刹那の境・那由多の境・彼方の女神

葛城2号

プロローグ

 



 ――ここではない何処かへ行きたい。


 ――己ではない、別の何かに成りたい。


 ――もっと遠く、もっと高く、もっと自由に。




 何時の頃からか、ふとした拍子にそれを願うようになった男がいる。



 その男――鈴木竜司すずき・りゅうじ、独身の31歳男性。



 高くもなければ低くもなく、太ってもいなければ痩せてもいない、中背中肉。不細工と断言されるほどでもないが、けして美人と称される顔立ちではない。でも、得ている給料は平均より低め。


 住んでいる家は築数十年のマンションで、両隣どころか同じ階の人達は全員年上(会釈を交わした程度の間柄)で、己より若い人をマンション内でほとんど見かけたことがない。


 それが、竜司の暮らしている世界である。


 そうして今日も、何時ものように仕事を終えた後の彼は部屋着兼寝間着(ジャージ)に着替え、冷凍していた調理済みパスタ(自作)を温める。お供に取り出した度数高めの酒を片手に、パソコンの電源を入れる。



 それが、帰宅した竜司が行うルーチンワークであった。


 そして、その先のルーチンは、ネットで映画を見る事であった。



 けれども、特に映画が好きだというわけではない。ただ、明日の仕事までの時間と漠然とした不安を安く潰すには、映画が最適であったからだ。


 昨今、時間一つ潰すにも金が掛かる。寝るにしても、中途半端な時間で寝ると明日が辛くなる。睡眠薬やら何やらで寝ると、余計に翌日が辛い


 だから、起きている方が色々と楽なのだ。眠くなるまで酒を飲んで、何もかもをアルコールで紛らわせたまま眠るのが、一番楽なのだ。


 なので、どの映画を見たいか云々というものは、竜司にはなかった。


 強いて傾向を挙げるとするなら、コメディ映画だろうか。気分によってはラブロマンスも見るが、それらは得てして辛いシーンも多い。


 嫌いではないが、好んで見るほどではない。


 それが、ラブロマンス映画に対して竜司が抱いている感覚で……只でさえ近頃は憂鬱が晴れない毎日が続いているのもあってか、その日もコメディ映画のタイトルをクリックしていた。


 ……竜司の部屋の間取りは、少しばかり大きめの寝室兼リビング兼収納スペースの一部屋と、有るか無いかの狭いキッチンスペースが一つ。そして、風呂とトイレがまとめられているユニットバスが一つ。


 それが、竜司が暮らす部屋であった。そして、その部屋は御世辞にも片付いているとは言い難い状況であった。


 部屋の隅に置かれたゴミ袋には潰された大量の空き缶がまとめられ、その隣のゴミ袋はパンパンに中身が詰められ、固く口が縛られている。


 寝床として使用している布団一式は畳んで纏められているが、その上には大量の洗濯物(洗って乾燥済み)が置かれている。この部屋唯一の窓の向こうには、針金に吊るした衣類が夜風に揺れているのが確認出来る。


 あまり、行儀は良くない……まあ、誰にも咎められることのない独り暮らしの部屋だ。よほどのキレイ好きでなければ、様々な物が相応に放置されてゆくのは当然の結果であった。


 それから、もぐもぐ、と。無言のままに、竜司は食事を行う……何処で食べているのかって、そんなの流し台の傍だ。


 元々、味など欠片も考えずに値段だけを考慮して作った一品だ。


 いちいち座って食べるよりも、さっさと食べてさっさと洗った方が時間と労力の節約になる。


 そんなわけで……だ。


 想定通りの味に想定通りの満足感を得た竜司は、手早く食事を済ませ、食器を片づける。


 次いで、帰る途中で買って置いたスナックパンと、冷蔵庫から新たに取り出した酒を手にして、パソコンの前の座布団に座る。


 ……購入して5年目になるパソコンは、さすがに購入時より立ち上がりが遅い。付け加えるなら、座布団もすっかり固くなっている。


 ちなみに、パソコンが置いてあるのは折り畳み式のテーブルの上だ。専用のデスクを買った方が色々と楽なのだろうが、組み立てるのも面倒だし、地震で倒れたら嫌だからテーブルに……話を戻そう。


 とにかく、竜司は何時ものように動画サイトにアクセスした。


 月額千円程度で、幾らかの映画が見放題。回線の都合上、時々通信に遅延が発生するが、それでも金の掛からない娯楽であることには変わりなかった。



「……ん?」



 だが、しかし。何時ものようにサイトにアクセスし、今日見る映画を吟味していた竜司は……この日、何時もとは違う現象に遭遇していた。



「……フリーズ?」



 一言でいえば、パソコンの挙動が止まったのだ。


 それ自体は、特に驚くようなことではない。スマホやパソコンに限らず、フリーズというのは確率こそ低いものの、起こる時は起こるからだ。


 なので、この時点では……そう、この時点では、竜司も特に気にすることもなく、電源ボタンを長押しして強制的にパソコンの電源を落とした。


 真っ暗になったディスプレイ画面を前に、ぐびりと酒を傾ける。


 ……こういう場合、少しばかり間を置いてから電源を入れるのが正しいやり方らしい。


 それを知っている竜司は、とりあえず漫画でも読むかと傍に置いたスマホを手に取り……異変に、気付いた。



「…………?」



 変化は、真っ暗なディスプレイ画面に現れた。


 簡潔に述べるのであれば、『白い棒のような何か』が画面上を通り過ぎたのだ。電源が通っていない、真っ暗な画面上を、だ。


 思わず電源ランプ(電源が入っているか否かを知らせるマーク)を確認した竜司は……見間違いかと首を傾げた。


 電源が入っていたならいざ知らず、電源を落とした今ではありえないことだ。それで画面上に変化が現れているなら、電気的ではなく……機械そのものに異常が発生している可能性が高い。



 ……まさか、壊れたのか?



 嫌な予感を覚えつつも、ペタペタと画面を触る。


 とりあえず……ヒビや傷がないことを確認してから、後ろに回ってコードの接触部やら何やらを見やり、ついでにテーブルの下に置いてあるハンドワイパーで埃を取る。


 万が一機械的に壊れて動かないだけならまだしも、それが原因でショートでもして火事にでもなれば……そう思っての判断であった。


 とはいえ、あくまでそれで改善するのは表面の環境だけ。内部云々は、素人の竜司にはどうしようも出来ない。なので、このまま電源を入れても良いのかどうかすら、分からない。


 ……やっぱり、ただの見間違いなのだろうか?


 時計を見やれば、電源を落としてから十分ぐらい経っている。しばし画面を眺めていた竜司は、とりあえず新たな異常が起こっていないことを確認してから、電源ボタンへと手を……その時。



「――え?」



 再び、画面上に『白い棒』が現れた。右から左へ、まるで通り過ぎて行ったかのように流れて、見えなくなった。



 ――これは、見間違いではない。



 その事実に、竜司は目を瞬かせた。だが、困惑する竜司を尻目に、不思議な事はまだ終わらなかった。


 それまでただ通り過ぎていくだけだった『白い棒』が、唐突に画面上にて止まったのだ。音もなく、前触れもなく、いきなりピタッと止まったのだ。


 まるで、真っ暗な空間に白い人影が佇んでいるかのような、異様な光景であった。はっきり言って、不気味だと竜司は思った。


 けれども、そんな竜司を他所に『白い棒』は……ゆらゆらと、左右にブレ始めた。まるで、総身を震わせているかのような仕草だ……それが、徐々に大きくなってゆく。



 ――もしかして、こっちに近づいて来ている?



 そう、竜司が認識するのと、『白い棒』が『白い人型』へと姿を変えるのが、ほぼ同時であった。



 ――反射的に、竜司はその場から逃げようとした。だが、そうはならなかった。



 恐怖は感じている、不気味だとも思っている。でも、どうしてか……この『白い人影』が、己に危害を加える存在とは思えなかったのだ。


 そうして悩んでいる内に、『白い人型』は手を(そう、見える)上げると……画面へと、つまり、『こちら側』へと掌を向けて来た。



 ……ふわり、と。



 画面の向こうに、白い靄が広がっている。まるで、ガラス越しに掌を押し付けられているような光景に……竜司は、考えるよりも前に手を伸ばしていた。


 何故、そうしようと思ったのか。それは、竜司自身にも分からない。でも、分かる事は有った。直感的な話だが、何故か竜司は確信を持って理解した。



 『この子は、そうして欲しいのだ』



 根拠は何もない。だが、気付けば竜司は掌を画面へと向け……広げられたその手が、画面越しに白い靄に触れた。



 ――その、瞬間。



 画面の向こうにいた白い靄が――形を変え、合わせて、画面に色が付いた。


 一言でいえば、そこにいたのは『白銀のように煌めく髪を持った、赤目の美少女』であった。まるで、現実感の欠片もない少女であった。


 人間……いや、人間じゃない。絶対に、この少女は人間ではない。3DCGで作った方がまだ、人間味を持たせられる。


 そう……無意識に断言出来るほどに、その少女は人間味がないと竜司は思った――直後。



 竜司は、知覚した。



 白い靄は、消えたのではない。画面の向こうからこちら側へと――己が身体の中に入って来たのだということを。


 避ける間も、手を離す猶予もなかった。


 あっ、と思った時にはもう、衝撃が掌から腕へと、腕から肩へと、肩から胸へと続き……全身に、どん、と広がった。


 もしかしたらそれは、物理的な何かを有していたのかもしれない。あるいは、遅れて起こした肉体の反射なのかもしれない。


 バチバチと、まるで電流が血管を通じて全身を駆け巡っているような感覚……身体が跳ねたのを自覚した瞬間、背中に衝撃が走った。飛び退いた勢いのまま、強かに背中を壁にぶつけたのだ。



 ……幸いにも打ち所が良かったのか、痛みはなかった。



 けれども、しばしの間、竜司は己に何が起こったのかを理解出来なかった。ただ、何も映さなくなったディスプレイと、己が真っ白な手を交互に見やった竜司は……ん?



 ……。


 ……。


 …………白い、手?



「……は? 何これ?」



 見慣れた己の腕。手の甲に生えた毛や、浅黒く焼けた肌の色が、そこにはない。代わりに有ったのは、己の物とは思えない程に華奢で白い……小さな腕であった。


 と、同時に、竜司は目を見開く。己が口走った言葉……いや、声だ。


 それはまるで、年若い少女のようで……己が発したモノとは思えない。「え、え、え?」脳裏を過った違和感にぞくぞくと背筋を震わせながら、竜司は慌ててキッチンへと向かい――絶句した。


 何故なら、キッチンに置いてある小さな鏡には、見たこともない少女が映し出されていたからだ。



 ……いや、いやいや、違う、違うぞ。



 見覚えは、ある。ほんの今しがた、目にしたばかりだ。「これは、さっきの……?」今はいない、ディスプレイの向こうに現れた少女と瓜二つであることに、竜司は気付いた。


 震える指先を伸ばして、立て掛けている鏡を手に取る。見間違いではない、確かに鏡に映っているのは少女で……そっと指先を押し当てれば、鏡の中の少女も指先を押し当てていた。


 ……無言のままに、己が頬に指先を当てる。


 鏡の中に映る少女も、頬に指を当てている。続けて、頬を抓る。鏡の少女もまた、同じ行動を取る。顔を近づければ、その少女も近づく。離れれば、その子も離れ、鏡を元の場所に置けば……やはり、少女はそこにいた。








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