第65話番外編:第1回お兄ちゃん選手権
それは今から9年ほど前、ある夕暮れ時の出来事だった。
稽古のあと、いつものように裏山外周の走り込みを終えたバルト家3人の男児たちは、腹を空かせて家路を急いでいた。
凹凸ばかりの田舎道を慣れた足取りで進んで行けば、鬱蒼と茂る木々の狭間にバルトの屋敷が見えてくる。
全身疲労まみれだった少年たちは、我が家を目にしてほっと息をついた。
——さっさと帰って、食事をして、ベッドに転がろう。
それぞれがそんな思いを抱きながら、歩調を速めようと足を踏み出す。そこで、頭上からガサガサと木の葉を揺らす音がした。
「に……兄様! 兄様!」
妙に高い位置から響くのは、鳥獣ではなく聞き慣れた少女の声。
3人は嫌な予感に、まず一度、互いの顔を見合わせる。それから、「せーの」と一斉に頭上を見上げた。
そこには、樹木の枝——それも、建物3階程度の結構な高さにある——に必死の形相でしがみつく、
「……何やってんだぁ、レア?」
猿のように四肢を木に絡ませる妹に、まず長兄のモーリスが声をかける。
するとカトレアは、緊張を帯びていた顔をくちゃくちゃにして、鼻水と嗚咽を漏らし始めた。
「うっ……ひぐぅっ……えうっ。木に登ったら、降りられなく、なっちゃったんです。兄様、助けて……」
「降りられない?」
そう言うのはバルト家次男のエドガー。彼は頭上の妹に冷めた視線を送った。
「そこまで登っておいて、降りられないなんてことはないだろ。甘えてないで、自力でどうにかしろよ」
「できるものならとっくにしています!」
カトレアが声を強める。それと同時に、パキパキッと何かが軋むような音がした。
安堵で緩みかけていたカトレアの表情が再び強張る。
「こ、この枝枯れていて、それでも大丈夫かなって思って乗ったら、根元の方からバキッて音がしたんです。たぶんこれ以上身動きしたら、完全に折れて枝ごと地面に落ちちゃいます。落ちたら、死んじゃいます……」
兄たちはカトレアがしがみつく枝に目を向ける。折れそうなのかはいまいち分からなかったが、妹から漂う切迫感は本物だった。
「……面倒臭いな。他の枝に飛び移れよ」
「そんなお猿みたいな芸当できません」
「大丈夫だって。既に猿っぽいから」
「どういう意味ですか、エド兄様!」
エドガーと間の抜けたやりとりをしながらも、カトレアの表情からはどんどん余裕が失われていく。
やがてカトレアは小動物のようにぷるぷると震えながら、哀れみを誘うか細い声を発し始めた。
「お願いです、助けてください。もう、1時間はこうしているんです。その間、お手洗いにも行けていません。そろそろ限界です」
「……」
嘘か本当かはともかく、妹のちょっとした危機を知らされて、エドガーは言葉を切る。嫁入り前の妹にその場で漏らせと言えるほど、彼は冷酷ではなかった。
横で会話を聞いていたモーリスは、弟たちの顔を見回し、考え事をするように腕を組む。それから頭上の妹に間延びした声で訊ねた。
「なあレア。お前、誰に助けてもらいたい?」
「へ?」
突然の問いに、カトレアはきょとんとする。
「誰にって……?」
「お前が一番助けて欲しいと思う兄貴を選べ。ここは公平を期して、指名された奴が救出に向かうという方針で行こう。——誰が選ばれても、恨みっこなしだ」
「……」
危機に瀕している哀れな自分に、なぜ兄たちはすぐ手を差し伸べないのか。なぜ自分の救出が罰ゲーム扱いなのか。
様々な疑問がカトレアの小さな脳内に渦巻いているようだった。
だが、それ以上考える余裕はなかったらしい。カトレアは頷いて、一番都合の良さそうな兄はどれかと値踏みを始める。
そこですかさず、次兄が口を開いた。
「やっぱりモル兄さんは頼りになる男だな」
わざとらしい台詞を吐きながら、エドガーはモーリスの肩に手を置く。
「バルト家長男なだけあって、リーダーシップがある。俺は兄さんみたいに弟妹の面倒は見れないよ。これはお兄ちゃんポイント10点追加だな」
「ああっ。エド、お前——」
「どうだ、レア。お前としても、お兄ちゃんポイントの高い兄貴に助けてもらいたいだろう」
「はあ……?」
妙に優しく言い聞かせるような兄の言葉に、カトレアは不思議そうにしながらも、促されるまま頷いた。
「そうですね、じゃあモル兄様に——」
「いや、流石の俺もエドの優しさには敵わない。今日の朝も、レアに朝食の腸詰をこっそり分けてやっているのを見たぞ」
既(すんで)のところで、モーリスはカトレアの言葉を遮る。
「腸詰は美味かったか、レア?」
「は、はい」
「だよな。あの行為はお兄ちゃんポイント20点に相当すると思う。俺には、誰かに自分の肉を分け与えてやれるような優しさはない。……レアも、どうせなら肉をいっぱい食わしてくれる兄貴に助けてもらいたいだろう」
自分が板挟みになっていることに気付いたらしいカトレアは、困ったように、眼下の兄たちの顔を何度も見比べた。
誰でもいいからさっさと助けてくれ——。幼い瞳が、そう訴えるようにきょろきょろと動く。
……だが、最終的には長兄に従うが吉と考えたのか、カトレアはこくりと頷いた。
「そうですね、じゃあエド兄様——」
「実はあの腸詰、一度床に落としたものなんだ。食い物を粗末にするとばあ様が怒るし、かと言って食うのも躊躇われてさ。どうしたものかと悩んでいたら、横でレアが物欲しそうにこっちを見ていたから、つい出来心で譲ってしまったんだ。でなきゃ、俺が肉を譲るなんてことはしないよ」
「!!」
「悪いな」
明かされる真実に、カトレアは目を見開いて、口をぱくぱくと開閉した。
モーリスも、弟の告白に顔を顰め、ついつい本音を漏らす。
「うわ。お前、それはちょっとひどいぞ」
「そうだな。俺はお兄ちゃん失格だ。残念だが、ポイント20点は返上するよ」
「……いや。腸詰を譲ってやった事実と、真実を正直に告白した誠実さは評価できる。10点は残しておけ」
「じゃあ没収された点数はモル兄さんに付与ということで」
「それ、いつまで続けるつもりですか……」
危機に瀕しているはずの妹そっちのけで、お兄ちゃんポイントを押し付け合う2人に、カトレアは哀願の目を向ける。なかなか助けてもらえないもどかしさと腸詰のショックのせいで、彼女の顔は捨て犬のような哀愁で満ちていた。
兄2人はようやく妹救出という大事な任務を思い出したように、間抜けな顔で「ああ」と声を漏らす。
そこで、これまで沈黙していたハルトリスが、険しい顔で一歩前に進み出た。
「バカの尻拭いをする必要はねえよ。それに、助けようとしたらろくでもない目に遭わされるに決まっている。全部レアの自業自得だ。さっさと親父に報告しようぜ」
「なっ——」
別な危機の予感に、カトレアは顔を青くして、ぶるぶると首を振る。
「待って、トリス兄様! 木登りしたって父様にバレたら、また夕飯抜きになっちゃいます!」
「じゃあどうして木に登ったんだよ。親父が怖いなら、怒られるような真似をしなけりゃいいだけの話だろ」
「トリス、やめとけって。レアに正論をふっかけても虚しくなるだけだぞ」
エドガーは、ぶすくれるハルトリスを嗜める。
「それに、この状態でレアを放置すると、俺たちにまで親父の怒りが飛び火する」
「兄貴たちがそうやってすぐ庇うから、いつまで経ってもレアは懲りずに馬鹿を繰り返すんだよ。昨日だってあいつ、自分で掘った落とし穴に落ちて、親父にめちゃくちゃ怒られていたじゃねーか」
更に言えば、救出に向かったハルトリスも穴に落ちたのだが、それについて彼は言及を控えた。
「レアの甘ったれを治すためにも、少し痛い目に遭わせた方がいい。自分の行いがどんな結果をもたらすのか、一回身を以て味わわせるべきだ」
年が近いせいでなにかと妹のやらかしに巻き込まれがちなハルトリスは、日頃の不満を吐露するようにそう主張する。実際、このまま妹を放置するのは得策ではないと彼も分かっているはずだが、それでも突き放すような言葉を口にせずにはいられない様子だった。
そんな弟をじっと見て、うん、と神妙な面持ちでエドガーは頷く。そしてゆっくりと口を開いた。
「……トリス。お前、レアのことを本当によく考えてやっているんだな」
「は?」
「厳しさも愛情の1つだ。俺は感動したよ。お前に、ポイント30点を追加する」
「おっと、一気にトップに躍り出たな。おめでとう」
「な……ふざけるなよ、兄貴!」
わりと真剣な主張を茶化されて、ハルトリスは怒りの声をあげる。一方上の兄たちは、ぷんすか怒る弟をからかって、ゲラゲラと愉快そうに笑う。
自分そっちのけで繰り広げられる兄たちの楽しげな戯れに、これまで媚びの姿勢を保っていたカトレアは、とうとう痺れを切らして声を張り上げた。
「もう、いつまで待たせるつもりですか! それに私、遊びで木に登ったわけじゃありません。ただ、洗濯物が風で飛ばされて、木の枝に引っかかっているのを見つけたから、回収しようとしただけなんです!」
「洗濯物ぉ?」
曲がりなりにも貴族の娘が木に登るなど、とうてい許される行為ではないが、そこに一応理由があるようで、ハルトリスは眉を上げる。疑いを含んだ瞳で、彼はカトレアの顔を見上げた。
「洗濯物って、なんだよ」
「パンツです」
ほら、とカトレアは右手を木からゆっくり離して掲げる。よく見れば、彼女の手には下穿きらしき布が握られていた。
……嘘をついているわけではないようだった。
「大きさからして、多分モル兄様のです」
「げ、俺?」
名指しされて、モーリスは己を指差す。
そんな長兄に、エドガーとハルトリスは憐れむような視線を送った。
「これは決まりだな、モル兄」
「レアはモル兄さんのパンツのために命を懸けたんだ。ここは兄さんが責任をもってレアを助けるべきだろう」
「待て待て。まだ俺のパンツと決まったわけじゃない」
弟たちは、ぐいぐいとモーリスの背中を押す。モーリスは慌てて巨体に力を込め、その場に踏み止まった。そして最後のあがきと言わんばかりに、カトレアに向かって手を差し出す。
「レア、回収したパンツをこっちに寄越せ。本当に俺のものなのか検証する」
「確認したら、助けてくれますか」
「おう、パンツの責任はとってやるよ」
軽く応えながらもすぐには助けにこない兄を恨めしげに睨みつつ、カトレアは手に持った下穿きを丸めて落とした。それを受け取り、モーリスは両手で広げて布を凝視する。
後ろから、弟たちも件の下穿きを覗き込む。
「でかいな。こりゃどう見てもモル兄のだろ」
「じゃ、モル兄さん頑張れ」
「……いや、これは俺のものじゃない。これは——」
下穿きを大きく広げ、布を凝視したあと、モーリスは確信を込めて言う。
「親父のパンツだ」
「……」
子供たちは沈黙し、父親の下着からそっと目を逸らす。
モーリスは広げていた布を丁寧に折り畳んで、屋敷の方に顔を向けた。
「……じゃ、パンツの責任者を呼んでくるか」
「ああぁ。待って待って兄様!」
追いすがるようにカトレアは枝から身を乗り出して、必死に声を荒げる。それに合わせて、バサバサと木の葉が舞い落ちた。
妹の必死すぎる反応に、モーリスはぷっと堪えていた笑いを小さく漏らす。そして「ばーか、冗談だよ」と言いながら振り返った。
——それと同時に、バキッと軽快な音が響く。
「あ」
カトレアの体は地面に向かって落下した。
◇
「あれくらいの高さじゃ、人って死なないんですね」
「あーあ。またレアが余計なことを覚えたぞ」
屋敷に向かって、父親の下穿きを片手にぴょこぴょこ歩く妹を見下ろして、エドガーはため息をついた。
「こいつ、またやるな」
「知らねえ。俺には関係ない」
そう吐き捨てるのはハルトリスだ。なんとも苦々しい顔をする彼の額には、立派なこぶができている。
——結局、落下したカトレアは、たまたま近くに立っていたハルトリスによって受け止められた。
奇跡的に2人とも大きな怪我はなかったが、動転したカトレアは手足をばたつかせ、ハルトリスの額を拳で強かに打ち付けた。その結果が、彼のたんこぶである。
貧乏くじを強制的に引かされる羽目になったハルトリスは、額を手で摩りながら、恨めしそうにカトレアを睨みつけた。
「やっぱり、レアに関わると碌なことにならない。この先何があっても、俺はこいつのことなんか助けないからな」
「そう言うなよ、ナンバー1お兄ちゃん」
「怒るぞ、エド兄」
唸るように言われて、エドガーは口笛を吹きながらそっと弟から距離を取る。
モーリスはご機嫌斜めな末弟を横目で見て、肩を竦めた。それから、わりとご機嫌な妹に向かって目配せをする。
長兄の促すような視線に気がつくと、カトレアはハルトリスに歩み寄り、いかにも申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。
「トリス兄様、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとうございました」
「……」
ハルトリスは答えない。わりと頻繁に聞く妹の謝罪を、ただ無言で受け流す。
ご立腹な兄の反応に、口先だけの反省では意味がないと悟ったらしく、カトレアは「むぐ」と息を飲んだ。それからしばらく逡巡し、意を決したように宣言する。
「お礼に、今週の鶏小屋の掃除当番は、私がやります!」
「……」
「……更に、今日の夕飯のパンは兄様にあげます!」
「……」
「うう。じゃあ……明日の朝、落ちてない腸詰もあげます」
「……」
「トリス兄様……」
精一杯の献上品にちっとも靡かぬ兄の様子に、カトレアはしゅんと項垂れる。それ以上捧げられるものがなかった彼女は、唇をかみしめて、ハルトリスの服の裾を引っ張った。
「仲直りしてください。もう絶対、高いところに登って落ちたりしないって、約束しますから……」
「信用ならねぇ」
間髪入れずにハルトリスは言う。そして妹の小さな額を、指で思い切りバチリと弾いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます