第4話 一抹の不安、一抹の期待


 ……まあ、いいか。その手を見やった俺は、色々と諦めた。



 どうせ、することが無くなった無職の身だ。


 いちおう、口座にたんまり用意してくれた金だって、まだ手を付けては……そうだよ、俺ってば、今は金持ちじゃないか。


 今更……そう、今更になって、俺はそのことを思い出す。


 口座に入っているのは分かっていたが、使ったら警察に捕まるのではないかと思って、そのまま放置して……すっかり忘れていた。



 ――どうせ、このまま生きていたって、ひたすら明日仕事が無くなることに怯えて生かされ続けるだけの日々だ。善良に生きたところで、誰も見向きしないのだ。



 それなら、いっそのこと……自由にしても良いのではなかろうか。そう思うと……少しばかり気分が良くなった気がした。


 ついでに、疲労感も紛れたようだ。グッと猫背になっていた背筋を伸ばした俺は、画面に映し出されている掌に、掌を合わせた。



 ――瞬間、すっかり慣れた変化が俺の身に起こる。



 熱が、掌から腕へ、腕から肩へ、肩から胸へ、胸から全身へと一気に広がる。パッと、光が視界を埋め尽くしたかと思ったその次にはもう……俺の手は、アンノウンの手となっていた。


 顔を上げれば、画面からはアンノウンの姿が消えている。


 今回も、無事に『融合』とやらは果たしたようだ。疲労感の消えた身体はこれまでと同じく落ち着きがなく、軽く身動ぎするだけで、ふわりと腰が浮き上がった。



 ――そのせいで、ぺらりと病院服(なのかは、未だに不明)の裾が捲れた。



 露わになった下腹部を隠そうと手を伸ばせば、勢いがついて身体が反転する。あっという間に、ちょうど、足を曲げた状態で逆立ちしているような状態になった。



 ……やれやれ、どうもこの感覚の変化だけはすぐには慣れないな。



 とはいえ、かれこれ4か月も体験し続ければ、身体がやり方を覚えてくれる。逆さになった視界の中で床を両手で押せば、天井へと身体が向かう。合わせて反転し、両手で天井に手を当て……床へと、己を引き寄せるイメージ。



 それで――俺の身体は、音もなく床に着地した。



 ……すっかり慣れてしまった、この……シュッとした感じで移動する感覚は、嫌いじゃない。ある種の爽快感というか、まあ、正直に言えば綺麗に着地出来ると楽しい……と。



『――なるほど、お前の言う『疲労』というのは、こういうモノなのだな』



 ほわっ、と。形容しがたい熱を胸に覚えると同時に、アンノウンの声が俺の中に響いた。



「納得してくれたか?」

『ああ……この刺激は嫌だ。あまり、感じたくはない』



 ……本当に、嫌なのだろう。



 これまでの淡々とした口調とは違い、今の台詞にはこいつの感情みたいなモノが見えたような気がして、「そうだろうよ、俺だって嫌だからな」堪らず苦笑を零した。



『どう、表現したら良いのかが分からないが、お前が嫌がる理由であるのは理解した。すまない、私が悪かった』

「それを分かってくれたのなら、それでいいよ。じゃあ、融合を解いてくれ」

『……その話なのだが、一つ提案がある』

「ん、何だ?」

『このまま、今の姿で、私に外の世界を見せてほしい』

「――はあ?」



 思わず、苛立ちが返事に混じるのを俺は抑えられなかった。だが、それはアンノウンも見越していたようで、『……これは、お前の為でもあるのだ』俺の言葉を遮るように話を続けた。



『お前の中を探ってみて分かったことなのだが、どうもお前は、疲労……うむ、たしか、すと……すと……ストレスと言うのだな。それを、かなり重く溜め込んでいるようだな』

「まあ、ストレスが溜まって当たり前の生活だからな……で、それが?」

『お前の肉体には負担を掛けないようにする。そのうえで、お前のストレスとやらを解消する手助けをしたいのだ』

「……どういう事だ?」



 アンノウンの言わんとしている事が分からない。



 そう、尋ねてみれば……アンノウンの言い分では、こうだ。


 どうも俺は……俺自身が自覚出来ないぐらいに精神的なストレスが溜まっているらしい。


 つまり、疲労の度合いは肉体よりも、実際は心の方が酷いらしく、自覚しているよりもはるかに疲労困憊なんだそうな。


 肉体の疲労を堪えきれない状態になったのも、半分近くがこのストレスが原因。今日一日休んだとしても、ほとんど意味はない。だから、まずはそれを取り除きたい……ということらしい。


 ……それ自体は、なるほど、有り難いし、嬉しい。あまり良く分からないが、ストレスが溜まっているなあ……という感じはある。



 だが――それなら、どうして融合したままなのか。



 俺は俺なりにストレス解消をするだけで良いし、わざわざこの状態で行う必要が無いのではないか……そう尋ねれば、『お前は今、それが出来ない状態だ』と返された。


 詳しく話を聞けば、どうも……あまりにストレスが溜まり過ぎて、その発散をするだけの余裕すら今の俺には無いらしい。


 分かり易くするなら、心の老廃物を吐き出す出口が詰まっているような状態だから、心を休ませることが出来ない状態なのだそうな。


 だから、このまま俺一人が休んだとしても、結局は肉体が休んでいるだけ。精神的な疲労はそのままだから、体力の回復も不完全なままとなってしまう……なんだそうな。


 それを防ぐ為に、『一時的に私が出口を作って、老廃物を吐き出してやる』。しばらく吐き出して余裕が出来るまでは、そうした方が良い……というのが、アンノウンの言い分であった。



「……俺って、そんなに酷い状態なの?」

『酷い状態、なのだろう。比較対象がいないから分からないが……はっきり言えば、触りたくもない状態だ』

「え、マジで?」

『例えるなら、排泄物が詰まりに詰まって、溜め込んでいる器が腐りかけているような状態だ』

「排泄物って、お前……」



 思わず己が胸に手を当てれば、肯定だと言わんばかりに、ふわっと熱が一拍した。ある意味、言葉にされるよりも雄弁に物語っていた。





 ……。


 ……。


 …………まあ、考えてみたら、無趣味の俺が休むといったって、動画見るか飯食うか寝るかの三つしかない。


 それで幾らかのストレスを発散出来るかもしれないが、それでは駄目なのだろう。



(そういえば……今のこの姿で普通に外を出歩いたことって、なかったな)



 日用品の買い物に関しては今の姿ではなく、普通に俺の姿で行く。


 アンノウンから『融合したまま行けば速いぞ』と再三の催促を受けても、俺は、俺のままで行くことにしていたからだ。


 だがそれは、何も恥ずかしいとか、目立ちたくないからとか、そういう理由ではない。


 単純に、『アンノウンの恰好』で出歩くと、些の騒動を引き起こしかねないという理由があるからだ。


 何せ……融合した後の今の姿は、恰好云々という以前に、世辞抜きで浮世離れしている。


 外人の少女……というよりは、雰囲気というか、そういうのがあまりに人間離れしている。鏡で拝見して自覚出来るぐらいなのだから、他人が目にすれば……もっと、それを強く認識するだろう。


 それに加えて、どうも……理由は定かではない(アンノウン自身も、凄く嫌がっていた)が、今の姿になると……新たな服を着たり着替えたりすることが、とても嫌に思えてしまうのだ。



 ……何と言い表せば良いのかが分からないが、とにかく不快感が酷いのだ。



 自分でも不思議に思うばかりだが、とにかく嫌なのだ。下着一枚を身に着けただけで、一刻も早くそれを脱ぎ捨てたくて仕方ないと思えてくるのだ。


 だから、最初の出会いから数か月の時間が経った今も、この身体に合う衣服は何一つ用意していない。身に着けたところで、5分と経たない内に脱ぎ捨てたくて堪らなくて苛立ってしょうがなくなってしまうからだ。


 そういう様々な理由もあって、これまで深夜以外では一切の露出を控えていたのだが……それがここに来て、当のアンノウンよりお願いされた。



 ――数か月とはいえ、一方的に始まった関係はいえ、それでも一緒にやってきた仲……だものなあ。



 結局はアンノウンの思惑に誘導されたような気がしないでもないが……気分転換も兼ねて、このままの姿で出てみるのも……一興なのかもしれない。


 そう思った俺は……アンノウンに今日一日を任せてみることにした。



 ――それならば、準備をしなくては。



 無言のままに部屋の隅に向かうと……ごちゃごちゃと放置されている私物の中から、プライベート用のリュックを引っ張り出し……はて、と首を傾げた。



「そういえば、融合したまま出掛けるにしても、どれぐらいの時間、このままでいられるんだ?」



 考えて見たら、これまでアンノウンと融合している時間は、休みこそなかったが、一日の間では2,3時間程度だ。


 別にそれが、融合していられる時間の限度というわけではない。


 単純に翌日に響くのと、限(キリ)を付けないと際限が無くなるからという理由からであった。



『それなら安心しろ。最初の頃とは違い、今のお前には『無駄な緊張』が無い。余計なことをしなければ、特に元に戻る必要もない』



 ……言われてみれば、最初の頃は元の姿に戻った後は何とも表現し難い倦怠感を覚えたりはしたが、今はそんなこともない。


 これは、アレか……いわゆる、身体が慣れたというやつなのだろうか。


 ……人間の適応力って、変な所で強かったりするんだな……まあ、いいか。



「俺が思っていたよりも、ずっとお前は省エネなんだな」



 とりあえず、これで問題が一つ解決したのは分かった。それで、いいのだ。それじゃあ次は、着替えを……面倒だ、このまま行こう。


 引っ張り出すのも面倒だし、そう遠出するわけでもない。それに、この身体に合うサイズの服なんて、持ち合わせているわけもない。


 リュックに入れるのは、財布とスマホと……ああ、そうそう。冷蔵庫に冷やしているお茶のペットボトルも――。



『いや、それだけでいい』



 ――入れようと思ったが、その前に待ったが掛かった。


 掛けたのはアンノウンであり、「え、どうしてだ?」意味が分からない俺は疑問のままに尋ねた。



『持って行くのはそれだけでいい。この部屋からは、余計なモノは持ち出す必要はない』

「でも、途中で喉が乾いたら……」

『その時に、その分だけを買えばいい。金なら用意したはずだ……それに、融合している今は生理現象というやつとは無縁だ……分かるだろう?』

「……あ~、言われてみれば」



 言われて、遅れながら気付く。そういえば、この状態の前に感じていた喉の渇き等が、丸ごと消えている。トイレにだって、行きたいと思った事はない。


 もしかしたら……いや、そうなのだろう。アンノウンの身体でいる間は、そういうことを気にする必要は全くないようだ。



『以後、私の指示には極力従って欲しい。では、出発しよう……もう、お昼とやらを回っているのだろう?』



 そう尋ねてみたかったが、それよりも早く出発を促された。いちいち問い質すのも何だし……なので、俺は言われるがまま外へ――。



「……あ、靴が無い」

『面倒だ、そのままで行け』



 ――出る前に、コイツに従って大丈夫なのかと思ったのは……まあ、黙っておこうと思った。



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