えた俺は、げふう、とため息を零し……空き缶を自販機傍のゴミ箱に入れた。



「……それで、次は?」

『依然、変わらず』

「なるほど、了解……ていうかお前、自販機がどういうものか分かっているんだな」

『前にも話しただろう。全てではないが、断片的には常識というやつを分かっているのだ』

「……そうですか」



 相も変わらず淡々とした口調に苦笑を零した俺は、再び歩き始めた。





 ……そうして歩き続け……さすがは駅前だ。既に2時を回ってはいたが、中々に人通りがあって、自宅周辺とは活気がまるで違っていた。


 具体的にいえば、視界に入ってくる年齢層が明らかに低いうえに、元気があるのだ。何時も利用しているのだが、何時もとは違う雰囲気に……少々、驚いた。



 ……これも、思い返してみれば、そうだ。



 自宅周辺に住まうのは爺と婆ばかりだし、俺が外へ出る時はだいたい夜だ。仕事先にしたって、だいたいの人が疲れ切った顔をして……いや、今はいいか。


 花屋、ドラッグストア、マクドナルド……居酒屋なんかは、まだ開いてはいないようだ。まあ、今の状態では万が一にも入れないから、それはいいのだが……さて、と。



「……食べられたからいいけど、何でセットを三人分も頼むんだ?」

『それが、必要だからだ』

「ふ~ん、まあ、俺はいいんだけどさ」



 アンノウンの指示を受けて、昼食を済ませたわけだが……さすがに、セットメニューを三品注文するような指示をされるとは思っていなかった。


 幸いにも、この身体は大食漢なのか、特に満腹感に苛まれることもなくぺろりと全部平らげることが出来た。


 そのおかげで、店に入った時に向けられた奇異の眼差しが、店を出る頃にはさらに強まったが……まあ、それはいい。



 意図は読めないけど、コレはコレで良かった。



 マクドナルドを利用したのは、何時以来だろうか。この春出たばかりの新作はどれも美味く、気付けば三品ともあっという間に食べ終わっていた。



「それで、次は?」

『まずは、現金を用意するのだ……出来るか?』

「出来るよ、近くにコンビニがあるからな……いくら必要なんだ?」

『札束とやらを、五つぐらい』

「……五つは無理だろうが、まあ分かった。とりあえず、いっぱい引き出すよ」



 ……もう、成るように成れ、だ。



 そう思った俺は、コンビニのATMよりスマホを使って現金を引き出す。最中、店員やら客やらの視線をびしばし背中に感じたが……ええい、成るように成れ、だ。


 そうして、数回に分けて現金を引き出した俺は……大量の紙幣をリュックに入れつつ、ふと、思う。



 ……傍から見れば、俺は今どのように映っているのだろうか……と。



 見たままを表すのであれば、病院服らしき恰好の裸足の銀髪赤目の少女が、数百万近い金を一気に引き出してリュックに入れている……だろうか。



(……我ながら、なんて怪しいんだ)



 長居していると、警官やら駅員やらを呼ばれそうだ。


 そう思った俺は急いでコンビニを出る。『電車……というやつだな。それに乗るのだ、竜司』すると、アンノウンから新たな指示が出された。



「乗るのは良いけど、行き先は?」

『……何処へ行きたい?』

「え、ここに来てまさかのノープランか……」



 いきなり言われても、決められるわけがない。元々、出不精なのだし。とりあえず、券売機の上に設置されている路線図を見やる。


 今までじっくり見る機会なんて無かったが、さすがに終点まで行くとなると結構値段が……いかん、全く決められないぞ。



『……海と山、どちらに行きたい?』

「え、まあ……海、かな」

『よし、それじゃあ海に行ける電車に乗れ』

「乗れって言われても、どの電車か分からんぞ」



 駅員……に聞いたら、警察を呼ばれそうだ。「……しまった、カードを忘れてきた」なので、とりあえず安い切符を買って改札を通り、プラットホームへ……運良く、電車はまだ来ていなかった。


 なので、スマホで最寄り『泊まれる場所がある海へ迎え』……ではなく、ホテルが近隣にある海水浴場を検索して――いや、待て。



(今の俺の、この姿で保護者無しで泊めてくれるホテルなんて、普通はねえよな……)



 思わず、検索している指が止まった……が、すぐに動き出した。まあ、いいか……それが、俺の出した結論であった。


 こいつのやることに付き合うと決めたのだ。考えるのを止めた俺を他所に、パッと表示される様々な候補地。


 それは旅館だったりホテルだったり色々で、レビュー数やら星の数やらも色々で……何が良いのかさっぱり分からなかった。



 ……どれを選べば良いのだろうか。



 決められない俺は、アンノウンへと問い掛ける。すると、アンノウンも迷っているのか、返事が無かった。


 なので、仕方なく一つ一つのサイトを開いて、確認してゆく。この際、値段は見ないことにする。とにかく、アンノウンが返事をするまで、片っ端にページを開いていった。



『――蒼浜ホテルだ』

「は? どれだよ」



 だが、まさか最後のページまで開く事になるとは思ってもいなかった。そのうえ、いきなり『――4番目に見たホテルだ』ホテルの名前を……ああ、そうですか。それぐらい、分かるのですね。


 アンノウンが示した蒼浜ホテルをもう一度見た限りでは、だいたいのガイドブックに記載されている有名なホテル……のようだ。


 海水浴場に近く、駅からの直通バスがある。目玉は何といってもオーシャンビュー。値段は相応に取られるが、海の幸やら何やらも豪華で満足度が相当に高いホテルのようであった。



 ……そこへ、行けと?



 思わず、俺は己が胸に手を当てる……俺、言ったよね。今日一日は任せる……と。このホテルに行こうと思ったら、一日どころの話では無くなるのだが……あっ、いや、違う。



(そういえば、言ってなかった。思っただけで、口に出してなかった……)



 ……間抜けなのは俺だった。


 ここに来て痛恨のミスをしたのは、俺も同じだ……ああ、まあ、いいか。考えるのは止めよう、海へ行くのが先だ。


 そう思った俺は、タイミング良く、線路の彼方より近づいてくる電車を見やり……ん?



(――あれ?)



 何やら、視線を向けられている……ような気がした。



 何気なく振り返った俺は……視線の先、ベンチに座っている人物(確認した時には、こちらを見てはいなかった)を見て、思わず目を瞬かせた。



 何故かといえば、その人物を俺は知っていたからだ。



 遠目からでも体格の良さが伺えるその人物の名は、浜田透(はまだ・とおる)。同じ会社で働いていた同期であり……つまり、俺と同じく派遣社員の男だった。


 ……だった、というのも、浜田は先月の始めぐらいに会社を辞めてしまったからだ。どうして辞めたのか、俺は知らない。


 直接話した事はほとんどないが、俺とは違い、交友関係も広く愛想も良く、派遣先の会社から重宝されている人物だった……ような、覚えがあった。



(独りで旅行……にしては、恰好が変だな。表情も暗い……というよりは、生気が無いし……何が有ったんだ?)



 無造作というよりは寝癖であろうぼさぼさの髪型に、洗っているのかいないのか、皺だらけのシャツ。ズボンはジャージで、何故か屋内用のスリッパを履いている。


 勤務先に向かう恰好では、ない。かといって、旅行に行くにしても、手荷物が無さ過ぎる。ぶらりと買い物に行く……にしたって、恰好がちぐはぐ過ぎる。


 表情も、ボーっとしていて締りがない。だらりと垂れ下がった猫背は遠目に見ても力無く、時折、思い出したかのように背筋を伸ばさなければ、眠っているのだろうと思われるぐらいに……気力を感じなかった。



 ……元気だった頃の彼と、眼前の彼が同一人物だと……いったい、どれだけの人が信じるだろうか。



 俺もあまり他人の事を言えない姿というか恰好だが、それでも、今の浜田が正常というか、平常な状態ではないことが遠目からでも、薄々察せられた。



 ……あまり、目を合わせないようにしよう。



 最後にチラリと横目で見やった俺は、浜田から離れ……プラットホームの先へと向かった。がたん、と電車がホームに入って来たのは、ほぼ同時であった。


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