第60話その後9
「だれか——」
「おっと」
隙をついて再度大声を出そうとしたら、すかさず右の手のひらで口元を押さえられた。……そして、左の手のひらは私の喉元をきゅうっと掴む。
もがもがと情けない声を漏らすと、男は困ったように肩を竦めた。
「油断ならない人だな。本当に、貴女と喧嘩するつもりはないんです。このまま騒がれるようなら、話を切り上げなくてはいけませんが。いいのですか?」
「もが……」
男は短剣を懐にしまったままだ。殴りかかろうだとか、今すぐ息の根を止めてやろうという素振りも見せて来ない。確かに、私への殺意は感じない。
悔しさを噛み締めつつ私が押し黙ると、男は「静かにお願いしますよ」と言いつつ、私から手を離した。
「貴方、何者なの」
じりじりと後退して男から距離をとりつつ、その姿を観察する。
たぶん、20代後半くらいの——中肉中背の、男性だ。黒髪に、やや細めの瞳。それ以外、特徴らしい特徴のない人である。あと、侵入者のくせに、妙に態度が太々しい。
男は私の問いかけに、あっさり答えた。
「だから、夢喰いの人間ですよ。それとも、ライゼル・ロッソさんを脅迫した張本人、と言ったほうが分かりやすいですかね」
「……! 貴方が」
「その反応からして、私の話は既にお耳に入っているようですね。説明する手間が省けてよかった」
ライゼルさんを脅迫した男。セレニアちゃんを馬鹿にした男。そしてライゼルさんが殴り損ねた男。
昼間聞いた話を思い出して、怒りがふつふつと湧いてくる。それでも、私が今にも暴れ出しそうな拳を抑えていると、男はにっこりと愉快そうに笑った。
「ご安心下さい。先ほども申し上げた通り、貴女を殺すつもりはありません。ここで貴女が死んだところで、得する人間はもういませんからね」
「もう……いない?」
「予めお話しておきますと、今回の失敗で、我々は本件から完全に手を引くことが決定しました。こちらの完全敗北です」
「どういう、こと?」
呆気にとられる私を無視して、男は、ゆったりとした足取りで燭台や花瓶の置かれた棚の方へと歩いていく。そしてじろじろと興味深げに室内の調度品を眺めながら、世間話でもするかのように軽い調子で続けた。
「今回の件は完全にしてやられました。上手くライゼルさんを傀儡にしたつもりが、貴女の予言者めいた行動のせいで、こちらの配下を1人捕獲され、セレニアさんを回収され、そして籠城され——結局我々は、手も足も出ないまま、館を逃げ出すことになりました。
ライゼルさんの監視は完璧でした。彼から今回の計画が外に漏れることはなかったはず。それなのに、どうやって貴女はこうも完璧に我々の計画を察知したのですか?」
「か……勘よ。イネスは、暗殺者としては二流みたいね。殺意が漏れていて、すぐに悪い奴だってわかっちゃったわ」
「……勘ですか」
背筋がぞわぞわっとする。
気付けば、無遠慮に人の部屋を観察していたはずの男の瞳は、私の方に向けられていた。
嘘を見抜かれ、その奥の隠した本心すら暴かれそうな錯覚に陥る。
気味の悪さを振り払うように、私は男を精一杯の敵意を込めて睨みつける。
「なに? 文句でもあるの?」
「やだな、そう嫌わないで下さいよ。結局我々は、昨晩誰も殺していないのですよ?」
「馬鹿なことを言わないで。それ以前に、たくさんの人を殺してきたくせに。それに、何年も前から人の家に忍び込んで、か弱い女の子を人質に殺人を唆しただけでも重罪よ」
と言うか、淑女の部屋に勝手に忍び込んでいる時点で御用待った無しである。
「ライゼルさんについては、ちょっと脅してやっただけですよ。恋慕している女性を盾にすれば、ああいう使命感の強すぎる男性は簡単に手玉に取れますからね。実際のところ、別に我々はセレニアさんを殺害するつもりなどありませんでしたし」
「嘘つき! ライゼルさんが失敗したら、何が何でもセレニアちゃんを殺すつもりだったくせに」
「ほう。よくご存知でいらっしゃる」
あ。
男の探るような視線にあてられて、つい口を滑らせてしまったと気がつく。
しかし男は深く追求してくることはなく、苦笑した。
「そこまでお見通しだったのですね。いや、だからこそセレニアさんをいの一番に回収に行ったわけか。あはは、ますます降参です」
おどけた笑いが室内に響く。
これを聞きつけて領兵が部屋に飛び込んでこないかと期待したけれど、扉の外の気配が動く様子はない。
未だ慣れない自室の中で不気味な男の笑い声に包まれると、もぞもぞと居心地の悪さが増していく気がした。
この男の真意はなんなのだろう。さっきから、分かりきった話しかしていないけれど、それでいてじっとりこちらの言動を吟味するような粘っこい視線をちらちらと感じる。
はっきり言って、気持ち悪い。
「いい加減、ここに来た目的を教えて。ただ世間話をするためだけに危険を冒して城館に忍び込んだわけではないのでしょう」
「目的、ですか」
男はすぐには答えず、再び棚の上に視線を戻す。
そして、燭台に置かれていた蝋燭を一本引き抜いた。
「貴女とお話しする、というのも立派な目的の1つだったのですが。あとは、これを回収するという目的もありました」
「蝋燭……? どうしてそんなものを」
男は何も言わず、蝋をぱきりとへし折った。そして、断面を私に向ける。
蝋の芯となる部分には、黒いつぶつぶしたものがぎっしりと詰まっていた。
「それは——」
「毒の香ですよ。イネスはこれを蝋の中に仕込んで、こっそりこの部屋に隠していたんです」
もしかしなくても、あの毒煙のことか。イネスめ、人の部屋にそんなものを隠していたなんて。うっかり火をつけてしまうところだった。
「これに火をつけると、甘い香りがするんですよ。嗅いでみます?」
「!」
男が蝋を掲げたので、思わず息を止めて、後ずさった。
私の必死な反応に、男は小さく笑いを漏らす。
「はは、貴女もライゼルさんと同じで、腹芸の出来ない方のようだ」
「もしかして今、私のことをからかったの?」
「まさか。そんなことはしませんよ」
と言いながらも、男は楽しそうだ。
……だめだ。さっきから、ずっと主導権を男に握られている気がする。
この男は間違いなく夢喰いの深部にいる存在で、重要参考人で、そしてインコのリリちゃんの仇なのに、どう行動すればこの男をぎゃふんと言わせられるのか、まるで思いつかない。
今はとにかく、この男を引き止めるためにも、会話を引き延ばさないと。非常に不愉快なのは我慢だ。
「さっきから、降参だの失敗だの色々言っているけれど。あれだけの人員を城館に忍び込ませて、人の部屋にあれこれ小細工できる余裕があったなら、私を身動き取れないようにして、ライゼルさんに殺害させるくらいのことはできたはずでしょう。なのに、そうしなかった。それに、セレニアちゃんの連れ出しだってすごく簡単だったわ。貴方たち、言っていることと実際にやっていることがちぐはぐよ」
「ああ、その辺りにはちゃんとお気付きになっているのですね」
「ば、馬鹿にしないで」
この男、口調は丁寧だけど、すごく気分を逆なでしてくる。
アージュさんも、よく私のことを馬鹿にしてきたけれど、この人はなんというか……自分以外の全てを見下しているような、そんな気持ちが見え隠れしている気がする。
やっぱり暗殺者なんて、ろくな人間じゃない。
「貴女を自由にさせたのは意図的だった、とだけ言っておきましょう。その理由については、ご自身で考えてみて下さい」
「でも——」
「それより、これをどうぞ。結婚祝いです」
食い下がろうとする私の言葉に被せて、男がこちらに歩み寄り、封筒を差し出して来た。
つい反射的に受け取ってしまう。それから自分の迂闊さに気がついて、慌てて封筒を投げ捨てた。
男は、さも傷ついたような顔をする。
「ひどいなあ。そんなに警戒しないでくださいよ。別に毒なんて仕込んでいません」
「そんな言葉、信用できるわけないでしょう。こっちは貴方たちに酷い目に遭わされたんだから」
「……ふむ。遭わされた、ね」
男は私が投げた封筒を拾い上げると、表面の汚れを手で払って、燭台のあった棚の上に勝手に置いてしまう。
「受け取っておいて損はないと思いますよ。中には、依頼人が本件に関わっていることを示す秘密の文書や、計画協力者たちのイケナイ情報など、諸々が入っておりますので」
「……はい?」
「これだけの証拠だと完璧とは言えませんが、これで依頼人を特定し司法の場まで引き摺り出すことくらいはできるはずです。そこからどう戦うのはあなた方次第、ですが。ま、頑張ってみてください」
「は……はあ? どうしてそんなものを。依頼人を裏切る気?」
私が訊ねると、間髪入れずに満面の笑みが返された。
「はい、そうです。我々の立場もだいぶ危うくなってきたので、ここはひとまず依頼人を差し出し、その隙にとんずらこいてみようかと」
「……」
なんて連中なのか。呆れすぎて、言葉も出ない。『どんな標的も必ず仕留める』とか、『依頼人の情報は絶対に漏らさない』とか、そういうプロ意識はないの? いや、暗殺者のプロ意識がどんなものかなんて私は知らないけれど。
「黒幕を差し出されたからって、貴方たちのとんずらを許すつもりはないわ。貴方たちには、公爵様のご両親や、大勢の人の命を奪った過去があるんだから」
それに、ライゼルさんのことをいじめて、セレニアちゃんに失礼なことを言って、私の新婚生活を出端から挫いてくれた。
見逃してやるほど、私はお人好しではない。
「許していただけませんか。じゃあ、これも追加でお渡しします」
そう言って、男は回収するはずだった毒香入りの蝋燭を、元の場所に戻した。
「これも、結婚祝いということで」
物騒な結婚祝いがどんどん増えて行く。
え……この人、本当に何をしに来たの?
「そんなものいらないわ! 何があってもあなたを逃す気は皆無よ。神妙にお縄につきなさい」
「おっと手厳しい。では捕まりたくないので、そろそろお暇することにしましょうか」
「え」
呆気にとられる私を横目に、男はくるりと私に背を向けると窓に歩み寄り、窓枠に足をかけた。あまりにさり気ない動作に、私は呼び止めることも忘れて、男の姿をぽかんと見つめた。
男は宵闇を背景に、いたずらっぽい瞳をこちらに向ける。
「ではさようなら。二度とお会いしないことを願いますよ」
「……へ。あ、待ちなさい! まだ話は終わっていな——」
「待ちません。それでは」
窓が大きく開け放たれ、びゅうっと冷たい風が部屋に吹き込んだ。同時に、男はするりと窓の外へと飛び降りる。
「逃すか!」
私は闇の中に消えて行く男を追って、窓に駆け寄った。
身を乗り出して下を覗き込むと、男ががすとん、と軽やかに着地するのがぼんやりと見えた。まるで、猫のような身のこなしだった。
男は私に気がついて、こちらに手をひらひらと振ると、その場を立ち去ろうとする。
「誰か! 侵入者よ! 屋敷の外、西方向に逃げたわ、急いで!」
とりあえず、あらん限りの声でそう叫ぶ。そうしながらも私は靴を脱ぎ捨てて、窓の外に足を出した。
ここは3階だけど、高さはそこそこある。下にはクッションとなるような木々や荷はない。
でも、あいつは逃しちゃいけない。公爵とセレニアちゃんのご両親のためにも、他に殺された名も知らぬ人たちのためにも、ライゼルさんのためにも。
絶対に、捕まえなきゃ。
実家の2階から外に脱出したことは何度かある。木なら数え切れないほど、登り降りしたことがある。
ちょっと手足を引っ掛けられるとっかかりさえあれば、3階から外に出ることなんて、上級木登リストの私には朝飯前なはず。だから——
「あ」
右足を外壁に引っ掛け損ねて、体がずるっと下に落ちる。必死に何かを掴もうとしたけれど、手は空を切って、私の体は地面に向かって落下した。
しまった。早速失敗してしまった。
瞬刻の空中散歩の間に、様々な思いが駆け抜ける。
3階から落ちるくらいなら、死にはしないはず。でも、落ち方が悪いと頭を打ったり、首の骨が折れて死ぬこともあるか。そうでなくても、一生歩けなくなることだってある。
受け身をとらなきゃ。いや、それよりこれじゃ——
どん! ごきゃ!
すぐに衝撃が体を襲う。
しばらく全ての感覚が体から逃げ去って、私は呆然と夜空を仰ぎ見た。
やってしまった……。
死んでは、ない。ループは、始まっていない。
でも、自分の体を確認するのが怖い。さっき、「ごきゃ」っと嫌な音が聞こえた。
ちょっと小さな骨が折れるくらいなら許容範囲だけれど、歩けなくなるくらいひどい骨折をしていたらどうしよう。
お祖母様も、足を悪くしてからあっという間に亡くなってしまったし……。
「く……」
現実を直視するのが怖くて物思いに逃避していると、体の下から声が聞こえた。
勇気を振り絞って、身をよじってみる。
すると何の痛みも抵抗もなく、私の体は動いた。
……あれ?
「とんでもない人だ。まさか、窓から飛び降りてまで追ってこようとするとは……」
随分近い距離から発せられる、癪に障る声。
気づけば私は、男の体の上で、大の字になって空を仰いでいた。そのお陰か、いつまでたっても痛みが襲いかかって来ない。
……これってつまり、男が私の落下を受け止めた、ってこと? どうして?
男はもぞもぞと私の体の下から脱出する。表情は暗くてよく観察できなかったけれど、漏れ聞こえる息遣いから、痛みを堪えているように思われた。
「私を庇ったの? どうして」
「ここで貴女に死なれたら、逃げられなくなる可能性があるからですよ。……ああ、本当にひどい目に遭いました。今度こそ、失礼します……」
「あ……!」
男は体を引きずるように、ややおぼつかない足取りで走り去ってしまう。
私は再度男を追おうとしたけれど、上半身を起こすのが精一杯で、立ち上がることができなかった。
——腰が、抜けてしまったのだ。
「奥様!?」
頭上から声がして見上げる。私の部屋の窓から、血相を変えた護衛兵がこちらを見下ろしていた。
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