第45話side:公爵の事情4


 未練を断ち切ると決意した矢先に、未練の元凶が自分からのこのこと姿を現した。そのせいで、クリュセルドは想いを整理させるタイミングを見失ったまま、時を過ごす羽目になった。


 無理に婚姻を迫っても、カトレアを不幸にしかねない。彼女を想うなら、彼女に近寄るべきではないのだ——

 そう考えるクリュセルドが、次なる行動に移れるはずもなく。


 ある種呪いのように刷り込まれた恋心を拗らせ、しかし何の進展もないまま、もうすぐ6年が経過しようとしていた。

 

 かつてひっきりなしに持ち込まれていた縁談は、ことごとく断り続けた甲斐あって、次第にその数を減らしていった。手応えのない戦いに挑んでも無駄だと、皆悟ったのだろう。

 結婚だ婚約だのと迫られると、その度に元女騎士の言葉と、泥だらけの彼女を思い出す羽目になる。

 縁談ラッシュの沈静化は、クリュセルドにとっても有り難かった。


 ……しかし。その平穏が、騒動の前触れであるとは、この時のクリュセルドには知りようもなかった。









 王家への不信を抱くクリュセルドだが、それはあくまで個人的な感情。この国の貴族として生きる以上、避けられない付き合いというものがいくつかある。


 事件は、そんな不可避の付き合いの中で発生した。

 ——王家主催の、夜会である。


 その日、クリュセルドは王直々の招待を受け、セレニアを伴い離宮で開催された夜会に参加していた。

 会場に到着するなり、美貌の兄妹は大勢の人間に取り囲まれたが、2人は無難な挨拶を繰り返して、それらをやり過ごした。


 クリュセルドもセレニアも、あまり社交の場を好まない。しかし仮にも公爵家の兄妹が揃って城館に引きこもり続ければ、不必要な邪推とあらぬ噂を生み出すことになる。

 だから、2人はそれぞれ必要最低限の催しには参加し、その度にお互いをパートナーとして同伴させた。

 そして、参加した旨を表明するためあちこちに挨拶をして回り、キリのいいところでセレニアが「めまいがする」といって会場を退散する。これが、いつものやり口だった。


 この日も、王への挨拶を済ましたら、即座に城館へ戻るつもりでいた。

 現王はよくも悪くも事なかれ主義で、お気に入りの家臣以外には無頓着なところがある。顔を見せて、招待にしっかり応じたことを示せば、それで満足してくれるだろう。

 ——そんな思惑を抱えて、クリュセルドは国王夫妻が座する高座へと挨拶に赴いた。


 しかしそこで王にかけられたのは、予想外の一言だった。

 

「今日もパートナーは妹か。ヴラージュ公も、そろそろ身を固めたらどうだ」

「……は」


 クリュセルドは一瞬、返事に窮した。


 周囲で様子を伺っていた未婚の令嬢とその親たちが、耳をここぞとばかりにすます。

 厄介極まりない問いに、クリュセルドは慣れない微笑みを浮かべつつ答えた。


「私は、家庭を持つにはまだ未熟ですゆえ。結婚など今はとても考えられません」

「妻を持ち、子を得ることで一皮剝けることもある。それに、未熟というなら尚更貴公を支える女性が必要なのではないか」


 王はそこで王妃の方を見る。「なあ?」と問いかけると、王妃は悠然と頷いた。


「妻から聞いたぞ。何でも、名だたる名家との縁談をことごとく断っているというではないか。まったく勿体無い。一体、何が不満なのだ」

「不満というわけでは」

「いつまでも独り身でいるわけにもいかないだろう。決まった相手がいないのであれば、私が縁を取り持ってやってもいい。どうだ、悪い話ではないと思うが」


 ……これは、どう返答すべきか。降って湧いたような危機に直面して、クリュセルドは必死に思案した。

 家臣という立場上、王の提案を蔑ろにするわけにはいかない。

 しかしはっきりと断らなければ、命じられるがまま見知らぬ花嫁を迎え入れることになる。


 周囲にはずらりと好奇の目が並んでいる。この場を有耶無耶にして、逃げ出すこともできない。


「……申し訳ございません、陛下。お兄様には、すでに意中の女性がいるのです」


 突然、隣で沈黙していたセレニアが声を上げた。


 王と公爵の会話に口を挟むなど、いささか思慮に欠けている。例え彼女が公爵家の人間であっても、許される行いではない。その無礼な振る舞いにクリュセルドは非難の視線を向けるが、セレニアは涼しい顔で一歩前に進み、甘えるように兄の腕に手を回した。


 ますます彼女らしくない。

 ——そこで、妹がわざと無邪気な世間知らずのふりをしているのだと、ようやくクリュセルドは気が付いた。


「お兄様ったら、結婚もその方としか考えられないというほど入れ込んでいるのですよ。こんな状態では、きっとどんな美女も目に入らないでしょうね。ですから陛下、今はお兄様の恋を応援してくださいな」

「セレニア、何を——」


 とんでもない妹の発言にクリュセルドは慌てて口を開く。

 セレニアは空気の読めない兄の背中をぎゅっとつねると、懇願するように王を上目遣いで見つめた。その愛らしい仕草に、王は気分を害する様子もなく笑って頷いた。


「なんだ、そうだったのか。いつまでも噂をきかないと思っていたが、ちゃんと相手がいるなら安心した。で、その相手とは誰だ?」

「いけません、陛下。こんな場所でお相手の方の名前を漏らしたら、ちょっとした騒ぎになってしまいます」

「はは、それもそうだな。ヴラージュ公を射止めたなどと知られれば、その令嬢は国中の婦女子を敵に回すことになるからな」


 王は冗談ぽく言って頷く。セレニアに上手くあしらわれたことに、まるで気づいていないようだった。


 その場しのぎの苦しい嘘だが。セレニアのお陰で、なんとか危機を乗り越えることができた。

 強く捻られた背中をこっそり摩りながら、クリュセルドはほっと息をついた。


「では、陛下。我々は、そろそろ……」

「平民ならばともかく、五等爵の頂点に座するヴラージュ公が、色恋で伴侶を選ぶとは。あまり感心しない話ですね」


 それまで、王の隣で黙って話を聞いていた王妃が、ぽつりとそう漏らした。


 クリュセルドが視線を上げると、思わせぶりに目を細める王妃と視線が絡んだ。

 王妃の瞳に、狡猾な色が浮かぶ。


 ——これまで若い公爵に関心のなかった王が、急に縁組を思いつくなど考えにくい。ということは、彼を唆した存在が他にいるわけで。

 策謀の糸が己に向かって伸びつつあることに、クリュセルドは気がついた。


「貴族の結婚は、他家同士を結びつけ、国の基盤を強固にするという働きをもちます。公爵家の婚姻が、我が国にどれだけ大きな影響を及ぼすことか。それを、好きだ、嫌いだのと個人的な感情で決めていいはずがありません」


 セレニアによってほぐされていたはずの場が、冷たい緊張感で満たされていった。クリュセルドも、セレニアもしばらく何も言えず、淡々と語る王妃をただただ見つめた。


「ヴラージュ公もお若いもの。恋愛に燃える気持ちはよく分かりますけれど、公爵位を冠することの自覚をお持ち頂かないと。貴方の婚姻は、貴方のためだけのものではないのですよ」

「ですが」


 セレニアが言いかけるが、王妃が視線でそれを制す。いくら世間知らずを装うとも、一国の王妃に反抗できるほど、セレニアは愚かではなかった。


「厳しいことを言ってごめんなさい。ただ、お二人には導き諌めてくれるご両親がいらっしゃらないでしょう? だから、つい老婆心が働いてしまって……。どうか、2人を思っての言葉だと、わかってちょうだい」

「……」


 両親の死を持ち出されて、兄妹は絶句した。

 王妃の言葉は、「お前たちは親がいないから物を知らないのだ」と言っているのと同義だ。


 王妃は8年前の件に直接関わりを持っていない。それでも、かつて自分たちを踏みにじった王家の人間に、軽々しく父母の死について触れられるのは我慢ならなかった。


 しかし、ここで怒りに身を委ねるわけにはいかない。


 怒るのは簡単だ。「父母は殺された。それを前王と無能な連中が我が身可愛さに隠蔽したのだ」と王妃に向かって声を張り上げればいい。

 だがそうすればクリュセルドの隣にいる妹はどうなるか。周囲でちらちらとこちらの様子を伺う貴族連中は何を思うか。王家と対立すれば、ヴラージュ家はどうなるか。


 王妃は、クリュセルドを試しているのだろう。

 かつて前王の決定に抗えず、幼いクリュセルドは膝を折った。事実を知りながら王家や、王家が庇った貴族連中の用意した筋書きにあえて付き合った。

 だが、王が代わり、ヴラージュ家は順調に再興を進めるようになった。クリュセルドも、もはや打てば言いなりになるような子供ではない。


 だから王妃は、わざわざ大勢の人間の前で、公爵夫妻の死を持ち出したのだ。

 はたして、クリュセルドがまだ王家の用意した茶番に付き合う気があるのか、この茶番劇で両親を“病”で早くに失った若き公爵を演じるつもりがあるのかを、確認しようとしているのだ。


 ここで彼らに膝を折れば、きっと王妃は“王による”縁談をクリュセルドに強いるだろう。そのお相手は、王妃と懇意にしている貴族の子女だろうが。……そして、これまで断り続けてきた縁談に並んでいたうちの、誰かだろうが。

 食い尽くされる将来を憂いるならば、ここで反抗するのも1つの手だ。だがそうすれば、再び8年前の事件を掘り起こし、王家と、それを取り囲む貴族たちとの争いが勃発することになる。


 ……結局、選択肢などなかった。

 幸いなことに、クリュセルドは感情を顔に出さない技に長けている。余計な言葉は発さず、意にそぐわぬ台詞を吐くのも得意だ。


「……王妃殿下のお心遣い、痛み入ります」


 クリュセルドはそう言って、一礼した。それを見て、王妃は満足そうに口元を歪めた。


 セレニアが、兄の腕に回した手に力を込める。彼女の指が深く食い込むのを、クリュセルドは感じた。


「分かってくれて嬉しいわ。きっとご両親も同じ気持ちでいるはずよ」

「……はい」

「心配しないで。陛下が貴方に相応しい相手をお選びになって下さるわ。陛下のお取り決めになった婚姻で、ヴラージュ家は更なる繁栄を得ることでしょう。……ねえ、陛下?」

「う、うむ」


 王は妻の強引な発言にいささか気圧されているようだったが、彼女を諌めることなく、威厳があるふりをして何度か頷いた。


 ——さっさと適当な相手と身を固めておくべきだったか。


 投げやりな後悔の念が、クリュセルドの頭に浮かんだ。

 直接持ち込まれる縁談の数は減っていたが、別に連中は諦めたわけではなかったのだ。ただ、正攻法が無駄だと悟って、新たな策を講じられただけだった。

 だが、まさか王妃を使ってくるとは。


 束の間の静けさを平穏だと喜んでいた己が、恨めしかった。



 ……すん。

 小さく鼻をすするような音が聞こえた。音の出所は、クリュセルドのすぐ隣だった。


 見ると、セレニアが碧い瞳からはらはらと涙を流していた。雫を頬に伝わせる少女の儚げな姿に、会場中の視線が集まった。

 彼女はしばらく涙を流したあと、両手で顔を覆い、嗚咽を周囲に響かせた。


「ま、まあ、どうしたの、セレニア。こんなところで泣くのはおやめなさいな」


 先ほどまで優越を顔いっぱいに広げていた王妃が、周囲を見回しながら焦燥を露わにする。

 しかしセレニアは、嗚咽を止ませることなく、顔を覆ったまま首を横に振った。


 セレニアは、間違っても大勢の目がある場所で取り乱すような考えなしではない。涙を他人に晒すほど、心の弱い少女でもない。


 叱りつけるわけにもいかず、理由のわからぬ妹の異状を、クリュセルドはただ眺めるしかできなかった。


「お許しください。全て、私のせいなのです……」

「……何のことだ?」


 王が思わずそう訊ねる。するとセレニアは覆っていた顔を上げ、胸元をぎゅっと握った。


「私はこの通り、ひ弱な体に生まれました。そのせいで、これまで何度病を繰り返し、多忙なお兄様を心配させてきたことか——。

 幸い、この年まで永らえることはできましたが、こんな体では子など到底望むことはできません。ですからお兄様は、確実にヴラージュ家の血を残せるよう、健やかで逞しい女性を相手にお選びになったのです」

「お、およしなさい、セレニア。こんな人前で子を産めないなど。少し貴女が病気をしやすいからといって、そんな大げさな」


 王妃が慌てて窘める。セレニアのあまりに大胆な発言に、悪意を醸し出す余裕もないようだった。


「でも、お父様もお母様も、“突然”亡くなりました! 私たちも、いつそうなるか分かりません!」


 高く悲壮に満ちた少女の叫びが、今や静まり返った離宮にきん、と響いた。


 王と、王妃が息を飲む。周囲を取り囲む貴族の何人かも、動揺して身動ぎしたのがクリュセルドの視界の端に映った。


「どうか、お兄様を責めないでください。私が、不甲斐ないせいで……お兄様は、強い女性を伴侶に選ばざるをえなくなったのです。

 今や、ヴラージュ直系の血を引くのは、私とお兄様のみ。血族を増やし、一族を盛り立てるためにも——お兄様には、子を多く産み育ててくれる強靭な女性が必要なのです」

「……」


 国王夫妻は、何も言えないようだった。


 セレニアのこれは、完全な嘘泣きだ。

 ただセレニアが少し病弱なだけで、ヴラージュ家一族が体の弱い家系というわけではない。現にクリュセルドは、健康そのものである。


 だが、セレニアは皆が否定できないことを分かっていて、「うちは両親も突然亡くなるほど病弱な家系だから、強い女性を嫁に迎えるのだ」と正当性を訴えているのだ。

 当然、王と王妃がセレニアの言葉を否定することはできない。否定すれば、「公爵夫妻の死は事故や病気ではない」と王家側が認めることになってしまう。


 つい先ほど自らが振りかざした茶番によって、王妃は反撃の一手を失ったようだった。

 ただ単に、呆気にとられて言葉が見つからないだけかもしれないが。


 王妃によって支配されていたはずの空気は、いつのまにかセレニアの独壇場と化していた。


「ヴラージュの血脈を残すために! 後世でも、ヴラージュが栄光ある王家にお仕えするために! どうかお兄様の決意をお認めください、陛下!」


 セレニアが泣きはらした瞳に鮮烈な光を滾らせ、王を見据えた。


 王はセレニアを見て、隣で敗北に震える王妃を見て、最後に会場を見渡して、「……うむ」と頷いた。


「お、お前たち兄妹の気持ちはよく分かった。そこまで言うなら、好きにすればよい」


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