第41話その後1



 まだ眠い。起きたくない。でもお腹すいた。

 ——と思いながら目を開けたら、すぐ目の前に公爵の顔があった。


 ……わお。


「おはよう、カトレア」

「おはよう、ございます」


 一応挨拶を返しつつ、私は何度か瞬きを繰り返す。

 頭が上手く働かなくて、自分の置かれている状況をすぐには理解できなかった。


 私は公爵と、図書室のソファで眠っていたらしい。

 ソファはふかふかで、足を伸ばして横になれるほど大きいけれど、大人2人が大の字になって寛げるほどの広さはない。

 つまり私は、麗しき公爵様の胸に体を預け、彼の腕に抱かれるという、恋愛小説でしか見たことがないようなシチュエーションで目覚めたのだ。


 ……わお。


「随分と疲れていたようだ。よく眠っていたよ」

「はあ、それはお恥ずかしい……」


 言いながら口の端からよだれがつうっと伝うのを感じた。うわあ。

 こっそり証拠隠滅しようと手でごしごし拭ったら、公爵が笑った。すでに私の色気ないよだれはばれていたらしい。


 とりあえずこれだけ接近していると、おでこのニキビ跡とか日焼け跡など顔面のアラがバレそうだったので、ちょっとだけ名残惜しくあるものの、イケメンソファからの脱出を試みた。……けれど、体に回された腕が離れることを許してくれない。


「あの、公爵様……」

「もう少し、このままで。まだ君を離したくない」


 わーお、わーお、わーお。


 今時、恋愛小説のヒーローでも言わないような小っ恥ずかしい台詞を口にして、公爵は私の体をさらに強く抱きしめる。彼の腕の中にすっぽり入ると、昨晩の熱が思い出されて、頬が焼かれたように火照ってしまう。


 それにしても、「君を離したくない」だなんて。

 うちの兄様たちが口にしたらそれだけで逮捕されそうな台詞だけれど、絵画のような美青年が言うと、許されるどころか様になっている。こんなの、耳元で囁かれたら、ドキドキしちゃうに決まっている。

 ……なんて考えていたら、私の脳裏に甘い台詞を吐く兄様たちの姿がぽわんと浮かんだ。同時に、溢れんばかりのときめきが急激にしぼんで行く。……私の、馬鹿。


 こういう場面で身内のことを思い出してはならない。1つ大切なことを学んだ。


 まあ、それはともかくよく寝た。正直なところ公爵の腕の中は寝心地最悪で首が痛いけど、色々驚いたお陰で目覚めはスッキリだ。

 まずは腹ごしらえといきたい。ここのお屋敷、朝ごはんは何が出るんだろう。目玉焼きが食べたいな。


「……ん?」


 間抜けにも、私はそこで気がついた。


 室内が妙に明るい。小鳥のさえずりが聞こえて、カーテンの隙間からは日が差し込んでいる。


「……朝」

「ああ、もう朝だな」

「朝ですって!!」

「ぐおっ!」


 衝撃のあまり飛び起きようとすると、私の肘が良い角度で公爵の顔にめり込んだ。

 同時に私を包んでいた両手が離される。


「ああぁ、ごめんなさい。大事な顔が」

「だ、大丈夫だ。気にしなくて、いい」


 顔を抑えながら公爵が首を振るので、お言葉に甘えて私は窓の方へと駆け寄る。

 そして、分厚いカーテンを勢いよく広げた。


 眩しい。

 既に山間からは太陽がしっかりと顔を出していた。天上には朝焼けどころか雲ひとつない綺麗な青空が広がっている。


「どう、して……」


 震える声と共に窓から離れる。

 朝。どう見ても、朝だ。


 死んでも死んでも、たまに逃げたり泣いたりしても、拝むことのできなかった朝。


 つまり私は、ループから脱出して……


「クリュセルド様! こちらにいらっしゃいますか!」


 鍵とソファに閉ざされた扉が、がちゃがちゃと震える。

 扉越しには、焦る男性の声が聞こえた。


「ファローか」

「はい。よかった、こちらにいらしたのですね。ご報告したいことがございます。中に入ってもよろしいですか」

「待て。今開ける」


 公爵がまだ顔を抑えながらも立ち上がる。私も後を追って、一緒に扉の前のソファをずらす。なんだか間抜けな共同作業だった。


 そのまま公爵が無防備に扉を開こうとしたので、慌てて彼の腕を掴み、後ろに引いた。驚いた公爵がこちらを見る。ここで扉が開いた瞬間ぐさり、じゃ洒落にならない。


 一応警戒は続けたけれど、幸いなことに、扉の隙間から現れたのは刃物を持った暗殺者ではなく、本物のファロー執事長だった。


「失礼します。……ああ、奥様もご一緒でしたか。これは良かった」


 ファロー執事長は私を認めて少し目を丸くするも、すぐに恭しく頭を下げた。

 しかしどうやら慌てているようで、落ち着きがない。

 公爵も執事長の慌てぶりに違和感を覚えたらしく、少し緩んでいた表情を引き締めた。


「どうしたファロー、お前らしくもない」

「それが——朝から、急に姿を消した使用人が大勢おりまして」

「……姿を、消した?」

「はい。報告があった者だけでも、十数名はくだらないかと。現在、他の使用人たちに不在の者について確認をとらせております」

「その者たちが、何か事件に巻き込まれた可能性は」

「分かりません。ですが、失踪した使用人たちの部屋から私物が跡形もなく消えている、との報告もありまして」

「……つまり、十数人の使用人が、夜の内に揃って自ら行方をくらました、と?」

「状況的には、そうとれなくもありませんが……」


 使用人が消えた。

 その言葉を聞いて、私は館に紛れ込んでいた暗殺者たちのことを思い出す。


 まさか……。


「それと、奥様のお部屋でも少し騒ぎが起きておりまして」

「!」


 私の部屋。

 そうだ、もう夜明けどころか朝になったのだ。早くみんなの安否を確かめに行かなくては!

 そう思ったがいなや、私は図書室を飛び出す。背後から、私を呼ぶ公爵の声がした。


「カトレア!」

「自分の部屋に戻ります! 公爵様も来て!」








 西棟に渡るまでに、何人かの使用人と遭遇した。朝だから、人の姿があっても当然だ。いちいち警戒している余裕もないので、ぎょっとする彼らの横をすり抜け自分の部屋へと向かう。


 西棟3階の自室に通じる廊下まで出ると、廊下の奥に人だかりができているのが目に入った。


 更に近づくと、扉の前に年かさの侍女が立って、困り顔で室内に呼びかける姿が見えた。


「奥様なら、現在他の使用人がお捜ししておりますので。そろそろ、部屋を出られてはいかがですか」

「是非ともそうしたいところだが、妹の無事を確認できないことにはこの扉を開けられん。こちらも限界が近づいているんだ。申し訳ないが、あの馬鹿を早急に見つけ出してくれ」

「しかし……」


 兄様の声が聞こえる。会話の内容からして、まだちゃんと籠城してくれていたみたいだ。よ、良かった。


「はいはい! います、私ここにいます!」


 人だかりをかき分けつつ声をあげる。扉の前の侍女が私に気付き、頭を下げた。


「奥様。あの、奥様のお部屋にハルトリス様がいらっしゃるようで……。中には奥様の側付きや他のお客様もいらっしゃるようなのですが、呼びかけても扉を開けて頂けず……」

「私がそうするよう指示したの。とりあえず、皆さん下がってもらってもいい?」


 侍女含め、部屋を囲む人々を扉から遠ざける。皆訝しげな顔をしながらも、指示に従って後退した。

 もしかして、私にも少し公爵夫人オーラが備わって来たのだろうか。

 

 ……なんて考えつつ、安全確保できたところで私は扉をノックする。


「兄様、カトレアです。籠城お疲れ様です。朝になったので、出てきていいですよ」

「……」


 返事がないまま、ゆっくり扉が開かれる。

 セレニアちゃんは? テレサは? 侍女たちは? と、気持ちが逸って中に突入しようとしたら、ぼん、と壁に衝突して私は尻餅をついた。


 壁じゃなかった。トリス兄様だった。


「あいたぁ! 兄様、お邪魔ですよ。入り口を塞がないでください!」

「……レア、お前な」


 低い声がずしんと響く。昂りかけていた私の気持ちは、つられてすん……と静まる。


 恐る恐る見上げると、額に青筋をぴくぴくと浮かび上がらせる、険しい兄様の顔があった。


 怒っている。すごく怒っている。


 まあ怒られるだろうとは思ってはいたけれど、そもそも朝がくるなんてこちらも想像もしていなかったから、少しだけ無茶な行動をとってしまったのだ。

 ……私だって、ループを抜け出せると分かっていたなら、もうちょっと慎しみ深くできたはず。


 久しぶりに本気で怒っている兄様に見下ろされて小さくなっていると、兄様の肉壁の隙間から、テレサの姿が見えた。


「お嬢様!」

「テレサ!」


 テレサは兄様を押し退けて、私へと駆け寄る。そして私の両肩を掴むと、思い切りガクガクと揺らした。


「ああ、もう——お嬢様が無茶で考えなしなのは分かっておりましたが、まさかこんなことになるなんて……! 事情を話してくだされば、ちゃんと協力しましたのに。どこまでお馬鹿なんですか!」

「あれ……。テレサ、事件のこと知っているの?」

「お前が部屋から抜け出したあと、ライゼル殿が暗殺者について一から話してくれたんだ」


 詳しい部分は伏せられたままだが、と兄様。


「お前の説明じゃ、とりあえず犯罪者が屋敷の中にいてまずい、ということしか分からなかったからな」

「だって、急いでいたから……って、そうだ、他の人は!」


 テレサの腕を振りほどいて立ち上がり、兄様の壁を越えて、今度こそ私は室内に入る。


 中には侍女たちに囲まれて床に座り込むセレニアちゃんと、家具(イネス)の横で直立するライゼルさんの姿があった。


 ペトラとハリエは、トラウマがあるのか私を見て顔を強張らせた。

 ライゼルさんは気まずそうに、そして申し訳なさそうに私に向かって頭を下げた。あと、どこかを庇うように体の向きを少し変えた。……もう蹴らないってば。


「お義姉様……!」


 セレニアちゃんは素早く立ち上がり、こちらへと歩み寄る。そして私の両手を掴んでぎゅっと握った。意外と力が強い。


「ご無事で良かった。夜が明けても、お戻りにならないのだもの」

「あ、ごめんなさい……」


 寝坊しました、とは言えない。


「どうして急に部屋を出たのです。私はもちろん、ハルトリスさんとテレサさんはお義姉様のことをとても心配されていたのですよ」

「どうしても行かなきゃいかない所があったから……」

「行かなきゃいけないところ? それはどちらです」


 セレニアちゃんが思いの外ぐいぐい攻めてくる。彼女もちょっと怒っているようだ。

 多方面から怒りと恐怖を向けられて、どう答えるべきか考えあぐねていると、入り口から「婿殿」という兄様の声が聞こえた。


「あ、公爵様」


 公爵が、目を見張らせながら部屋に入ってくる。彼はまず室内に揃う面子に驚き、次に積み上がった家具に驚き、そして部屋の奥で引き裂かれた無残なウェディングドレスに驚いていた。


「これは一体、どういう状況だ……?」


 もっともな疑問を口にして、公爵は私の方を向く。


「えっと。ちょっとした事情があって、夜のあいだ皆さんには私の部屋に篭ってもらっていたんです」

「事情? しかし君は、そんなこと一言も……」

「あら」


 公爵の呟くような言葉に、セレニアちゃんが耳聡く反応する。


「その仰りよう……。もしかして、お義姉様はお兄様とご一緒だったのですか?」

「いや、それは」

「ああ。彼女は先ほどまで私と共にいたが」


 私が止めるより早く、公爵があっさりと肯定する。


 その瞬間、部屋中の責めるような視線が私に集中した。









 その後公爵にも簡単に事情が説明され、結局籠城組は私含めてそのまま部屋に待機の方針となった。現在、ファロー執事長の手配のもと、夢喰いの可能性が低い兵士で警備隊を編成しているとのことだ。その準備が整うまでは、部屋に引きこもるしかない。


 イネスは、簀巻きのまま別室へと移送された。ライゼルさんは公爵に「話がある」と言って、彼とどこかへ行ってしまった。


 私はというと、またも兄様に怖い顔で見下ろされていた。


「散々出歩くのは危険だどうだと騒いでいたくせに、どうして部屋を出た」

「それは……」

「しかも、婿殿と一緒だったのに何一つ事情を説明していなかったとは。そこはしっかり話しておけよ。ほんと、何やってたんだ」

「ぐう」


 いちいち説明しづらい質問をされて、私は唸るしかない。だって、セレニアちゃんや他の侍女たちもいるのに、いきなりループがどうこうなんて言えないし……。


 いつまで経ってもはっきりした答えを口にしない私を強く睨んで、それから兄様は「無事だったから良かったものの」と深くため息をついた。


「本当にお前、向こう見ずな行動はいい加減にしろよ。これじゃあ、あの世のばあさまが報われん」

「どうしてここで、お祖母様の名前が出てくるんですか」

「……そこらへん、お前は分かっていないんだなぁ」


 私の理解を置き去りにして、兄様は呆れたように首を振る。そして、右手をぐわっとこちらにのばしてきた。

 げんこつかと思って身構えたけれど、兄様の手のひらは数回私の髪をかき乱しただけで、すんなり離れていく。

 あれ?


 ぽかんとしていると、兄様はもう一度ため息をついて部屋の出口へと向かう。立ち去ろうとする兄様の背中に、慌てて私は声をかけた。


「どこへ行くつもりですか。まだ城館の中は安全と決まったわけでは」

「便所」


 なるほど。

 私が何も言わないでいると、兄様は小走りでお手洗いの方へと向かっていった。さすがにそれは、引き止められなかった。

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