第44話side:公爵の事情3
門を出て、クリュセルドはバルト家の屋敷を見上げた。
結局、彼女に会えないまま、そして会うことを許されないまま、帰路につくことになってしまった。
——ふと窓からあの顔が覗くことはないだろうか。
僅かに期待を抱いたが、「娘には知らせていない」というサイラスの言葉を思い出して、クリュセルドは未練を断ち切るように馬車に乗り込んだ。
彼が腰掛けると、ほどなくして馬車はガタガタと揺れ始めた。姿を晒さぬよう馬車での移動を選んだが、その選択は完全な失敗だった。バルト家領地の荒々しい道は、馬車とクリュセルドを激しく揺らした。
クリュセルドからの縁談申し入れがあったと知られれば、それだけでバルト家が迷惑を被る可能性がある。だから今回は、完全なお忍びでの訪問だった。
バルト家領地までの道中は、最低限の従者しか伴わなかった。その従者も、目立たないように領内唯一の町に待機させた。
……それだけは、正解だった。馬車の中に1人きりであるお陰で、クリュセルドは車中で思う存分落ち込むことができた。
どうして、たかが数年前に会っただけの少女にこれほど執着しているのか、自分でも分からなかった。もしかしたら、自覚している以上に、彼女を都合のいい存在として見ていたのかもしれない。
ならば自分も、あの下衆と断じた連中と同類だ——
そんなうじうじとした考えに沈み込んでいると、突然馬車が大きく揺れ、馬のいななきと共に停止した。
何とか前のめりになるのを堪えながら、クリュセルドは御者に声をかけた。
「何かあったのか」
「へえ。たぶん、車輪がぬかるみの中にはまっちまったんだと思います。ちょっと見てみるんで待っててください」
おざなりな敬語で御者が答える。彼は近隣の町で雇い入れた人物だ。クリュセルドの身分は伝えていない。
クリュセルドは馬車を降りて、地面に足をつけた。水気を含んだ大地が、泥となって足にまとわりついた。
更に御者と同じようにして馬車の下に目をやると、泥の中に体のほとんどを埋めた車輪が目に入った。
これでは、馬車も止まって当然である。ほとんど泥沼に落ちたようなものだ。
今日はとんだ厄日だと、クリュセルドはため息をつかずにはいられなかった。
「何とか……なりそうではないな」
「ええ。こりゃお客さんと俺だけではどうにもできませんね」
はあ、と御者は肩を落とす。彼は救いを求めるように周囲を見回したが、木と山と空しか目に映らなかったらしく、小さく首を振った。
「誰かに手伝ってもらうしかありません。ここからだとさっきのお屋敷に戻るか、近くの村に行くことになりますが」
屋敷に戻るという選択肢は、クリュセルドになかった。近くの村へ、と言おうと彼は口を開きかける。
——そのときだった。
「どうかしました?」
からりと明るい声。
見ると、農民らしき少女がいつのまにか泥道の中心に立っていた。彼女は興味津々といった様子で、クリュセルドたちの馬車に歩み寄った。
珍妙な少女だった。上はだぼだぼのチュニックに、下には乗馬用のズボンとブーツを履いている。沼に浸かった後のように足元は泥だらけで、しかし本人はそれを気にとめる様子もない。背後には年老いたロバを従えていて、右手には何故か木の枝が握られていた。
——彼女だ。
悲しいことに、木の枝を見てクリュセルドは確信した。何をしているのかは分からないが、この珍妙な少女は、カトレア・バルトその人だった。
思わず声をかけそうになって、クリュセルドは口を閉じた。
自分のことを覚えているのか。その格好は何なのか。どうしてロバを連れているのか。
……色々聞きたいことはあった。
しかしここで我欲を優先させれば、バルト家の人々の思いを踏みにじることになる。彼らとこれ以上関わるつもりがないのなら、カトレアに身を明かすべきではない。
サイラスとガルデニアの言葉を頭の中で反芻して、クリュセルドは話しかけたい衝動を必死に抑えた。そして顔を見られないよう、外套のフードを目深に被った。
「車輪がぬかるみにはまっちゃったんだよ。こりゃ困った」
御者は目の前の少女がまさか領主令嬢とは思わなかったようで、気安くそう言う。一方のカトレアも、気分を害した様子もなく気安い態度で返した。
「雨が振った後にこんな道で馬車を使うなんてお馬鹿ね。馬がかわいそう」
「いや、お客さんがどうしてもって言うからさ……」
言い訳を並べる御者の横をすり抜けて、カトレアは馬車の下を覗き込んだ。そして何か得心したように「ふむ」と言うと、突然勢いよく立ち上がった。
「ちょっと待ってて!」
そう叫んで、彼女は泥道を素早く駆けて行く。
颯爽と現れ颯爽と去った少女の後ろ姿を、取り残されたクリュセルドと御者とロバはぽかんと見送った。
◇
ほどなくして、カトレアは再び手を振りながら現れた。彼女の後ろには、農夫らしき男2人の姿があった。
男たちはどちらも領主の影響を受けているのと思わせるほど、体格が妙に良い。
「助っ人を呼んできたわ。ちょうど近くにいたの。私たちが後ろから押すから、貴方は馬を前に進ませて」
「はあ」
「じゃ、残りの人は後ろについて。せーの、で押しましょう」
勝手に仕切り始めるカトレアに御者は面食らって、言われるがまま馬車に乗り込む。
一方、男たちは呆れたように肩をすくめた。
「まじかよ、お嬢。これを俺たちだけでどうにかしろと?」
「こんなでかい馬車、あと2人は連れてこないと無理だって。見ろよこの後輪、ほとんど埋もれているじゃないか。こりゃ大勢で持ち上げるくらいしないとどうしようもないぜ」
「というかお嬢も押すつもりでいるのかい。やめときなって」
男たちは、見た目にそぐわぬ冷静な意見を口にする。どうやら、知り合い同士らしい。
対するカトレアは、不思議そうに首を傾げた。
「兄様たちならこれくらい1人で持ち上げられるけど」
「知ってるかい、お嬢。俺たちはバルト家の方々と違って、普通の人間なんだぜ」
「いやそれ以前に、坊ちゃんたちでも1人で馬車をどうこうはできないって」
次々と農夫たちから放たれる正論に、カトレアは「むむっ」と口をへの字に曲げていく。
「もう、やってみないと分からないでしょう。それとも、この人たちをここで立ち往生させたままでいるつもり?」
「けどなあ、お嬢……」
「無理をしなくていい。移動に馬車を選んだこちらの落ち度だ」
たまらずクリュセルドが離れた場所から説得に加勢すると、農夫たちは「ほら」とカトレアの肩を叩いた。
「な、お嬢。近くの村まで行って、追加の助っ人を呼んだ方がいいって。俺たちも手伝うからさ」
「そんなことをしたら、夜になっちゃうわ」
「そりゃ仕方ないし……。その人が納得しているならそれでも……」
「じゃあいい。私1人でやるから」
「え」
少し拗ねたような声に、農夫たちが固まる。
その間にカトレアは馬車の後方に回って、御者に声をかけた。
「馬を出して!」
「は、はい」
状況がいまいち把握できていない御者は、言われるがまま馬に鞭を打つ。馬が前に進まんと足を動かすのと同時に、カトレアは馬車の背を押し始めた。
どう考えても無謀な挑戦だった。
ぬかるみに車輪を嵌まらせた馬車を、少女1人の力だけで押し出すことなど出来るはずがない。本気でどうにかしたいなら、農夫たちの言う通り、あと数人は助っ人を呼ぶべきである。
小柄な少女が鼻息を漏らしながら、びくともしない車体を押す姿は、滑稽にすら見えた。
しかしカトレアが顔を真っ赤にして馬車に戦いを挑み始めた以上、それを放置することもできず。クリュセルドは慌てて彼女の隣に並んで、馬車を押した。
それは、農夫たちも同じだったらしい。彼らはしばらく困り顔で馬車と格闘する2人を眺めていたが、「やれやれ」とため息をつくと、加勢した。
力を込めて押しても、まるで手応えがない。「早く諦めてくれよぉ」と農夫が小さく呟くのを、クリュセルドは聞いた。
その時だった。
馬車がずる、と僅かに前にずれた。
「ほら! 動いてるでしょ、ほら!」
力いっぱい押し続けながらも、カトレアが興奮気味に言う。しかし皆必死で、それに応える声はなかった。
馬車が更に前へ進む。予想外の出来事だったが、ここまで来たら手を緩めるわけにもいかず、全員が体をぶるぶると震わせながら、さらに力を振り絞った。
すると突然車体は抵抗を失って、ずりゅりゅ、という音と共に、ぬかるみから抜け出し前方へと進んだ。
くびきを解かれた馬車は、泥を撥ね飛ばしながら軽やかに道を走る。
もれなく全員が泥飛沫を浴びる羽目になったが、妙な達成感のせいか、顔をしかめる者はいなかった。
「おお、何とかなった」
農夫が肩を上下させ、感嘆の声を漏らした。
「ほら、私の言った通りでしょ。やってみれば案外どうにかなるんだって」
カトレアも得意げに言う。息を切らせながらも、彼女は「どうだ」と言わんばかりに胸を張り、隣にいるクリュセルドの顔を覗き込もうとした。
——が、その瞬間カトレアの足はぬかるみに捕らわれ、彼女は前のめりに倒れこんだ。
「うべっ」
べちゃっという音と共に、カトレアはぬかるみの中に勢いよく沈み込む。車輪の次は、彼女の番だった。
「大丈夫か!」
クリュセルドは慌ててカトレアに駆け寄った。もはや顔を隠している場合ではなかった。
カトレアの肩を掴み、彼女の体を泥から引きずり出す。そしてその顔を覗き込むが、残念ながら愛しい少女の瞳を拝むことはできなかった。
「どこか怪我は?」
「……前が見えない」
まんべんなく泥を塗りたくった顔がそう答える。「だろうなあ」と農夫が暢気に相槌を打った。
領主令嬢の大惨事に全く動じる様子のない領民たちに疑念を抱きながら、クリュセルドは更に続けた。
「私のために、申し訳ない。家までお送りしよう」
カトレアは泥まみれの顔を横に振った。
「そんなことをしたら、やっぱり日が暮れるわ。私が泥に塗れた意味がなくなるじゃない」
「……」
その通り過ぎて、クリュセルドは何も言えなくなる。
「……それに、勝手に外に出たのもばれちゃう」とカトレアは呟いた。
見かねた農夫たちが、クリュセルドの肩に手を置いた。
「お嬢のことは、俺たちが送り届けるからさ。あんたはもう帰りなよ」
「しかし」
「いや、わりとこの子はいつもこんな感じなんだ。そこまで気にしなくても大丈夫だって」
随分な言われようである。
しかし農夫たちの表情は本気で、そこに冗談の影はなかった。
心配の念は尽きなかったが、ここで無理に屋敷まで付き添っても、せっかく諦めをつけた話を蒸し返すことになりかねない。
幸いなことに、カトレアは目の前の男が何者か分かっていない。ここは、静かに去るべきだとクリュセルドは考えた。
「では、お言葉に甘えて失礼する。礼は——」
「ああ、いらないよ。ここじゃお互い助け合わないと生きていけないからさ」
農夫たちは当然のように言って、なぜかケラケラ笑う。
「人助けでいちいち金をとってたら、俺たちは今頃金持ちだ」
彼らは揃ってカトレアを見た。その視線が何を言わんとしているかは、クリュセルドにもすぐに理解できた。
当の本人は、未だに顔を擦っている。
「……分かった、ありがとう。本当に、世話になった」
クリュセルドは立ち上がると彼女と農夫たちに深々と頭を下げた。
そして、逃げるように道の先に停車した馬車へと向かう。
未練が再び顔を出しそうだった。
早くこの場を去らねばと、クリュセルドは泥が撥ねるのも気にせずに、足を早めた。
——だというのに。
「気をつけてね」
かけられた声に、急かされていた足が止まり、弾かれたように振り返ってしまう。
泥だらけで、しかし3年前と変わらぬ笑顔が、こちらに向けられていた。
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