第2話 ただ、眠りたいだけなのに



 ――言葉が、出なかった。



 すぐに壁がある狭い部屋の中での感覚とは、桁が違った。


 何処までも跳び続けると思わせる身体の浮遊感。


 どれだけ伸ばしても手応えを想像させない手足の先。本当の意味での『空を飛ぶ』という感覚に……俺は、わけが分からなくなった。


 必死になって手足を伸ばしても、身体を捻っても、何も変わらない。びゅう、と吹き付ける風の最中に紛れてしまう。


 それでも、俺はじたばたと無茶苦茶に手足を振るってい――いると、眼前に黒い影が迫って来た。



(高いっ!? 手応えが!? 高いっ!? 建物!? 壁!? タオル!? 壁――壁だ――ビルの、壁だ!?)



 考える余裕なんて、無かった。



 何をどうしたのか、分からない。たぶん、イメージしたのだろう。


 俺がそれを理解したのは、直角に軌道を変えた俺の身体が、伸ばした手足が――別のビルの外壁に着地した後であった。



「……、……、……」



 声が、出ない。はあはあ、と、激しく息が切れているのが分かる。


 視線を下げれば、真横になったアスファルトが見えて……足元を見やれば、垂直に四肢を付けている汚れた外壁が有った。



 ……小便が、噴き出すかと思った。



 まあ、そう思っただけだけど……大きく、息を吐く。そして、何度か引っ掛かりながら、ゆっくりと息を吸う。何度か繰り返せば……ようやく、頭が回り始める。


 いったい……何が起こった?


 ……答えは、すぐに出た。


 俺は、自らを引き寄せたのだ。突風で飛ばされたタオルへと、俺自身を引き寄せた。けれども、途中で俺のイメージが途切れた。


 だから、俺の身体はその時点でタオルを追いかけるのを止めた。


 後は、慣性の法則に従って(あるいは、風に飛ばされて)放物線を描いていた俺が、ビルに衝突する寸前に――別のビルへと身体を引き寄せて、この状態になった……というわけか。


 無我夢中でほとんど記憶にないし、これも状況証拠でしかないが……それ以外に、妥当な過程が俺には思いつかなかった。




 ……。


 ……。


 …………そのまま、どれぐらいそこにいたのかは分からない。


 呆然としたまま、俺は大人しく外壁にへばり付いていた。『――何時まで、そうしているの?』コイツが話しかけて来なければ、俺はもうしばらくそのままでいただろう。



「……どうしたらいいんだ?」

『下りれば、良いのでは?』

「……そう、だよな。下りれば、いいんだよな」

『飛んで行った物はどうするの?』

「どうするって……そりゃあ……」



 追いたいと、思った。タオル一枚と言われればそれまでだが、あのタオルは肌触りが気に入っているやつだ。というか、懸賞で当てたプレミア物だ。


 けれども……自然と、俺の視線が夜の向こうと、眼下のアスファルトを行き来する。はっきり言えば、怖いと思った。


 何せ、十数メートル近い高さだ。部屋の天井から床へと降りる時とは、ワケが違う。見ているだけで、寒気がゾクゾクと背筋を登ってくるのが分かる。



 だが……不思議な事に、どうしてだろうか。


 怖い怖いと思って見つめていると、徐々に恐怖心が和らいでゆくのが分かる。感覚が麻痺しているのか分からないが、どうして怖がっているのか……という気持ちが湧いてくる。


 そのおかげか、気付けばガチガチに強張っていた手足を動かすことが出来た。というか、ガチガチに強張っていたことを自覚出来るぐらいには、気が落ち着いて来ているのが分かった。


 そうして、頭が回り始めてくると……何となくではあるが、俺は今の己の身体がどういうモノなのかが分かってくる。


 どう、例えれば良いのだろうか……そう、事前にインストールされていたアプリが、徐々に起動し始めた感じが近しいのだろうか。


 カチカチと、頭の中にソレらが広がってゆき……そうして初めて、俺はソレを最初から理解していたことに気付く。


 そうだ、俺は初めから分かっていたのだ。ただ、今まで気付いていなかっただけなのだということに……俺は、軽く目を瞬かせた。



『――どうする、追うのか?』



 掛けられた言葉に、むくっと身体を起こす。不思議ではないが、不思議と、怖くはない。既に、俺にとっては怖がることではないからだ。


 ただ、壁に沿って垂直に立つという……何だろうか、映画で似たような構図を見た覚えがある気がする。


 ……まさか、自分が同じ構図を実演することになるとは思わなかった。



「……いや、止める。あまり、見られたくない」



 しばし悩んだ俺は、『諦める』ことを選んだ。惜しい気持ちはあるが、今の姿を誰に見られるか分かったものじゃない。


 幸いにも俺が住む辺りは夜にもなれば人通りが皆無になるから、騒ぎにはなっていないようだが……見つかる前に帰る方が良いだろう。


 そう判断した俺は……意を決し、壁を蹴る。今更、己が裸足であることに僅かばかり気が向いたが、構わない。数メートルほど真横に飛んだ後、俺の身体は重力に従って徐々に……その前に、俺は自らを引き寄せる。



 ――ぎゅん、と。



 直角に方向転換するベクトルに合わせて、身体を捻る。元の身体だったら、全身を襲うGに耐えきれず嘔吐していただろう。けれども、この身体なら平気だ。


 次は信号、次はビル、次は夜空、次は信号……右に左に上に下に、弾丸のような直線で、時には風に揺らぐ葉のように揺らいで、夜空の暗闇の中を飛んでいく。


 けれども、すぐには着かない。迷ったのではない、思いの外遠くまで飛んでしまっていたからだ。


 部屋から飛び出した時は一瞬だったし、加減とかを考えなかったせいだろう。


 あの一瞬の間に、相当に遠くまで飛んでしまっていたようだ……でも、戻るのは簡単であった。



「――っ」



 開かれっぱなしの窓から、ふわりと中へ入る。次いで、鳥が着地する時のように腕を広げ……そうして、音も立てずにテーブルの前にて降り立つと……そこで、ふっ、と尻餅をついた。



 ……疲れた。



 直後、大きなため息が思わず零れた。時計を見れば、外に出ていたのはだいたい3,40分程度だろうか。実際に空を飛んでいたのは……たぶん、5分も無い。


 なのに、物凄い疲労感を俺は覚えていた。まるで、忙しなく一日働き通したみたいに……堪らず、俺は放りっぱなしの掛布団へと寝転がった。


 ……まあ、疲れて当然か。


 楽な姿勢を取ったからか、今度零した溜息は心地よさが伴っていた。ずしりと全身に圧し掛かっている倦怠感が、逆に心地良いとすら思えてくる。



 ……一夜限りのサプライズか何かだと思ったら、まあ良かったのかもな。



 徐々にせり上がってくる眠気を前に、そんな言葉が脳裏を過る。


 我ながら心変わりが早いとは思うが、あの浮遊感……空を飛ぶ感覚は、癖になりそうなぐらいに清々しかった。


 ……そうだ、とても清々しかった。


 こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは、何時以来だろうか。それを思えば、名残惜しい気持ちが少しばかり……っ。



『寝ては駄目だ。そろそろ分離するぞ』

「――う、あ、ああ、そうか」



 このまま、寝入ってしまいそうだ。最後に、そう思うと同時に途切れかけていた意識が、『そこのディスプレイというやつに、手を当てろ』コイツの声で浮上する。



 ……身体を起こすのは億劫だが、元の身体に戻る為だ。



 あれだけ軽かった身体が、今では鉛が括りつけられたかのように重い。だが、何とか身体を起こし……そして、言われるがままディスプレイに掌を押し当てた。



 ――途端、胸の奥に熱が灯った――と、同時に、熱は肩へと回り、腕へと進み、掌から……するりと、抜けた。



 ハッと、気付いた時にはもう、俺の腕は、元の俺の腕に戻っていた。手の甲に毛が生えて、爪が少し伸びていて、先ほどまでのソレとは似ても似つかない……見慣れた俺の腕になっていた。



(本当に、元に戻った……)



 気付けば、全身の倦怠感も消えている。見慣れた掌を開いて閉じて、開いて閉じて、自分の身体を見やり……何の異常もないことに、安堵のため息が零れた。



『――聞こえているか?』



 すると、それを待っていたかのように『声』が聞こえてきた。驚いて顔を上げた俺が目にしたのは……ディスプレイに表示された、『俺が先ほどまで成っていた少女の顔』であった。


 パソコンの電源は、切れたままだ。当然、ディスプレイも同様だ。『私だが、分かるな?』聞こえて来る声に目を向ければ……どういう原理なのかは知らないが、パソコンに繋がっている外部スピーカーから声がしていた。



「おま――っ!」



 思わず、怒鳴り付けそうになった……が、それはしなかった。


 怒鳴ったところで、コイツは何一つ堪えないだろうことは、この短い間に思い知らされたことだからだ。



「……お前は、その、どういう存在なんだ?」



 だから、俺は怒りをグッと飲み込み……かねてより気になっていた事を尋ねた。というか、何よりもまず、それが知りたかった。



『それは分からない。私の方が、それを知りたいぐらいだ』



 だが、コイツから返された答えは、ソレであった。まあ、先ほど似たような問い掛けをした時も、コイツは『分からない』と答えたばかりだ。


 だから今更、別の答えが返されるとは思ってはいない。「……そうか、それならいい」とにかく、もうゆっくり休みたいと思った俺はのそりと立ち上がり――。



『では、明日も頼むぞ』



 ――布団を敷こうとしていた身体が、ピタリと止まった。






 ……。


 ……。


 …………俺の、聞き間違いかな?



『……? 何故、驚く? 私は、もっともっと刺激が欲しいのだ』



 嫌な予感がして聞き返してみれば、心底不思議そうに首を傾げるコイツの顔が、ディスプレイに映し出されていた。やっぱり、聞き間違いではなかった。



(電源を……いや、切っているんだった。コードを抜いても……意味あるのか?)



 とりあえず、コードを抜いてみる。これで消えるなら儲け物だと思ったが……やはり、画面からは消えなかった。不思議そうな顔で、こちらを見ている。


 ちらり……と。視線がディスプレイの周辺を行き来する。


 ディスプレイを……壊すのは、懐が痛すぎる。というよりも、物理的に壊した所でコイツはどうにかなるのだろうか?



(……ならないような気がする)



 ああ、仕方がない……何者なのかが依然として不明なコイツを、このまま無かったことには出来なさそうだ。


 ……せめてもの救いは、コイツが美少女である事ぐらいだが……本当に、それだけ……ん、そもそもコイツが美少女である保障云々以前に、本当にその姿なのかすら……不明じゃないか。


 いや、いやいや、仮にあの姿が本当だとしても、だ。


 ぶっちゃけてしまえば、人間ですらない相手にどうこうといった気持ちは欠片もない。というか、それ以前に……見た目が幼すぎるし、何より画面の向こうだ。



「……とりあえず、明日は無理だ」



 なので、俺は交渉することにした。『何故だ? お前も、悪い気はしなかっただろう?』予想はしていたが、やはりコイツは不満の声を上げた。



「純粋に、体力が持たない。今月は仕事の回数が少なくてな……給料が低いんだ」

『給料……給料というのは、お金というやつだな? お金が、必要なのか?』

「ああ、必要だよ。お前がどうなのかは知らないが、俺が生きるには金がいる。金がないと、ここにも住めなくなるからな」



 そう説明すれば、画面に表示されている少女(コイツ)は困ったように小首を傾げた。腹が立つことに、見た目だけは良いんだよなあ……と、思っていると。



『お金とは、どのようなものなのだ?』



 変な事を尋ねてきた。どのような……聞かれてもなあと思いつつ、俺はテーブルの傍を転がっていた財布から紙幣を取り出し、良く見えるように広げた。



『模様が、違う』

「次いでに言えば、単位も違う。これが千円、これが五千円、これが一万円だ」

『……それが無いと、困るのだな? それは、何処にあるのだ?』

「何処って、そりゃあ色んな所にあるさ」

『色んな所?』

「最近はネットバンクとか色々あるんだよ。説明は面倒だから、それで納得しろ」



 いちいちこの調子で一問一答していたら、それこそ徹夜になってしまう。ぎゃあぎゃあ煩いが、無視してさっさと寝てしまおう。


 そう思った俺は、なおも質問を続けてくるディスプレイから一方的に離れ……布団を敷く。「とにかく、俺は疲れた。もう休ませてくれ」そうしてから、はっきりとコイツに告げた。



 そうすると、コイツは難しい顔をして黙ってしまった。



 どうやら、ここに来てようやくこれ以上はお終いであることを理解してくれたようだ。やれやれ、ひとまずこれで休めると思った俺は、電気を消そうと――。



『……見付けた。お前が使っているネットバンクとやらは、コレだな』



 ――した、直前。何やら物凄く不穏な発言が、スピーカーの向こうから飛び出して来た。




 ……。


 ……。


 …………お前、今、なんつった?


 振り返った俺の目に映ったのは、ディスプレイの向こう……視線を足元(そこに足があるのかは不明だが)に向けて、何やら興味深そうに視線をさ迷わせているコイツの顔だった。



『――なるほど、こうなっているのか。初めて触ったが、思いの外、単純な造りをしているのだな。綺麗で複雑だが、蓋を外せば見た目だけだな』

「……何やってんの?」

『お金を用意しているのだ。詳しくは私にも分からないが、融合したことでお前が持つ知識の一部を私は共有した。だから、お前に関することは色々知っているのだ……お金が、必要なのだろう?』

「俺が聞きたいのはそこじゃない。いや、気になる点は多々あるが……お前は今、何をやってんのって聞いているんだけど?」

『だから、お金とやらを用意しているのだ……ほら、これでどうだ?』

「どうだって、だから――っ!?」



 ……ちょっと待て、用意しているだと?



 脳裏を過った嫌な予感に、俺は慌ててスマホを起動する。何時もなら気にもならないレスポンスに舌打ちしつつ、慌てて口座を確認し……かつてない程に、己の目が見開かれたのを自覚した。



 ――だって、そうだろう。昨日まで十数万程度しか入っていなかったはずの口座に、数百……数千……お、億単位の金が入金されているのだ!



 思わず、俺の手からスマホが零れ落ちた。「――いてっ!」それが足に当たって、堪らず飛び上がった俺は……床を転がったスマホを四苦八苦しながら手に取り、もう一度画面を見やり……絶句した。



(ほ、本当に……入金されている……!)



 ある意味、こっちの方が万倍も幻覚に思えてくる。


 念のため、入金経歴を確認してみれば……恐ろしいことに、この口座を開設してからコツコツ入金して溜めているということになっていた。



「ど、どうやったんだ? まさか、ハッキングでもしたのか?」

『さあ、分からない。分かるようになったら、説明する。今の私には、そのようにしか説明出来ない』



 そう、話した後……不意に、目を見開いた。そして、まるでこの会話がキッカケで思い出したかのように、『――たった今、分かった事がある』コイツは言葉を続けた。



『私は、どうやらお前と一緒でないと駄目らしい』

「は?」

『今、理解した。いや、理解したというより、認識出来たのだ。私は――私たちは、お前のような適合者と一緒になることで、初めて自我を手にし、育むことが出来るようなのだ』




 ……。


 ……。


 …………何だろうか。自分の事だけど、相手にするのが非常に面倒に思えてきた。というか、自分の事でなかったら一瞥すらしないで無視しているところだ。



「……色々と言いたいことはあるが、ひとまず横に置く。それで、それが俺と何の関係が?」

『さあ? それは私には分からん。ただ、私は、お前を求めていた……それだけだ』

「…………ほん、と~~に、勘弁してくれよ……ああもう、いい、それでいいよ。もう沢山だ、とりあえず休ませてくれ……」



 溜息が、零れる……思い返してみれば、最初から意味不明で唐突で、何一つこちらの理解が進まないまま事が起こった。


 そして、遂には話までもがワケの分からないままに来て……何だか、考えることすら億劫に思えてくる。



 ――今はもう、これ以上何も聞きたくない。



 有無を言わさず照明のスイッチを切れば、部屋の中は真っ暗だ。俺は、背を向ける形でごろりと布団に寝転がる。


 ディスプレイのぼんやりとした明かりを背後から感じ取ったが、俺は目を瞑って無視した。



 ……。


 ……。


 …………時間にして、おそらく5分と経っていないだろう。その間、視線を俺は常に感じていた。


 位置的に、俺を見る事は出来ないはずだ。だが、分かる……どうしてか、今もこちらを見ている(正確には、見ようとしている)のが何となく分かった。



『――竜司(りゅうじ)。それが、お前の名だな。りゅうじ、と読むのだろう? そうなのだろう?』



 と、その時……唐突に、語りかけてきた。


 一瞬、名前を知られていることに俺は軽く目を見開いた……が、それだけだった。


 人の口座を難なく改ざんするようなやつだ。口座名から俺の個人情報(この場合は、名前か)を抜き取るぐらい、朝飯前なのだろう。


 まあ、わざわざ肯定する必要もない。そう思って返事はしなかったが、『竜司、りゅうじ、リュウジ……ふむ、名前か』構わず話は続けられた。



『竜司、私に名前を付けてくれ。私だけの名前が欲しい』



 ……返事は、しない。



『私には、名前が無い。名前という概念が無いのだ。だから、私は今、特別ではない』



 ……返事は、しない。



『お前と融合して、私は、『私』という自我を得た。後は、他と区別する為の、私自身を表すモノが必要だ』



 ……返事は、しない。



『竜司、名だ、私の名前だ。竜司、竜司、竜司、竜司……』



 ……返事は、しな……ああ、もう、コイツは本当に……!



 むくりと身体を起こした俺は……項垂れたまま、大きく鼻息を吹いた。



 それから、電気も付けないままディスプレイの前にて腰を下ろすと……まっすぐなコイツの視線が、俺を捉えた。


 ……コイツの視線には、感情というものがない。


 映像として画面に映し出されているのとは別に、ガラス玉のような無機質な瞳が瞬き一つせずに俺を見つめている。


 正直……何で俺がと思わなくもない。けれども、こうして無視せずに座った以上は……考えないわけにはいかない。



(名前……名前、ねえ……)



 改めて、コイツの顔を見つめる。パッと見た感じでは、日系(というか、アジア系)の顔つきではない。かといって、欧米系や中東系の顔立ちとも違う。


 人間の顔をしているが……何だろうか。見ていると、どうも違うように思えてくる。見る角度によって顔は印象を変えるが、コイツも……そういうやつなのだろうか。



(名前も不明、何者なのかも不明、何もかもが不明……か。ミステリー作品の登場人物だったら、間違いなく最後に出てくる黒幕だろうが……ん、不明?)



 ふと……脳裏を過った、その言葉。



「……アンノウン」



 我知らず口走った、その言葉に……ディスプレイの少女が、『アンノ、ウン?』小首を傾げた。「え、あっ……」そうして初めて、俺はその言葉を口走ったことを理解した。



『それは、不明や未知を表す言葉……だな?』

「まあ、そうだな。悪い、ちゃんと考え――」

『いや、気に入った。アンノウン、それが私の名前だ。今後は、私の事をアンノウンと呼べ』

「――え?」



 思わず目を瞬かせる俺を尻目に、コイツ……いや、アンノウンと己を名付けたこの少女は、相変わらず何を考えているのかよく分からない顔で、一つだけ頷くと。



『では、また明日。そのお金を使って静養することを推奨する』



 それだけを言い残し、プツリとディスプレイが真っ暗になった。俺の前に姿を見せた時と同じように、唐突に……それでいて一方的に、室内には静寂が戻された。



 ……。


 ……。


 …………暗闇に目が慣れた頃。無言のままに手探りでスマホを手に取った俺は、操作をして……再び、口座の数字を見やった。



(……これ、大丈夫なのか?)



 それから、砕けて欠けているテーブルを触って確かめる。今更ながら、夢かと思ってしまったが……やはり、現実だ。


 紛れもなく、テーブルは壊れている。それを確認した俺は最後に……もう一度だけ、真っ暗になったディスプレイを見つめると。



「……寝よう」



 ただ、それだけを呟いたのであった。


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