第59話その後8
父様は事件の報せを聞いた直後、馬を替え休みなしの強行軍で城館まで戻ってきてくれたらしい。
それは有難い。有難いのだけれど、戻ってくるタイミングが悪すぎた。
なぜか父様は公爵と共に、私がイネスを尋問している途中で姿を現し、そのまま私を掴んで地下牢を後にした。私を見送るイネスと看守係たちの視線がなんとも痛かった。
渾身の推理を捻り出したというのに、イネスから情報なんて1つも引き出せていない。あともう少しだけ彼女と話を、と父様に懇願したけれど、私の言葉は黙殺されてしまった。
左右を父親と夫にがっちりと固められながら、城館の廊下を進んで行く。そして辿り着いたのは、公爵の執務室だった。こんな形で、ここに戻ってくることになろうとは。
中に入ると公爵が何か言いたげに口を開いたけれど、彼が声を発するより先に、父様の怒声が轟いた。
「——どうしてお前は、じっとしていられない! お前がふらふらと出歩いたせいで、周囲にどれだけ心配をかけたと思っている!」
「ご、ごめんなさい。でも、ちょっと城館の中を歩いただけじゃないですか……」
「護衛を撒き暗殺者のもとへ行くのを、“ちょっと”とは言わん。自分が命を狙われているかもしれないという自覚を持てないのか!」
「命を狙われていたという自覚なら、誰よりもある自信があります!」
「なら大人していろ! この大馬鹿者!」
空気がびりびりと震える。
うぅ、鼓膜が痛い。本来の歴史から外れたせいで、父様のお説教は回避したはずだったのに、結局食らうことになるなんて。……しかも、夫同伴で。
「館に到着したらお前がいくら経っても厠から出てこないと騒ぎになっていて、現場を確認しに行けばお前が厠から姿を消したと騒ぎになっていて、いざ城館内を捜索してみればお前が牢に押し入ったと騒ぎになっていて……一体、この短時間にどれだけの騒ぎを起こせば気が済むんだ!」
「そんな——本当に、騒ぎになっていたんですか?」
大袈裟に言われている気がして、隣に立つ公爵の顔を見上げる。彼は即座に深く頷いた。
「君につけていた護衛が、はばかりで君が倒れているかもしれないと騒いでな。私も現場に駆けつけたが、いざ扉を開いたら中はもぬけの殻で、あのときは肝が冷えた。それですぐに、警備兵たちに君を捜索させたのだが、まさか地下牢に向かっていたとは。牢に行きたかったのならば、私に相談してくれれば良かったものを」
安堵と少しの落胆が混じった瞳を向けられる。怒鳴りつけられるより、そちらの方がよほど堪えた。
「ごめんなさい……」
「……いや。君が無事で、本当に良かった」
公爵は首を振る。そして、遠慮がちに父様を見上げた。
「サイラス殿。カトレアも、彼女なりに我々の助けになろうとしてくれたのだと思います。実際、今回の事件では、彼女のお陰で多くの者が救われました。反省もしているようですし、今日はこのあたりでご容赦いただけませんか」
や、優しい。自分のことを庇ってくれる王子様のような夫の姿に、胸がきゅんとする。
しかし父様は、遠慮なく凶悪な顔で公爵を睨みつけた。
「生ぬるい擁護の言葉など結構。どう言い繕ったところで、娘が無謀で危機感のない馬鹿者だという事実に変わりはありません」
「しかし」
「言っておきますが、娘を自由にのさばらせた閣下にも責任があります。すぐ逃げ出すし騒ぎを起こすと何度も御忠告したというのに」
なんて失礼な。父様は私のことを、そんな駄犬のように公爵に紹介していたというの? 可愛いとか愛嬌があるとか肉が好きとか、もっと伝えるべきことがたくさんあるだろうに。
「何にしても、これでよくわかった。やはり娘は閣下の手に余る。ですから、当分の間は私が娘を預かります」
「……はい?」
言葉の意味を捉えかねて、聞き返す。すると父様はお馬鹿でもわかるように、簡潔な言葉で言い直した。
「安全だとわかるまでは、私とバルトの領にいろ」
「……」
父様なりの冗談かと思って、私は次の言葉を待った。けれど、室内はしんとして、重苦しい空気を漂わせている。
本気、のようだった。結婚した翌日に実家に帰れだなんて、父様はなんて恐ろしいことを言うのか。
とんでもない提案を撤回させるべく、慌てて私は声を張り上げた。
「嫌です! 黒幕も暗殺者の行方もわかっていないのに、公爵様やセレニアちゃんを置いてここを離れるわけにはいきません!」
「お前がここにいて、何になる。また好き勝手に出歩いて、周囲にご迷惑をおかけするだけだろう」
「もうしませんから。実家に帰るくらいなら、部屋の中でじっとしています」
「嘘をつけ」
びっくりするほど信用がない。
「お前の護衛のために、閣下がどれだけの人員を割いているかわかっているのか。お前がここを離れれば、閣下が自由にできる兵の数も増える。私としても、敵が潜んでいるかもしれない城にお前を置くより、目の届く場所でかんし——見守っていた方が、安心できる」
「うちの実家なんて、近所の子供でも勝手に出入りできるくらいザル警備じゃないですか」
「私の横にいれば問題ない」
冗談じゃない。父様のことは好きだけど、この歳になって一日中父親に横に張り付かれるなんて、とてもじゃないけど耐えられない。
しかし父様は問答無用、と言わんばかりに私を捕獲しようと腕を伸ばしてきた。
すぐさま身を捻りながら跳び退り、父様の不意打ちを回避する。私の素早い身のこなしに、父様が少し驚くのがわかる。
こちらだって、文字どおり命がけの闘いを繰り返してきたのだ。今なら父様相手であっても、簡単に捕まることはない。
でも、執務室の中で父様と追いかけっこを繰り広げるわけにもいかない。ここには公爵もいる。すでにやや引き気味の空気を滲ませている彼に、必死に父親から逃げる見苦しい姿を晒したら、「実家に帰ってくれないか」なんて言われてしまうかも。
じゃあ、かつてそうしたように柱にしがみつく作戦を決行するか……とも思ったけれど、それも部屋を見回して諦めた。この部屋、柱がない。
ならば残る手段は1つ。私はおもむろに公爵の体にしがみついた。
「……む」
「か、カトレア?」
父様が明らかに動揺して、ぴたりと動きを止めた。公爵も一緒になって動揺している。
我ながら、最高の作戦だった。ただの柱にしがみついただけなら、父様に簡単に引き剥がされていたことだろう。けれど、私がしがみついているのはこの国でもトップクラスに尊い身分の公爵閣下。いくら親戚関係になったとはいえ、流石の父様も力任せに公爵を引っ掴んで、私を剥がすような真似はできまい。
案の定父様は、苦虫を嚙みつぶしたような顔をしながら、腕を引っ込めた。
「……カトレア。閣下にご迷惑だから離れなさい」
「妻が夫に抱きつくことの何が迷惑なんですか。ね、公爵さま」
「あ、ああ。迷惑ではないが……その」
公爵は私と父様を交互に見て、眉間に皺を寄せた。不愉快そうにも見える表情だけど、頬はほんのり赤い。
「正直、気まずい」
「我慢してください」
私だって、親の前で男の人にベタベタひっつきたくはない。なんと言うか、気まずい。
けれど今は、なりふり構っていられないのだ。
父様も気まずいらしく、珍しくオロオロとしながら、どうしたものかと考えあぐねているようだった。
ここぞとばかりに、私は公爵にしがみついたまま捲し立てた。
「夫や義妹が大変な目に遭っているのに、自分だけ危険だからという理由で実家に帰るなんて情けない真似、できるわけありません。領地に帰るなら、テレサだけ連れて帰ってください」
「お前な。そう駄々をこねていられる状況ではないのだぞ」
「実家に逃げ帰るくらいなら、何だってこねてやります。それでも私を連れていくと言うなら、無理矢理引き剥がしてみたらどうですか」
「……」
父様の額に青筋が浮かび上がっていく。これは相当怒っている証拠だ。
それでも父様は怒鳴ることも私に手を伸ばすこともなく、こちらをじっと厳しい顔で見つめた。
三者それぞれが気まずさを噛み締めながら、しばしの膠着状態が続く。
「……サイラス殿」
緊迫したムードのなか、突然公爵が私の肩に手を回した。そして、ぎゅっと私の体を引き寄せる。
「カトレアは、既に私の妻。そして、ヴラージュ家の人間です。彼女が望まぬ以上、例えサイラス殿であっても、彼女を連れ出すことを許すわけにはいきません」
……わお。
公爵は毅然として、頭一つ分高い位置にある父様の顔を見据えた。その横顔には、先ほど見せていた気まずさや戸惑いはない。
ちょっとときめく展開だった。王子様のような美青年に「誰にも君を渡さない」的なことを言われる日が、我が身に訪れようとは。人生何が起きるかわからないものだ。
一瞬、父様の前であることも忘れて、私は公爵の凛々しく整った顔に魅入った。
けれど、父様は公爵の言葉にカチンときたらしい。狼狽えていたはずなのに、父様は再び険しい表情を取り戻し、口を開いた。
「娘をそちらの問題に巻き込んでおきながら、とんだ言い草ではありませんか。母の懸念は正しかった。残念ながら、今回の婚姻は閣下に娘をお任せした私の過ちと言わざるを得ませんな」
「お叱りも批判も甘んじてお受けします。だが、ご不興を買おうとも、カトレアをお渡しすることはできません。それに、サイラス殿お一人では、彼女の護衛にも限界があるかと」
「何も、娘を一生返さないと言っているわけではありません。問題を全て解決して、娘が安全に過ごせる保証ができたなら、こちらも安心して娘を閣下にお任せできます。ただ、現状閣下が安全を確保できていない有様であるから、私もこうお話ししているわけで——」
父様の怒りの矛先が、私から公爵へと完全に移ってしまった。
なんてこった。イネスから華麗に情報を引き出すつもりが、父様と公爵の諍いを招くことになってしまうとは。さすがにこの状況で、「私のために争わないで」なんてお馬鹿な空気に酔い痴れることはできない。
……仕方ない。
私は公爵の体に回した腕を解いて、ゆっくりと体を離した。
公爵が驚いたように私を見下ろす。父様は私が観念したと思ったのか、ほっとため息をつく。
「やっと諦めたか。明日の朝にはここを発つから、テレサに声をかけておけ」
「そうじゃありません。父様に、ちょっとお伝えしたいことがあるんです」
私は父様に歩み寄って、耳を貸すよう目配せする。
父様は怪訝そうな顔をしながらも、屈んで私に耳を近づけた。
公爵に聞こえないよう、背伸びをしつつ小声でそっと囁く。
「い、いるかもしれないんですよ、ここに」
「暗殺者がまだ城館に留まっている可能性があることは、既に聞いた。閣下を心配に思う気持ちはわかるが、だからこそ——」
「そういう話じゃありません」
更に父様の耳に顔を近づけて、大きな耳穴にはっきりと言い放つ。
「お腹に、いるかもしれないんです!」
「……」
そして父様は、動かなくなった。
◇
「私が部屋までお送りしよう」
「大丈夫、私たちのことは気にしないでください」
「いやしかし、サイラス殿が……」
心配そうな公爵に見送られながら、静かになった父様と共に執務室を出る。
廊下には、護衛の兵と雑談をしている兄様の姿があった。
「おう、終わったか」
「……兄様、さては逃げましたね」
現れるタイミングが良すぎる。きっと兄様は父様の怒りを察して、巻き込まれまいと一時身を隠していたのだろう。そしてお説教が終わる時間に合わせて、ここに来たというわけだ。
「何のことだ?」と、兄様はしれっと恍けてみせる。そして、父様の方を見て、ぎょっと顔を顰めた。
「親父、どうした? ひどい顔色だぞ」
「……少し、疲れた」
「は? 疲れた?」
「休みなしでここまで来たからな。少し横になってくる。お前はカトレアを部屋まで送ってやれ」
「お、おう」
兄様は目をパチクリさせて、頷く。
父様は「頼んだぞ」と兄様の肩を一度叩くと、兵の案内で客間の方へ、とぼとぼと向かって行った。
一気に老け込んだ父様の背中が廊下を曲がり見えなくなったあと、兄様が目を見開いて私に迫る。
「何があった? 親父が青紫色になっていたぞ」
「……ちょっと、説得しただけです」
「あんなに怒り狂っていた親父をか? お前、どんな魔法の言葉を吐いたんだよ」
「秘密です」
教えれば兄様も青紫色になるだろうか、と少し興味はあったけれど、ここは黙っておくべきだろう。
確証もない話を吹聴しすぎると、あらぬ誤解を生んでしまう気がする。
その後自室に到着すると、兄様は「親父の様子を見てくる」と言って、そのまま廊下をとんぼ返りしてしまった。テレサも、父様のところにいるのか姿が見えない。
「御付きの方は、もうすぐお戻りになります。どうか中で、お待ち下さい」
人数を増やした護衛たちが、切実な声でそう言う。
なんだか申し訳なくなってしまって、私は素直に頷いた。
誰もいない自室に入り、扉を閉める。
……今日も疲れた。
夜風にあたりたくて部屋の窓を少しだけ開くと、私はこれからについて思案した。
さっきは禁じ手を用いて父様を抑え込みはしたけれど、これもその場しのぎでしかない。
父様は、仰天ニュースで一時的に昏倒しただけ。しばらくしたら、私の主張のおかしさに気が付いて、また実家に帰れと怒り出すかもしれない。そうなってはこれ以上私も説明しようがないし、父様を打ちのめすような真似ももうしたくない。
その前に、何とかして事態を好転させる秘策を考えなくては。
カタン
物音がして、ぎくりとする。
咄嗟にそちらの方を見ると、風で僅かに窓が揺れていた。
……そう言えば、窓の外から襲われたこともあったっけ。
ちょっと気が緩みすぎていた。怒られたばかりだし、しばらくは部屋を閉め切って、大人しくしていた方がいいだろう。自分から部屋でじっとしていると言い出したのだし、約束はきっちり守らないと。
そう考えて、私は再び窓を閉めようと一歩踏み出した。それと同時に、耳元で声がした。
「失礼。お邪魔しています」
「え——」
背後から手がぬらりと伸びてきて、口元をいきなり覆われる。
突然の狼藉に、慌てて悲鳴を上げようとしたら、眼前に短剣の切っ先を向けられた。
「少し、お話ししませんか。大人しくしていただけるなら殺しませんので」
「……」
有無を言わせないと主張するように、刃がゆっくりと私の肌へと近づいてくる。
叫びたいのを堪えて頷くと、短剣と腕はあっさり私から離れた。
「いやぁ、乱暴な真似をして申し訳ございません。ただ、どうしても貴女と一度お話がしたかったんです。傷つけるつもりはありませんので、どうか少しだけお付き合いください」
脅迫者とは思えないほど明るく馴れ馴れしい口調に、なぜか恐怖が煽られる。
ドクドク拍動する胸をおさえながら背後に目を向けると、微笑みながら、短剣を懐にしまう男の姿があった。
「ああ、申し遅れました。私、あなた方が夢喰いと呼ぶ組織の者です。ご存知ですよね? カトレア・ヴラージュさん」
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