第46話side:公爵の事情5



 国王夫妻との会話後、ヴラージュ兄妹は即座に馬車へと乗り込んで、城館への帰路についた。

 車中では互いに視線も合わさず沈黙を貫いていたが、いざ城館へと到着し、正面玄関の扉を抜けると、クリュセルドは振り返り、妹を強く睨めつけた。


「セレニア! お前は、なんということを!」

「こうでもしなければ、お兄様は望まぬ相手と婚姻する羽目になっていました」


 セレニアは兄の睨みを受け流し、形のよい唇をつん、と尖らせとそう言ってのけた。

 生意気な態度に気が昂りそうになるのを抑えながら、クリュセルドは叱責の言葉を続けた。


「私のことなどどうでもいい。子を産めないなどと、あんなことを大勢の前で叫んで……。これでは、お前の将来に傷がつくだろう! なんて軽率なことを!」

「別に、結婚したいと思いませんもの」

「したい、したくないの問題ではない。本当にするつもりがないのであれば、自由にすればいい。私は、お前が無配慮に自分の名誉を蔑ろにしたことを責めているのだ。こうでもすれば、私が喜び感謝するとでも思ったのか」

「お兄様こそ無配慮だったのでは? あのまま陛下が用意した相手と婚姻すればどうなっていたか、少し考えればわかるでしょう。十中八九、ヴラージュは王妃派貴族に乗っ取られていたでしょうね。そうすれば、お兄様が必死になって建て直した財も領政も、全てが水の泡です」

「お前がそんなことに気を回す必要はない。それに、王妃派の娘を無理やり宛てがわれようと、いくらでも対処する方法はあった」

「いくらでもって……。それでも、屋敷の中に敵側の人間を招き入れる行為は危険に決まっています。お兄様自身の身を危険に晒す可能性だってあったのですよ」

「だから、お前が気を回す必要はないと言っただろう。そんな雑事ばかりに囚われるより、自分のことを考えろと——」


 クリュセルドの言葉を受けて、セレニアがすうっと顔から表情を消した。

 子供っぽく拗ねた顔が、真白く整った人形のように変貌し、クリュセルドを見上げる。


 これは、妹が本気で怒ったときの反応だった。


「……つまり。私ごときがヴラージュの行く末やお兄様のことを案じる必要はない、ということですか」

「それは」


 クリュセルドは言葉を詰まらせた。

 セレニアは両親の死後、ずっと支え合ってきた大事な妹だ。何度、彼女の存在に助けられてきたことか。だから、彼に妹を遠ざけようだとか排斥しようという意思はない。

 だが、そうではないと言って、彼女の捨て身な行動を肯定するわけにもいかなかった。


「今のは、少し言い過ぎた。お前もヴラージュの人間だ。領政や当主の決定に意見する権利はある。だが、私にもお前の保護者としての義務があるのだ。だから、過剰な献身は不要だと……」

「だから、お兄様があんな人たちに虐げられるのをただ横で黙って見ていろと? そんなの、あんまりです!」


 銀髪を振り乱して、セレニアが叫ぶ。碧眼は荒立つ水面のように揺れて、いくつかの雫がこぼれ落ちた。それは、先ほど見せた嘘の涙ではなかった。


「突然、家督を継いで。前王に言われるがまま、お父様たちの死を受け入れて。こちらを侮る諸侯のご機嫌取りをして。好ましくない人々と親しくして。

 ……私は、お兄様が身を削る姿を、8年間も見続けてきました。それで、心を傷めないはずがないでしょう。なのに、まだ、私に我慢をしろと仰るのですか」

「家督を継ぎ、その恩恵を得る以上、多少の不利益は被ってしかるべきだ。犠牲というのは言い過ぎだろう」

「恩恵? この家を継いで、お兄様はどんな恩恵を得られましたか? 時間ができても剣術のお稽古ばかりで、大した趣味もないし、ライゼル兄さんに誘われなければ遊びにでかけることもないくせに。当主となってから、お兄様が楽しそうにしているところを、私は見たことがありません

 初恋だかなんだか知りませんが、1人の女性をうじうじと引き摺って、火遊びの1つもされませんし!」

「……っ。それは関係ないだろう!」


 会話の風向きが妙な方向へと流れる気配を感じて、クリュセルドは慌てて方向修正を図る。

 しかし妹は一切容赦をしなかった。


「あります! 2年前、お兄様が心を寄せる女性がいると聞いて、私がどれほど喜んだことか。その方ならきっとお兄様に安らぎを与えて下さるに違いないと信じて、結婚の日を心待ちにしていたというのに。

 ……なのに。お兄様ときたら、一度断られたくらいで諦めて!」


 もしかして、それでそんなに怒っているのか、と問いかけそうになって、クリュセルドは口を噤んだ。

 妹はかなり興奮している。ここで余計な言葉を浴びせれば、彼女は3倍にして返してくるだろうと、これまでの経験上想像がついた。

 口喧嘩はいつも、圧倒的にセレニアの方が有利だった。


「お兄様が悩まずその方をお迎えしていれば、今日のようなことも起こりえませんでした。全部、お兄様のうじうじが悪いんです!」

「彼女の家族にはっきりと縁談を断られているんだ。そもそも彼女を迎えられるはずがないのに、そのように責められても」

「本気でその方のことがお好きなら、ご家族に反対されても攫ってしまえばよかったのです。それこそ、公爵家の地位を利用して、無理にでも花嫁にしてしまう手だってありました」

「……セレニア。さすがにそんな馬鹿みたいな真似、できるわけないだろう」

「なら、どうして未だに未練を垂れ流しているのですか!」


 カタン、と壁に掛けられていた絵画が落ちる。

 視界の端では、玄関で2人に付き添おうとしていた使用人が、必死に気配を消そうと小さくなって顔を俯かせている姿が見えた。


 セレニアの方はそんなことなどお構いなしに、勢いを損なうことなく兄に詰め寄った。


「お兄様が未だに諦めきれないのは、その方に想いを伝えることも、その方の気持ちを確認することもできていないからです。当たっても砕けてもいないから、未練ばかりが積み重なっていくんです。

 だから、決めてください。もう一度、恥を捨ててその方に婚姻を申し込むか。それとも、あの人たちの言いなりになって、与えられた女性を妻にするか」


 言い切ると、セレニアはふぅ、と小さく息を吐き、目元を擦った。既に涙は乾いていたが、目の周りは赤く腫れぼったくなっていた。


 妹の中で燃え上がっていたものが多少落ち着いたのを確認してから、クリュセルドは彼女を刺激しないよう、ゆっくりと静かに口を開いた。


「お前な……。そもそも、私が婚姻を再度申し込めばどうにかなるような口ぶりだが、本人に断られる可能性は非常に高いのだぞ」

「そうですね。でもそれなら、お兄様もしっかり砕けて未練も綺麗に洗い流せるでしょう。何もしないで悩み続けるより、そちらの方がずっと健全です」

「……」


 妹の辛辣な言葉に、兄は手も足も出なかった。

 ……だが、彼女の言葉がいちいち身を抉るのは、それが全て、クリュセルドが内に抱えていた思いと同じだからだ。


 思慮深いふりをして、彼女の家族に拒まれたとたん身を引いた。偶然彼女と出会う機会に恵まれたのに、大した言葉も交わさずその場を去ってしまった。

 あのとき、自分が良心や見栄を捨てて行動していたら、今頃違う結果が得られていたのではないか——

 そんな思いがあるから、未だに未練に縛られているのだ。


「行動を起こすなら、早くすべきです。今日のことは、ただ、あの……私の発言にびっくりして、あちらが勝手に引き下がってくれただけですから」


 今頃になって、自分が夜会の会場で連発した大胆な発言の数々に、恥じらいを感じ始めたらしい。

 セレニアは目の周りだけでなく頬まで赤くして、口元を抑えながら俯いた。


「すぐにまた、お兄様の婚姻に口を出してくるに決まっています」

「——わかっている。あのような場で、父上たちの話を持ち出してくるような連中だ。これで諦めてくれるとは思っていない」


 クリュセルドはやっと妹の言葉を受け入れて、頷いた。



 何もしなければ、ただ食われるだけだ。

 

 本当は、もっと早くに決断をすべきだった。その決断から逃げていたために、他人につけ入られる隙を与えてしまった。

 セレニアが捨て身で稼いでくれた時間も、そう長くはない。


 決断すべき時が、近付いていた。

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