第33話????
見覚えのある部屋。窓にかけられたカーテンの端が不自然に盛り上がり、ぶるぶると震えている。
その脇には白髪の女性が立っていて、彼女がカーテンを持ち上げると、中から幼い女の子が現れた。
女の子の顔は涙と鼻水でべちゃべちゃで、目は赤く腫れ上がっている。
女性はじっとその顔を見つめたあと、小さくため息をついた。
「まだ拗ねているのですか」
「いじわるなお祖母さまなんて、嫌いです」
——この女の子は私だ。
武術を学ぶことを禁じられて荒れに荒れたとき、こんな風にカーテンの中に隠れていじけていたような気がする。
そして幼い私の横に立つのは、2年前に亡くなったお祖母様。
この時点でそこそこのご年齢であるはずなのに、お祖母様の背中はまっすぐ伸びていて、横顔はきりっと引き締まっている。もう見ることは叶わないと思っていたお祖母様の美しい立ち姿に、私の目頭はぎゅっと熱くなった。
……どうやら私は、過去の記憶を見ているらしい。
「意地悪ではありません。これは、貴女の資質を考慮しての決定だと話したでしょう」
「難しいことを言われても、わかりません!」
「……貴女に剣の才能はないから、諦めなさいと言っているのよ」
「……ッ。びゃあああああ」
容赦ない一言に、幼い私は獣のような泣き声をあげて、床の上をのたうち回る。
足元を奇声と共に転がる孫を前にして、氷の女騎士と呼ばれたお祖母様も、流石に戸惑いを隠せないようだった。
「なくないもん! わたし、絶対強いもん!」
「剣を知らない貴女にどうしてそんなことが分かるのです」
「分かるんだもん! トリスにいさまにだって勝ったことあるもん!」
「武術の優劣に、子供の喧嘩の勝敗は関係ありません」
「そんなことないもん!」
もんもん連呼する私。私って、ここまでエネルギッシュなお子様だったっけ。見ているだけで恥ずかしくなってくるんだけど。
「……では、カトレア。貴女はどうしてそこまで武術を習いたいと思うのです」
「ふぇ?」
「貴女の兄たちが、どれだけ過酷な修練を重ねているかは知っているでしょう。彼らに混じって武術を学べば、体のあちこちに痣ができて、手はまめだらけになります。手足は太くなって、体は筋肉で岩のようになるでしょうね。
それより、可愛いらしいドレスを着て、素敵な王子様のお嫁さんになりたい、とは思わないのですか」
「かわいいドレス……着たい。王子さますき……」
「……」
ちょろいな私。お祖母様もまさかの誘導成功に言葉を失っている。
記憶よりもだいぶ軽かった武術への思いを突きつけられて、私自身は少し凹む。天国のお祖母様、こんな孫でごめんなさい。
微妙な空気の中、幼い私は「でも」と付け加えた。
「わたし、お祖母さまみたいになりたいんだもん。強くなって、かっこよく剣をしゃしゃっとして、悪い人をうぎゃってさせたいの」
「カトレア……」
「うっ……。でも、どうしてダメなんですか。うっ、うびゃっ」
「ですから、それは」
「……びゃああ」
「分かりました、貴女に特別な稽古をつけてあげましょう」
またも泣き出しそうな私を制するように、お祖母様は言う。
号泣スタンバイしていた私は、きょとんとして真っ赤に充血した目をお祖母様に向けた。
「確かに、バルト家の人間でありながら、全く武術の心得がないというのもおかしな話です。貴女が可愛いドレスを着て、素敵な王子様と結婚したいと言うのなら、兄たちと同じような修行は許可できませんが。
……1つだけ、バルト家女系のみに伝わる奥義を伝授します。いつか、必要になるときが来るかもしれませんし」
「おうぎ……?」
「はい。この技さえあれば、貴女はどんな殿方にだって負けることはないはずです。ただし、奥義なので無闇矢鱈に使用することは許されません。素敵な王子様は、奥義を連発する女性を好みませんからね」
「そのおうぎを使えば、兄様たちも倒せますか?」
「倒せます。奥義ですから」
「すごい」
幼い私はゴクリと唾を飲む。そして赤い目を爛々と輝かせながら、お祖母様の足にしがみついた。
「お祖母さま、それ教えて!」
「いいでしょう。そのかわり、武術は諦めて他のお稽古を頑張ると約束できますか」
「できます!」
やっぱりちょろいな、私。
おそらく幼い私は、“王子様”、“ドレス”、“奥義”という単語で頭がいっぱいになって、武術を諦めた先の人生がどうなるかなんてこれっぽっちも考えていないのだろう。
当時の大人たちは、こいつは将来どうなるのかと不安だったに違いない。お祖母様の複雑そうな表情が、そう物語っている。
「……奥義の前に。カトレア、これだけは覚えておきなさい」
うえうえ泣いていたことも忘れて、ご機嫌にまとわりついてくる私と目線を合わせるように、お祖母様は膝をつく。
その声音は、少し優しい。
「真の強さに、武術の心得など関係ありません。誰よりも強くありたいと願うのなら、まずは己の弱さを受け入れなさい」
「ふぁ……?」
「弱さを受け入れるということは、己を知るということ。どんな強者も、己が分を弁えなければやがて破滅するものです。
己の脆弱さを知っても、それを受け入れ前に進むことができる人間は誰よりも強い。私は、貴女にそういう人になってほしいのです」
「はあ……?」
幼い私は、お祖母様の言葉の意味が理解できなかったらしい。いまいち納得できていない様子の私を見て、またお祖母様はため息をついた。
「とにかく、あまり欲張らず、自分ができることから頑張るように。貴女は何も考えず本能だけで行動するきらいがありますからね」
「そうかなぁ」
「そうです」
そうでした。
お祖母様は、すごい。もう10年ほど前の時点で、今の私を見透かしていたのだ。
ふ、と小さく笑うと、幼き日の思い出は目の前でぐにゃりと歪んで消え失せた。そして私は、真っ黒な闇の中に取り残される。
公爵との会話のあと、夜明けはやって来なかった。
あんな展開が、正しい歴史のはずがない。そう思ってほっとしたけれど、その後いくら待っても目の前に柱は現れなかった。……時間軸の消失だとかで、ループは終わってしまったのだろうか。
結局、私は何も出来なかった。これだけのループを重ねても、分かっていないことが多すぎる。
どうして私の命が狙われているのか。どうして暗殺者はわざわざライゼルさんに私を殺害させようとしたのか。館に潜む暗殺者はどこに何人いるのか。あの毒煙は何なのか。そもそも、自分がどう行動することが正しい歴史の流れだったのか。
闇の中でたくさん考えたけれど、残念な私の頭では見て聞いたこと以上の事実は浮かんでこなかった。
……でも。正直今はそんなこと、どうでも良い。
得体の知れない暗殺者や、その背後にいる連中とやらが何を考えていようが、知ったことじゃない。
柄にもなく、私は後悔をしているのだ。
侍女たちを巻き込んでしまった。兄様を巻き込んでしまった。全てを放り投げて逃げようとしてしまった。無謀な戦いを挑んでしまった(そしてループを大量消費してしまった)。考えなしにライゼルさんを責め立てて、セレニアちゃんを犠牲にしてしまった。人生初の愛の告白から逃げ出してしまった。
更には、私の選択と行動によって、あの人は友人を自分の手で斬り伏せた挙句、妹すら失いかねない状況に陥ってしまった。
全部が私のせいじゃない。そもそも悪いのは、人のことを殺そうなんて考える犯罪者だ。あとライゼルさんも悪い。いくらセレニアちゃんを守りたいからって、公爵に見つかっても私を殺そうとするなんてどうかしている。あの人嫌い。
けれど、ループを繰り返して色々なことが見えていた私なら、もっと上手く立ち回れたんじゃないだろうか。
こんな悲しい気持ちで、全てが終わることなんてなかったんじゃないだろうか。
そんな考えが、いくら引っ込めようとも顔をだしてくる。
もし、もう一度チャンスがもらえるなら。
今度は痛い思いはせず、上手くライゼルさんを叩きのめして、セレニアちゃんを守って——
そして、あの人を笑わせてあげたい。
よくよく考えると、私はまだあの人の笑顔を見ていないのだ。それに、ちゃんと話もできていない。それもこれも、私があの人と向き合わず逃げ出してしまったからだ。
散々ループし失敗した挙句、最後に抱く願いがイケメンの笑顔というのが我ながら情けないところではあるけれど、あの悲しげな顔を見たあとだと、そう思わずにはいられない。
だから、どうか、もう一度だけ。この最悪な夜をやり直したい。
この願いが叶うなら、次の日なんて、来なくてもいい。
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