プロローグ・その2


 振り返れば、周りの物が……いや、物だけじゃない。


 周囲の全てが、少しばかり大きくなったように思え……そこで初めて、竜司は己が恰好がジャージではなく、見たこともない衣服に変わっていることに気づいた。


 これは……病院服というやつなのだろうか。


 女性のファッションに関する知識がほぼ皆無の竜司には分からなかったが、造形は病院服に似ている。ワンピース……それでもなさそうだが……いや、それよりも、だ。



「…………」



 感覚的に……あくまで感覚的な話ではあるが、予兆というか、奇妙な開放感はあった。恐る恐る裾を捲った竜司は、再び鏡を手に取って……股の間に、差し込んだ。



「…………」



 言葉が、出なかった。無言のままに、再び鏡を元に戻した竜司は……大きく、息を吐いた。けれども、それでは何も落ち着かなかった。


 足早に唯一の部屋へと戻った竜司は、次いで、またキッチンへと戻る。


 何をしているのか自身も理解出来ないまま、ぐるぐると行ったり来たりを繰り返し……ぴたりと、パソコンを前にして足を止めた。



 ――ハッと気づいた竜司は、慌ててディスプレイの前に座った。



 少しばかり小さいと思っていたパソコンが、一回り大きくなったように思える。目測ではあるが、文字通り頭一つ分以上は小さくなっているせいだろう……今は、どうでもいい。



 ばん、と。



 真っ暗なディスプレイに掌を押し当てる。ぐらんと画面が蛍光灯の光に揺れたが、構うことなく何度も押し当てる。ばんばんばん、と続けた竜司は……続いて、パソコンの電源を入れる。



 ……カリカリ、と。



 購入直後ならいざ知らず、様々なデータが入っている今のパソコンは、相応に立ち上がるのが遅い。何時もなら気にしないが、今は……今だけは、堪らなく腹が立った。



 ……カリカリ、と。



 古くなったHDDの特徴なのだろうか。起動に伴って聞こえる異音に、竜司は堪らず舌打ちをする。「……っ」その舌打ちだけは何も変わっていないことに、竜司は思わず目を瞬かせ……呑みかけの酒に手を伸ばす。


 ほとんど呑み終えてはいたので、せいぜい二口分しか残っていなかった。


 けれども、たった二口分だけでも、心を少しばかり落ち着ける手助けにはなった。くしゃり、と握り潰した空き缶をゴミ袋の方へと放り投げた竜司は、改めてディスプレイを見つめる。



 すると、タイミングよく画面に光が灯った。



 パスワード入力画面だ……が、まだ遅い。完全に動き出しているわけじゃないからと、気を落ち着かせながら、ゆっくりとパスを入力し……ホーム画面を表示する。


 うろ覚え(酒が入っていたこともあるし、ほとんど流れ作業だったので)な記憶を頼りに、先ほどの手順を思い出しながらクリックを重ね……同じページへと辿り着く。



 そこで――もう一度、竜司は画面に掌を当てた。



 だが……結果は同じであった。先ほど同様、何も起こらない。フリーズもしないし、白い靄も……何も、起こらない。


 何度も何度も、クリックとバックを繰り返す。途中、何度か挙動が遅くなったことに期待はしたが、すぐに普通に動き出し……そうして、20分ほど作業を繰り返した……その時。



「――くそっ!」



 苛立ちと不安が、頂点に達したのだろう。怪我をするぞと止めようと思った時にはもう、右手に掴んだマウスを振り上げ――腕ごと、テーブルに叩き付けた。



 ――が、しかし。



 瞬間的に抱いた後悔は、すぐに霧散した。何故なら、叩き付けられたマウスが、受け止めたテーブルが、べきん、と鈍い音を立てて砕いて貫通したからであった。


 手応えなんて、欠片もない。


 まるで、クッキーを砕いたかのような、柔らかい感触であった。「――っ!?」状況が呑み込めないまま、竜司は……ああ、いや、違う、そうじゃない。



「あ、ああっ!」



 そう、『俺』は、パソコンから離れようと飛び退いていた――だが、それが悪かった。


 ただ、立ち上がった。ともすれば、尻餅をつく程度の勢いのつもりだったのに……足先が何かに当たったと思った直後、目の前には壁が迫っていた。



 ――反射的に、俺はその壁に両手を付いた。



 俺は、背中の方にある壁へと仰け反ったはずだ。なのに、どうして俺の前に壁がある。いったい、何が起こったのだと振り返った俺は……言葉を失くした。


 何故なら、視線の先にあるのは砕けてガラクタとなったテーブルと、変形したパソコンと割れたディスプレイ。そして、部屋の隅に纏められたゴミやら布団やらであったからだ。


 何が……今度はいったい、何が起こっているんだ?


 理解が、追い付かなかった。どうしたのかと周囲を見回した俺は……隣にある蛍光灯を見て、ようやく状況を理解した。



「て……天井に、張り付いているのか?」



 そう、俺は天井に向かって四つん這いになる形で張り付いていた。それも、無理やり張り付いているといった、そんな苦しさは欠片もない。


 全く、苦しくない。普通に四つん這いになっているよりも、ずっと身体が楽で、軽くなっている感覚を覚えた。



 まるで、水中をふわりと漂っているかのような。


 まるで、現実的な白昼夢の中にいるかのような。


 まるで、自分の身体が風船になったかのような……ああ、違う、そうじゃなくて!



 ――とにかく、降りなくては。



 このままでは、何がどうなるか分からない。そう思った俺は、何とも奇妙な感覚を覚えながらも、天井を蹴って床へと足を伸ばした。


 けれども、足が……いや、身体が落ちて行きそうな感覚がない。


 なので、そのまま両手でさらに天井を押した。すると、俺の身体はゆるやかに下降を始め……音もなく、床に足がついた。



「……っと、と、と!?」



 途端、身体がふらついた。思わずたたらを踏む。しかし、そうするだけで、ふわふわと腰が浮く。比喩ではなく、物理的にふわっと浮上する。


 おかげで、重心が落ち着か……いや、これは重心等という軽い話じゃない。


 手足の先、骨の末端に至るまで、ガスを注入されてしまっているかのように、落ち着いてくれない。油断すると、つま先が浮く。


 前に足を踏み出せば、反動で変な方向に身体が逸れてしまう。ならばと踏ん張れば、天井へと戻ってしまう。再びゆっくり下りれば、また前のめりになってしまう。


 何とか手に取った掛布団が無ければ、俺はこの後も数十分は部屋の中を右往左往していたことだろう。


 掛布団を……重りとして使用するのは、生まれて初めてだった。



 ……。


 ……。


 …………そうして、ようやく。



 ゆっくりと、慎重に……キッチン(比較的掴みやすい所が多く、また、固定されている物も多いので)へと辿り着いた俺は……改めて、鏡に映し出された己を見やった。


 やはり……何度見ても、白い靄が最後に見せた姿と瓜二つだった。


 細かい部分は違うのかもしれないが……だが、どうして俺はこの姿になっているのだろうか。もしかして、あの……手を合わせた事が原因なのだろうか。



(何かが身体の中に入っていく感覚を覚えはしたが、もしかして、あれが……)



 実際の原因は分からないし、理屈はさらに分からない。でも、推測は出来る。少なくとも、現時点ではそれ以外の理由が何一つ思い浮かばなかった。



 しかし……それで、どうしろというのだろうか。



 病院服のようなソレを捲り上げ、鏡越しに己の身体を改めて見やる。率直に言えば、小さく華奢だ。これが人間の肌なのかと思うぐらいに綺麗ではあるが……それだけだ。


 年齢は分からないが、だいたい歳は中学生……ぐらいなんだろうか。銀髪と赤目は……染めているわけでも、コンタクトでもなさそうだ。


 腹を摩ってみるが、違和感は何もない。『これが俺の腹なのだ』ということを、掌越しに、掌に押された腹部越しに、伝わって来る。


 伝わって来る、その感覚。それだけなら、この姿に成る前と何も変わらない……変わらないと、俺は思えた。



 ……夢、なんだろうか。



 そう思って、思いっきり抓ってみる。そうすると、はっきりとした痛みが伝わってくる。さらに力を入れれば、もっと強い痛みが脳天へと走る。


 指を放せば……抓った部分が、ほんのり熱くなっているのが分かる。だが、夢は覚めない。もしかしたら力が足りないのかと思った俺は、さらに力を入れて腹を――。



『何故、自傷行為に走るのですか?』



 ――抓った、その瞬間。「うっ、あっ?」すぐ傍から掛けられた言葉に、肩がビクッと震えた。「だ、誰だ!?」ずり落ちかけた布団を寸前で押さえた俺は、周囲を見回した。


 だが、そこには誰もいなかった。


 気配すら、ない。何処もかしこも、人や物が動いた形跡がない。聞き間違い……混乱するあまり、幻聴を聞いてしまったのだろうか……?



『教えて、何故、己を傷つけるのか。とても、興味深い』

「――誰だ、何処にいる!?」



 いや、気のせいではない。確かに、いる。何処かに、いる!



 反射的に、俺は食器置きにある包丁を手に取り、キッチンを背にして構えた。反動で、ずるりと布団が肩から落ちる。片手で流し台を掴みながら、油断なく前を見据える。


 でも、何処にもいない。上にも下にも右にも左にも、影も形もいない。掛けられた声は、すぐ隣からだと思ったぐらいなのに、何処にもいない。



 今の一瞬で逃げた……どうやって?



 キッチンからは、室内の全てを確認出来る。唯一見えないのは、俺の位置から左後ろ、部屋を出て玄関へと続く廊下と、その途中にある風呂だろうか。


 けれども、それなら、そちらに逃げ込む時の動きが分かるはずだ。それに、俺もそちらの方は真っ先に見た。でも、そちらには誰もいなかった。


 今しがたの声は、廊下からのものではない。それこそ、耳元でそっと囁かれたかのような距離からだった。だから、逃げ込んだのなら見えたはず――。



『それでの自傷行為は推奨しない。それでは、私が融合した意味がなくなる』


 ――また、声がした。それも、すぐ隣から。


「誰だ! 何処にいる! 姿を見せろ!」



 小さくなった今の両手には、この包丁は少しばかり大きく感じる。


 それが、僅かばかり恐怖心を和らげてくれるのか、声はほとんど震えていなか……いや、待て。



 声は……何処から?



 気付いて、もう一度辺りを見回す。やはり、姿はない。俺以外、誰もいない。何処にも、何にもない。



 ……何で、隣から?



 そう、思った――瞬間。熱が、胸元から……いや、心臓の辺りから広がった。「まさか……!?」そんな事が有るわけが……そう、言い掛けた俺の言葉は。



『私は、ここにいる。さあ、教えて、何故、自らを傷つけるのか』



 隣から……いや、俺の内側から響いた声によって、遮られ。俺の喉から出てくる事はなかった。



 ……どうすれば良いのか、全く分からない。



 これは幻聴や幻覚の類なのだろうか。だが、それなら今の己の姿の説明が付かない。


 それすら幻覚の一種であるならお手上げだが……こうまで現実味のある幻覚が、あるのだろうか。


 まるで、ホラー映画の住人になったような……俺の手から、ぽろりと包丁が零れて、床を転がった。

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