第32話ループ9+α -7


 中央棟に移動すると、途端に人の気配がなくなった。

 騒々しかった西棟から来たせいか、しんと静まり返った空気になんとも言えず不安になる。深夜だし、静かなのは当たり前だけれど……。


 私はセレニアちゃんの部屋の前に立って、ノックもせずに扉に手をかけた。けれど、引いても押しても扉は開いてくれない。


「セレニアちゃん! 中にいる? 私、カトレアよ! 中にいたら返事して!」


 今度は力のかぎり扉を叩く。扉はうんともすんとも言わず、中から返事も聞こえてこない。


「誰か! セレニアちゃんの部屋に入りたいの。誰かいませんか!」


 廊下に響き渡るように叫ぶけど、西棟のように様子を見にくる人はいなかった。


 しまった。ライゼルさんが部屋を訪ねたときは、返事がないから使用人室の合鍵を使って中に入ったって言われた気がする。でも使用人室の場所なんて分からない。

 今から合鍵を探すことなんてできない。西棟に戻って使用人を呼んでくるなんてこともできない。このままじゃ——


「どけ」


 背後から声。

 それと同時に、丸太のように太い足が私の脇をすり抜けて、破城槌のごとく扉を強打した。

 ばぎゃり、と悲鳴を上げて、扉は口をぱっくり開ける。


 振り返ると、私を追ってきたらしい兄様が片足を振り上げた状態で立っていた。


「兄様!」


 私、まだどいていなかったんだけど。

 でも兄様の怪力のお陰で、忌々しい扉は取り除かれた。


「急ぐんだろう。部屋主には悪いが、中へ入るぞ」

「はい!」


 ありがとう、と短く言って中へと進む。

 室内に一歩踏み込むと、甘い香りが鼻をくすぐった。


「ぶえっ!」


 思わず咳き込む。匂いを吸い込んだとたん、喉と鼻がひりひりと刺激されたのだ。

 後ろにいた兄様も、口を抑えて毒づいた。


「くそっ、なんだこれは! 香でも焚いているのか?」


 そんなわけない。こんなに攻撃的な香を愛用するお嬢様がどこにいるというのか。


 私はこの匂いを知っている。セレニアちゃんが殺されたとき、僅かに感じた匂い——そして、私が2回目のループで殺されたとき、自分の部屋で嗅いだ匂いだ。

 やっぱり、夢なんちゃらという連中は、ここにまで手を伸ばしていたのだ。


「兄様、この匂いをかいじゃだめ!」


 そう声をかけながら、私は廊下に戻って深呼吸する。

 かつてこの匂いを嗅いだとき、喉が詰まったようになって、声も出せないまま苦しみもがいた。あの時は、部屋の中に入ってはじめて気づくくらいの匂いだったけれど。


 とにかくこの匂いは危険だ。吸い込んではいけない。

 だから——


 私は意を決すると、息を大きく吸い込み部屋の中へと飛び込んだ。


「レア!」


 兄様の声が聞こえる。けれど構っていられない。というか構う余裕がない。

 息を止めたまま部屋の中央まで進んでベッドの方を見ると、横たわるセレニアちゃんの姿が目に入った。


 私は走り寄って、セレニアちゃんの体を掴もうとする。けれど目に焼けるような痛みが満ちて、溢れる涙が瞬時に視界を塞いだ。

 痛い。しかも前が見えない。

 でもこのまま立ち止まるわけにもいかず、私は目を閉じて涙を流したまま、セレニアちゃんの体を掴んで引っ張り上げる。突然触れられても、セレニアちゃんが反応する様子はない。

 嫌な予感はしたけれど、ここで諦めては意味がないので、そのまま後ろ向きに引きずる。意識のない人の体はひどく重くて、なかなか上手くセレニアちゃんを運び出すことができなかった。おまけに、「ふん」と力を込めた拍子に、つい大きく息を吸い込んでしまう。


 うわぁ、やっちゃった。


「——っ!」


 喉がぎゅうっと狭まるのを感じる。一度匂いを嗅いでしまったらもう息堪えなんてできなくて、私は咳き込みながら、空気を求める。そうすればするほど苦しみは増していって、自然と足は止まってしまった。セレニアちゃんをぼとりと落とさなかったのが奇跡である。


 このままセレニアちゃんを置いていけば、部屋を出られるかも——


 誰かが私の中で囁いたけれど、即時却下する。しない。絶対そんなことしない。できるわけがない。


 そうやって毒煙漂う室内で立ち往生していると、突然体をセレニアちゃんごと誰かに持ち上げられた。人を荷物のように抱える無遠慮で大きな手は兄様のものだとすぐに分かる。

 しばらくの振動のあと、私はぽいっと投げられて冷たい床をごろごろ転げた。どうやら廊下まで運んでもらえたらしい。


 けれど部屋から出ても息苦しさは続いていて、私は喉を掻きむしりながらのたうち回る。涙もまだまだ出てきた。

 やっぱりこの毒煙、辛い。後ろで兄様も悶えているのが分かる。

 私、このまままた死んじゃうのだろうか。


「……」


 ふと、誰かが近づいてくる気配がある。

 どうにか助けを求めたくて口を開けたら、喉の奥から「かはっ」という音が漏れて、わずかな空気が体の中に流れ込んだ。


「——!」


 気配は立ち止まって、それから離れて行く。え、ちょっと待って。助けてよ。


 文句を言いたいけれど、体は空気を取り込むのに精一杯で、声を出す余裕すらない。必死に呼吸を繰り返すと、喉がつかえて咳き込んだ。


「レアっ、げほっ、無事かっ……!」

「はひっ」


 兄様は毒煙の吸い込みが少なかったのか、声もしっかり出せるようになったらしい。

 私も辛うじて返事のようなものを出しながら、目を開ける。まだ痛みはあったけれど、なんとか周囲を見回すことができた。


 セレニアちゃんは、私のすぐ隣にいた。さすがの兄様も丁寧に下ろしてあげる余裕はなかったようで、彼女は床の上でだらりとのびている。体はぴくりとも動かない。


 息は、していないように見えた。









 セレニアちゃんに息はなかった。けれど心臓は辛うじて動いていて、まだ助かる見込みはある。

 ——そう言って、医者や領兵の治癒師だという人々は、彼女を慌ただしくどこかへと連れて行ってしまった。


 あの忌々しい毒煙は、不思議なことに、しばらくするとセレニアちゃんの部屋から消え失せていた。もう一度部屋の中にはいっても、わずかに甘い匂いがするだけで苦しくならない。あとから来た使用人も問題なさそうにしていたから、耐性ができたというわけでもないらしい。


 私自身も、あれほど苦しみ悶えていたのが嘘のようにぴんぴんしている。激しく咳き込んだせいで喉は痛いけれど、普通に呼吸はできて声も出せる。


「でも、まだ犯人が見つかっていないんです! あの毒煙を撒いて、セレニアちゃんを襲った奴を捕まえないと……!」

「それはお前の役目じゃない。とにかく今は安全な場所で休んで、落ち着いたら知っていることを婿殿や領兵に説明するんだ」

「それじゃ意味がないんです。この城館には、暗殺集団が潜んでいて」

「なら、尚更隠れているべきだな。暗殺者探しは、お前の仕事じゃない」


 兄様は私を脇に抱えながらそう言い放った。


 セレニアちゃんを医師に任せたあと、私は犯罪者を炙り出してやろうと即座に立ち上がった。けれど、走りだす前に兄様に捕まって、こうして強引に連行されている。

 兄様はどう訴えても、私を放してくれない。むしろ、拘束の手を益々強めている。

 窓から見える外の景色はまだ暗いけれど、空は少しずつ明るさを増している気がする。もう時間がないのに。


 兄に担がれる公爵夫人。その異様な光景に気づかないふりをする使用人たちを掻き分けながら、兄様は東棟の廊下を進む。

 今や屋敷全体が騒々しさに満ちていて、皆の表情には不安が浮かべられていた。


「この辺りに医務室があると聞いたんだが……」


 兄様は立ち止まって、廊下に並ぶ扉を見回した。

 そのとたん、私たちの目の前の扉が勢い良く開かれた。中から公爵と、それを中に引き戻そうとするファロー執事長が現れる。


「クリュセルド様! どうか医務室でお休みになってください!」

「私なら、問題ない。医師のおかげでもう楽になった。毒も末梢から入ったから、死ぬほどの効果は出ていないと医者に言われている」

「そんなボロボロのご様子で何を仰いますか。未知の毒物だから油断はできない、と私は聞きましたよ。治療はまだ継続すべきです」

「セレニアの治療を優先しろ。私は後でいい」

「手の傷もそのままになさるおつもりですか。最悪、右手は使い物にならなくなるやもしれませんよ」

「それでもいい。それより、領兵の招集を——んん!?」


 何やら真剣な会話が繰り広げられているなか、兄様が大胆にも公爵の体を掴み上げた。

 公爵のみならず私とファロー執事長もぎょっとする。


 そこで初めて公爵は私たちの存在に気がついたようで、「義兄上!?」と声をあげた。


「婿殿。焦る気持ちは分かるが、あんたが倒れちゃ色々なことが立ち行かなくなる。周囲のためにも、今は治療を優先すべきだ」

「いや、しかし」

「執事長、とりあえずこの2人はここに詰めておけばいいか?」


 兄様は顎で公爵が出てきた部屋をくいっと示す。

 突然声をかけられて、唖然としていた執事長は「は」と声を短く漏らすが、すぐに力強い声で答えた。


「はい。どうかお願いいたします、ハルトリス様。私は急いで治療ができる者を呼び戻して参りますので」


 ファロー執事長が頷くと、兄様は公爵と私をまとめて医務室の中に放り投げた。

 私は受け身をとって出口へと駆けるけれど、扉はすぐさま閉められてしまう。鍵はかかっていないはずなのに、開かない。外で兄様が押しているのだろうか。

 こうなったら窓から脱出だ。そう思って振り返ると、床の上でぐったり倒れている公爵の姿が目に入った。


 受け身もとれず、すぐ起き上がるだけの元気もなかったらしい。楽になったなんて、真っ赤な嘘じゃないか。ファロー執事長が慌てていた理由がよく分かる。

 脱出は一度中止して、私は公爵の体に手をかけた。


「公爵様。そ、その、とにかく、まずはベッドで休みましょう」


 公爵も流石に限界を感じたのか、こくりと頷く。


 私は生まれたての子馬が立ち上がる様子を思い出しながら、公爵を手伝って彼をベッドへと運んだ。


 布団の上に、公爵はどさりと腰をおろす。美貌はすっかり土気色に染められていて、衣服には乾いた返り血がべったりとこびりついていた。右手には包帯が巻かれているけれど、執事長の言葉から察するに、まだ大した手当はされていないのだろう。


「怪我はないか」

「え?」


 唐突な言葉に、私は顔を上げる。

 いつの間にか公爵が、じっとこちらを心配そうに見ていた。


「あの男から、随分と乱暴な扱いを受けただろう。……傷が残らないといいのだが」

「いえ。大丈夫、です。色々ぶつけはしたけど、これくらい平気です」


 もっとひどい乱暴をされて、何度も死んでいるし。生きて体のどこにも穴が空いていない現状は上々と言えるだろう。さっき死にかけた気もするけれど。


 そう考えて、私は体を貫かれたあの人のことを思い出した。


「えっと、ライゼルさんは……?」

「……まだ、生きていると思う」

「まだ?」

「あの怪我では助かるまいと言われた。既に意識はないらしい。治療を受けさせているが、時間の問題だろう」


 ——そんな。

 淡々と語られる内容に、私は言葉を失う。


 私を助けようとしたせいで、公爵は……


「君のせいではない」


 こちらの気持ちを見透かすように、公爵は毅然とした口調で言い切った。


「私は、ヴラージュ家当主として……君の夫として、然るべき対応をとったまでだ。それに、セレニアを君と義兄上が助けてくれたと聞いた。なんと礼を言えばいいのか……」

「い、いえ。でも、まだ……」


 言いかけて言葉を切る。まだ助かるか分からない、なんて言葉、言うべきじゃない。

 私は気まずい気持ちを隠そうと、少し強引に話題を変えた。


「公爵様。あのとき、どうしてライゼルさんの部屋にいらしたんですか?」


 私の問いに、公爵は少し気まずそうに目を伏せる。それからこちらに視線を戻して、ぼそっと答えた。


「彼と話をするつもりだった」

「話……?」

「私は、君の訴えを何の検討もなしに否定して、ひどく君を傷つけた……。もう一度謝ろうと考えたが、ただ謝罪するだけでは、意味がない。信じ難くとも、まずはライゼルと話をし、真偽を見極める必要があると思ったんだ。だから……彼の部屋へ向かった」

「あんな話、信じられなくて当たり前です。私こそ、ちゃんとした説明もなしに、一方的に公爵様のことを責めて……」

「だが、全て君の言う通りだった」


 重く響く声で公爵は言う。

 表情は変わらないけれど、いつのまにか公爵の左手は強く握りしめられていた。


「私が友と信じていた男は、卑劣な犯罪者だった。そして私が君の言葉を受け入れようとしなかったせいで、君と妹は命の危機に晒される結果となった。私が、あの男の本質にもっと早く気がついていれば——」

「公爵様のせいじゃないです! それに、貴方は私のことを助けてくれて……それなのに……」


 私の脳裏に先ほどの争いが想起される。


 あの状況を作り出したのは私だ。そもそも、単身でライゼルさんの部屋に乗り込んだのが間違いだったのだ。公爵と喧嘩のようなものをして、やけになっていたのかも。


 ライゼルさんが、私の殺害に囚われていることを知っていたのに。


 私の考えなしの行動と選択が、この人を深く傷つけることになったのだ。


「私のせいで、貴方は友達を——」

「いいんだ」

「でも、ライゼルさんにも彼なりの事情があって。私がちゃんと考えて行動すれば、こんなことにはならなかったはずなんです」

「……どんな事情があっても、私の妻に刃を向けることは許されない」


 公爵は首を横に振る。

 そしてどこかぎこちない口調で、更に続けた。


「幼い頃、あの男と親しくしていたのは事実だ。だが、最近では私に取り入ろうとする動きが多くて、迷惑していたんだ」

「……え」

「あまり良い噂を聞かない男だった。それでも、同門のよしみと思い、付き合いを続けていた結果がこれだ」


 ——どうして、そんなことを言うんです。

 そう問いかけて、私は口を噤んだ。


「だから、今回の件は全て、あの男を招き入れた私の責任だ。……君が胸を痛める必要はない」

「……」


 私は知っている。公爵は、ライゼルさんのことを家族のように思っていた。ライゼルさんのことを話すとき、この人は仏頂面に優しさを浮かべていた。ライゼルさんが公爵家に取り入ろうとしているなんて、少しも疑っていないはずだった。


「私なら、大丈夫だ。君が無事ならそれでいい」


 大丈夫なはず、ないのに。

 絶対に、辛いはずなのに。

 それなのに公爵は、私に負い目を感じさせまいと、こんな嘘をついているんだ。


「……っ」


 ここで泣いちゃいけない。私が自分勝手に泣き出せば、この人はまた、自分の気持ちを押し殺して平気なふりをするだろう。


 それでも、ぼろぼろの体でこちらを気遣う公爵を前にすると、涙が抑えきれなくなってくる。せめて涙を悟られまいと、私はベッドから離れ、窓へと歩み寄った。


 山向こうの空から、オレンジ色の光がうっすら差している。

 もう夜明けだ。果たして、朝はやってくるのだろうか。


 ……こなければいい、と思った。

 こんな気持ちのまま、この人を傷つけたまま、明日なんか迎えたくない。


「泣いているのか」


 鼻をすすったら、あっさり公爵にバレてしまった。慌てて否定の言葉を返そうと、私は振り返る。

 

 夜明けの光に照らされた彼の瞳は、とても悲しい色をしていた。

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