第61話その後10
窓から落ちた私は、すぐ医務室に運び込まれた。
男がクッションになったため、怪我は小さな擦り傷ができていただけだった。けれど、しばらく立てなかったせいで、それはもう大騒ぎになった。
男は結局見つかっていない。皆、地面に転がる私の方に気を取られてしまって、男の捜索開始が遅れてしまったのだ。……どうしてこういう時に限って、腰が抜けてしまうのだろう。
重病人を扱うようにベッドに放り込まれ、医者にあちこち診察されて、汚れた服を侍女たちに着せ替えられて、兵に事情の説明を求められてと、周囲の状況は私を置いてきぼりにして目まぐるしく変わっていった。
男が残した結婚祝いは、もちろん回収してもらった。毒入りキャンドルについては、「夢喰いが丁寧に解説してくれた」と強引な嘘をついて、その効果を詳しく兵に説明しておいた。
そうこうして、私の転落騒動が一段落した頃には、夜が明けようとしていた。騒がしかった医務室も、今は公爵と兄様がいるのみ。二晩連続大騒動のせいで、室内にはどろりとした疲労感が漂っていた。
「無事でよかった……」
ベッドの脇で、公爵ががっくり項垂れる。その背後では、「あーあ」と言わんばかりの顔で、兄様がこちらを眺めていた。
はじめ、「夫人が逃亡を図って窓から転落した」という誤情報が屋敷内に出回っていると知ったときには恥ずかしさで顔から火が出るかと思った。でも、落ち着いてきて……公爵の姿を間近で見ると、どうしてか情けなさと悔しさが溢れてきた。ついには目の端に涙が滲んできて、私は嗚咽交じりに謝罪した。
「私が、もう少し、強くてしっかりしていれば……ひぐっ。あんな奴、逃さずにすんだのに」
「……え?」
「そうすれば、事件も解決できて、ご両親の仇もとれたかもしれないのに。役立たずでごめんなさいっ……」
「待つんだ、カトレア。そちらの方向に反省しないでくれ」
公爵が慌てた様子で首を横に振る。
「その件に関して、君が責任を感じる必要は一切ない。それより、今後何があっても、自分の身を守ることを優先すると約束してくれ。でないと、私は心配で何事にも手がつけられなくなる」
「でも……」
「カトレア、頼む」
公爵が懇願するように私を見つめる。
1日のうちにゲッソリやつれてしまった美貌を目の当たりにしては、反論なんてできるはずもなく。私は素直に頷いて、もう一度謝罪の言葉を口にした。
「……わかりました。心配をおかけして、本当にごめんなさい。今後は、無茶をしないよう気をつけます」
「……」
「公爵様?」
「婿殿。信用ならねえって思ったら、はっきり言ってもいいんだぞ」
兄様が夫婦の会話に口を挟む。失礼な、と思いながら公爵を見たら、なんとも複雑そうな顔をしていた。
この表情は、どう解釈すればいいのだろう。
そのとき、医務室の扉がガチャリと開いた。
そちらに目を向けると、のそりと部屋に踏み入る父様の姿がある。
室内に、新たな緊張がびしりと走った。
兄様はすかさず部屋の角へと移動し、気配をすうっと消す。公爵は振り返り父様と視線を合わせたあと、横にずれて場所を空けた。
威圧感を漲らせながら、一歩、また一歩と父様が近づいてくる。逃げることも隠れることもできず、私の口は勝手に言い訳を並べ始める。
「と、父様。男が部屋に入ってきたのは、私が迂闊に窓を開けっ放しにしていたからでして……。決して、警備に手抜かりがあったわけではないんです。それに私、ぴんぴんしていますし……。ああ、窓から落ちたのも深い事情があるんです」
何の反応も示さず、父様は口を固く結んだまま、こちらを見下ろす。天井に近い高さから放たれる眼光を浴びると、体が勝手に竦んでしまった。落雷の予感に、私はベッドのシーツを握りしめる。
……しかし、父様の口から発せられた声は、予想外に優しかった。
「遅くなってすまん。医師からは特に問題ないと聞いたが……痛むところはないのか」
「はい? あ、いえ。ありません、大丈夫です」
「腹は」
父様は土気色の顔を近づけて、躊躇い気味にぼそっと言う。
「打ったりはしていないのか。どこか違和感は?」
「ないです。健康です」
何度も頭を振って、それから無事をアピールするために、お腹を軽くぽん、と叩いて見せる。
それでやっと安心したように父様は深々と息をついた。いつまで経っても、ゲンコツもお説教も飛んでこない。実家に帰れとも言われない。
もしかして父様、まだ私の発言の問題点に気がついていないのだろうか。そういうの、男の人わからないのかな……あれぇ。
雷は回避できたけれど、自分のせいで赤→青→土と色を変えて行く親の姿を目にすると、なんとも申し訳ない気持ちになった。騙しているわけじゃないのに、騙しているような罪悪感があるのはなぜだろう。
「サイラス殿」
先刻のやり取りを気にしてか、公爵はおずおずと父様の背中に声をかける。
父様は咳払いしたのち顔を引き締めると、声音を低くして、腕を組んだ。
「……暗殺者とやらが娘の部屋に文書を残したそうですが、何か分かったのですか」
公爵も、実家強制送還の話題を覚悟していたのだろう。不自然な流れで暗殺者の話を振られて、彼は目をパチクリさせながら答えた。
「文書には、騎士団関係者数名の関与を示す記載がありました。内容が全て真実ならば、首謀者はロバルト卿で間違いないかと。彼は、8年前も騎士団の上層にいた。ライゼルが夢喰いから聞いた、依頼人とやらの像とも一致している」
ろ……ロバ? 会ったことはおろか、聞いたことすらない人の名前が飛び出てくる。父様はその名前に覚えがあるようで、厳しい顔で頷いた。
そこそこ有名人らしい。
とりあえず、敵が定まったのなら事件解決も目前となったような気がして、少しだけ気持ちが上向きになった。
「じゃあ、黒幕をとっ捕まえることは可能なんですね」
「いや。このままでは無理だろう」
あっさりそう返されて、わずかな期待がしおしおとしぼんでいく。
私ががっかりしているのを悟って、公爵はすまなそうに補足してくれた。
「ロバルトは騎士団長候補の1人だ。あの男がこちらの言い分を受け入れて、簡単に罪を認めてくれるとは思えない。奴を告発しても、暗殺者が残した証拠に信憑性などないと突っぱねられるのが関の山だろう。それでも強引に審議の場に立たせることは可能だが、そうすれば次は王妃がしゃしゃり出てくることになりかねない」
ロバルトは王妃派の1人だからな、と公爵。
「それに今回の件には、8年前の事件も関わっている。陛下はロバルトにさして興味はないだろうが、王家が絡んだ隠蔽が明らかになる可能性があると分かれば、王妃の側につくだろう。そうなれば、審議どころか今回の事件をなかったことにしろと言われかねない」
「そんな……」
それじゃあ、8年前と同じになってしまう。
夢喰いめ、結婚祝いですよとか言って、なんて中途半端なものを残していったのか。ちょっと期待をして損をした。こんなことなら、あいつが部屋にいる内に、暖炉に毒香を放り込んで自分が他人にどんなひどいことをしているか味わわせてやればよかった。
あ、だめだその作戦。私も苦しくなっちゃう。
状況は手詰まりのように見えた。父様は黙ってしまったし、兄様は相変わらず部屋の角に立ったまま、ウトウトしている。
これでは、悪意ある連中にただかき乱されたも同然だ。
泣き寝入りなんて出来るわけがないけれど、どうすればいいかもわからない。
無茶はしないって約束したけれど、やっぱりあの男を捕まえられれば良かったと思わずにはいられなかった。あいつなら、イネスと違って色々詳しい事情をあっさり教えてくれそうだし。
私のせいで——
「……同じ過ちを繰り返すつもりはない」
しばらく続いた沈黙のあと、公爵は独り言のように言った。
引き寄せられるように、公爵の方に目を向ける。すると、碧い瞳とばちりと視線があった。
「1つ、考えがある」
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