第64話エピローグ
ループから抜けて、かれこれ1ヶ月が経過した。
その間、黒幕疑いの調査やら尋問やら立証やら貴族たちへの手回しやらで公爵は多忙に多忙を極め、日夜大勢の人に囲まれながら忙しなく働いていた。王都に行ったまま帰ってこられず、数日会えなくなるなんてことも、ざらにあった。
けどその甲斐あって、裁判は有利に進んでいるらしい。王様を無理やり味方につけたから、黒幕たちの捜査も順調で、犯罪の証拠もぽろぽろ見つかっているのだとか。
今回の件で王様が褒めそやされているのが、ちょっと癪だけど。王都じゃ公爵が「王に泣きついて助けてもらった情けないお坊ちゃん」扱いなのが、かなり癪だけど。そこは我慢しなければならない。
公爵は、事件を解決するために——私のために、不名誉を全て被ってくれたのだから。
父様は、事件収束の兆しが見えてくると、テレサを連れてバルトの領地に帰ってしまった。
「とにかく事態が落ち着くまでは大人しくしていろ。閣下が心労で禿げるぞ」
見送りの際、父様はそんな不吉な言葉をぼそりと吐いた。はじめは父様なりの冗談かと思ったけれど、去りゆく父様の後頭部を見ると、なんだか以前よりも薄くなっているような気がした。
あれは、実体験を踏まえたアドバイスだったのかもしれない。そう思ったら急に不安になってきて、ここ最近は毎朝欠かさず公爵の頭皮チェックをしている。今のところ、目立った脱毛は認められない。
まあ、禿げる禿げないに関係なく、公爵に不要な心配をかけるべきではない。今この大事な時期に、夫の足を引っ張るようでは奥様失格である。
だからこの1ヶ月、私はかつてないほどお淑やかに振る舞った。具体的には、屋敷のきまりごとや領地のあれこれを学んだり、セレニアちゃんから外国語を習ったり、食料庫を荒らすネズミを退治したりして、日々を過ごした。
セレニアちゃんに「異国の言葉は実際に話したり、手紙を書いたりすると身につきやすくなりますよ」と言われたので、王都に戻ったトリス兄様に「その節は大変お世話になりました」と書いて送ってみたこともある。そうしたら、「よくわからんが、これは人間の言葉か?」という失礼な返事が返ってきた。完全に送る相手を間違えた。
仕方ないので、王都の官舎で謹慎中だというライゼルさんに「セレニアちゃんにちゃんと告白しましたか?」と書いてみたら、送る直前でセレニアちゃん本人に手紙を回収されてしまった。
——そんなこんなで、深窓の奥様生活は現在も絶賛継続中である。
だが、今日は授業も仕事もない。
少し時間が空いたからと、昨日の夜、公爵からデートに誘われたのだ。
……デートと言っても、城館の敷地内だけど。
それでも、己を律しに律しまくって1ヶ月以上ほぼ城館の中で大人しくしていた私にとっては、飛び上がるほど嬉しいイベントだった。
嬉しすぎて、護衛兵と侍女たちに「今日は公爵様と少し外に出るの」と話したら、あからさまに警戒を強められ、いつの間にか廊下に待機する護衛の数が増えていた。皆、私を何だと思っているのだろう。
◇
てっきり庭でも散歩するのかと思っていたけれど、公爵に連れて行かれたのは、東棟から少し歩いた先の厩舎だった。
飼い葉と馬糞が入り混じった、どこか懐かしい香りがむわっと押し寄せてくる。デートには不適切な芳香だけど、不思議と心が安らいだ。
「ずっと君に、彼女を紹介したかったんだ」
そう言って公爵は、一頭の馬の前で立ち止まる。
黒く艶やかな毛並み。きゅっと引き締まりつつも、大胆な曲線を描く美尻と美脚。洗練された気品ある佇まい。
——良く知っている馬だった。
「ぶ、ブラックサンダー……!」
「ブラック……?」
黒い相棒の登場に、つい感極まって声が出てしまう。公爵は不思議そうにしていたけれど、私は御構い無しにブラックサンダーに駆け寄り、太い首をわしわしと撫でた。
「ヒヒィン!」
「あいたぁ!」
気安くベタベタ触るなと、ブラックサンダーが頭を思い切り噛んでくる。
……そうだ。よくよく考えたら、彼女にとってはこれが初対面なのだ。見知らぬ女が突然迫ってきたら、びっくりするのも当然だろう。
出会いリセット2回目である。悲しい。
「こら、やめないか」
公爵が慌てて鼻筋を撫でてやる。するとブラックサンダーはすんなり私から口を離して、甘えるように鼻先を公爵の体にこすりつけた。
目の前で公爵との親密な様を見せつけられて、余計に悲しみが広がる。私の……相棒。
「大丈夫か、カトレア」
「は、はい。軽くかぷっとされただけなので」
「すまない、彼女は気位が高いんだ。私も飼い始めの頃は、何度も噛まれて難儀した」
「ということは……この子は、公爵様の専用馬なんですか?」
「ああ。彼女とはもう4年以上の付き合いになる」
公爵は、尚もブラックサンダーの鼻筋を撫で回す。その声には、少しだけ誇らしそうな響きがこもっていた。
むう。ブラックサンダーが私を差し置いて公爵に甘えるのにもモヤッとするけれど、公爵が彼女を得意げに紹介してくることにもモヤッとする。
原因は分かっている。1日のうち6割くらいはぶすっとした表情でいる公爵が、珍しくニコニコといい笑顔でいるからだ。いつもは、笑うの下手なくせに。
まるで、自慢の愛人を目の前に連れてこられて、「これから君たち仲良くやってくれたまえ」と紹介されているような、そんな気にさえなってくる。……いや待て自分。流石に馬相手に嫉妬はまずい。
「素晴らしい馬だろう。見目もさることながら、走る姿が優雅で、力強く美しいんだ。——君に、気に入ってもらえるかと思ったのだが」
「も、もちろん気に入りましたよ! こんな綺麗な馬、見たことがありません」
誤魔化すように大きく頷くと、公爵は「そうか、良かった」と言って、嬉しそうにブラックサンダーの血統について、ちょっと早口に語り始めた。
とんでもない馬をピンポイントに盗んだものだなぁ……。いつになく饒舌な公爵を見て、そう思う。私がブラックサンダーを盗んで逃走したあのループ。仮にあのあとループから抜け出せていたとして、嫁とお気に入りの馬が揃って消えたと知ったら、公爵はどんな反応をしただろう。
ぼけっと考え事をしていると、ブラックサンダーは私を横目でちらりと見て、これ見よがしに公爵の肩に顔をすり寄せた。あ、こいつぅ。
公爵は「こら」と窘めながらも、くすぐったそうに笑う。
「エクレール、やめないか」
「えくれーる?」
小洒落た響きの単語が飛び出してきて首を傾げると、公爵は頷く。
「ああ、彼女の名だ。な、エクレール」
「ブラックサ」
「エクレールだ」
珍しく、有無を言わさぬ声音で被せられて、私は言葉を飲み込む。
そ、そんな名前だったのか。
えくれーるは何も悪くないのに、どうしてか裏切られたような気持ちになって、私はつぶらなアーモンド型の瞳を呆然と見つめる。
ブラックサンダー……じゃない、えくれーる。
なんだか貧弱な響きの名前だ。ブラックサンダーがあまりに私の中で馴染みすぎて、しっくりこない。
ブラック……エクレール……ぶら……くれーる……
「ブクレール……」
ぽつりとそう呟いてみる。ブクレールは歯をむき出して、もう一度私の頭を噛んだ。
◇
ブクレールの怒りを鎮めたあと、公爵が彼女を走らせてやりたいと言うので、2人で馬具の準備をし、厩舎の外に出た。からりとした青空の下、私、公爵、ブクレールと並び、芝の上をのんびり歩いて行く。
その途中、公爵がおずおずと口を開いた。
「……1つだけ、頼みがあるのだが」
「なんですか、公爵様?」
訊ねると、公爵はなぜか恥ずかしそうに目を伏せる。しかし、意を決したように顔を上げ、わずかに頬を赤らめながら言った。
「そろそろ、その呼び方を変えてくれないか」
「え?」
「いつまでも妻に爵位で呼ばれるのはどうも居心地が悪い。できれば君には、名前で呼んでもらいたい」
「……」
今更すぎて、私は照れながら話す夫の顔をまじまじと見る。
どうして早く言ってくれないのか。この1ヶ月、忙しいとはいっても、話す機会はいくらでもあったはずなのに。そして、照れながら言うほどの話題でもない。
そう言えば、この照れなくていいところで照れる悪癖のせいで、色々問題が生じたんだよなぁ、と思い出す。
「そういう控えめすぎるところが誤解のもとになるんですよ」と、ここははっきり言ってやらねば。
……でも、陽の光を受けてきらきらと輝く銀髪がとても綺麗で。ついつい見惚れているうちに、お小言は喉の奥に引っ込んでしまった。
サファイアブルーの瞳が私を優しげに映している。私より長い睫毛も、すっと通った鼻も、きりりとした眉も、全てが美しい。
文句なしのイケメンだった。脳内会議にて、満場一致でイケメン無罪の判決が下される。
「どうかしたか?」
「……いえ。ちょっと立ちくらみしただけです」
立ち止まっていると顔を覗き込まれたので、慌ててそう答える。心配そうな顔も、やっぱり素敵だった。
これだけ格好良かったら、お喋りが下手でも仏頂面でも許されちゃうだろう。少なくとも私は許す。ちょろいと言われたって構わない。
お祖母様は、「己の脆弱さを受け入れられる人間になりなさい」と言っていた。だから私は、己の
それに、今はデート中だ。余計なことは口にしないで、新婚カップル的な空気を堪能しておきたい。
「じゃあ、今日から公爵様のこと、クリュセって呼びますね」
クリュセルドだと、長いし、噛んじゃいそうだし。
特に不満はなさそうだったので、私はクリュセの左腕に手を絡ませて、体を寄せた。そして、試しに彼の名を呼んでみる。
「クリュセ」
「……ああ」
クリュセははにかみながらも、律儀に応えてくれた。
ちょっと歩きにくいけれど、そのまま夫婦で寄り添って歩いていく。
ふふ、見たかブクレール。
勝利を確信して、ちらりとブクレールの顔を盗み見たけれど、「どうぞご自由に」とでも言うような、涼しい視線が返された。
なんだか、女としての格の違いを見せつけられたような気分になった。
◇
木々のない拓けた場所に出ると、クリュセはブクレールに乗って、敷地を一駆けして見せてくれた。
ブクレールはしなやかな脚で大地を蹴って、勇壮に駆ける。
彼女が走る姿は、クリュセが自慢するだけあって、確かに優美で気品があった。上に乗っている麗しい殿方が、より美しさを引き立てている。
けれど軽く走って見せたあと、クリュセはすぐに手綱を引いて速度を緩ませ、ブクレールと共に私の方へと近づいてきた。
「さあ、次は君の番だ」
「え、私?」
「乗馬が好きなのだろう。義兄上からそう聞いた」
言いながら、公爵が鞍から降りようとする。それを押しとどめながら、私は首を振った。
「い、いいです。ブク……えくれーるも、クリュセが乗った方が喜ぶだろうし」
「そう遠慮しなくていい。走れば、少しは気分も晴れるはずだ」
労わるような優しい声音に、私ははっとする。
もしかしてクリュセは、私が大人しくし過ぎて腐っていると知ったから、こうして外に連れ出してくれたのだろうか。愛人自慢のように受け取って、勝手にやきもちを焼いていた自分が恥ずかしい。
乗りたい。本当は、すごく乗りたい。
ブクレールの乗り心地は良く知っている。視界が鮮明な今なら、以前よりももっと、爽快な乗馬を楽しむことができるだろう。
でも、窓から落ちたあの夜、流石の私も反省したのだ。奇跡的にほぼ無傷で済んだけれど、代わりに父様は老け込んで、公爵はげっそりやつれてしまった。兄様からは、「お前、暗殺者より仕事してるな」という、反論しづらい皮肉を頂戴した。
窓から落ちるなら、馬からだって落ちる気がする。落馬の予感を抱えたまま、呑気に乗馬なんてできない。
また何かやって、クリュセのふさふさな銀髪を失いたくもない。いや、それより……
私は、ブクレールの方に伸びかけた右手をぐぐっと左手で引き戻した。
「……やめておきます。万が一落馬でもしちゃったら大変ですから。それにこれ以上衝撃を与えたら、中の子がお馬鹿になっちゃいます」
「中の子……?」
「はい。どうも、お腹にいるみたいなんです。だから気をつけないと」
ちょっと早いけど、ここまできたら話した方がいいかと思って、そう答える。
クリュセは微笑みをぴしりと固まらせて、私のお腹に視線をやり、それからまた私の顔をじっと見た。
「……子が?」
「子です」
「……」
「クリュセのですよ」
「……」
しばらく無言で私の言葉を噛み締めたあと、クリュセは鞍からずり落ちた。
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