第31話ループ9+α -6



「何をしているッ! ライゼル!!」


 怒号と共に、公爵がこちらへと歩み進んでくる。

 そちらに気を取られたライゼルさんに僅かな隙を見つけて、私は思い切り彼の左手に噛み付いた。


「くっ」


 痛みに驚いて、ライゼルさんが身を引く。体を押さえつける圧迫感が消えた瞬間、私は身を捩って脱出を試みる。

 ——が、そう簡単にうまくいくはずもなく。今度は強引に喉元を掴まれ、壁に強く打ち付けられた。


 ライゼルさんは舌打ちすると、切っ先を私に向けて振り下ろす。


 白銀の刃が、軌跡を描いて迫り来る。新たな死を覚悟して、私はぎゅっと目を閉じた。


 けれど、いつまで経っても痛みは訪れない。


 数秒の間(ま)に違和感を覚え目を開けてみれば、公爵が短剣の刃を握り掴んでいて、切っ先は私の喉を穿つことなく、すんでのところで止められていた。

 公爵の手のひらから赤い血が滴って、私のドレスに染みをつくる。


「ライゼル……やめろ」


 底冷えするような低い声で、公爵が言う。

 刃先は押し返されて、ぶるぶると震えながら、徐々に私から離れて行く。


 ライゼルさんは答えない。彼はまた舌打ちして短剣から公爵の手を振り解くと、数歩後退した。


「……っ」

「公爵様!」


 痛みに顔を顰めて、公爵が刃を掴んでいた右手を押さえる。

 駆け寄って彼の手のひらを覗き込むと、血を滴らせた生々しい傷が刻まれているのが見えた。


「危ない!」


 痛々しい傷に手を伸ばそうとすると、強く突き飛ばされる。

 なぜ、と顔を上げると、ライゼルさんが公爵を押しのけて、私が元いた場所に短剣を振り抜く姿があった。


 突き飛ばされた私の体は、椅子と卓の間へと突っ込んで、ガラガラと噪音を響かせつつ床へと叩きつけられる。


 いてて、としたたかに打ち付けた頭を押さえながら上半身を起き上がらせると、今にもこちらへ手を伸ばさんとするライゼルさんとばっちり目が合った。

 彼の表情は今や悲壮に満ちていて、それでも視線は鋭く私を貫いている。彼の中で1つの覚悟が決められたことが私にも感じられて、背筋がすっと寒くなった。


 慌てて体を跳ね起こし逃げ出そうとしたけれど、襟首を掴まれて私の体は後ろへと引き寄せられた。首がぎゅっと締まって、喉から「ぐえっ」と押しつぶれるような声が漏れる。


「ライゼル!」


 悲鳴にも似た公爵の声。

 それに重ねるように、ライゼルさんがぽつりと呟いた。


「——すまない」


 ずぶり


 聞き慣れた音が、私の鼓膜を震わせた。











「ぐうっ……」


 低くくぐもった声が頭上より聞こえた。それと同時に、金属がからんと落ちる音がした。

 突然体が自由になって、私は手足をじたばたさせながら尻餅をついた。


 痛い。けど、痛くない。


 自分の体に穴が空いていないことを確認してから、私は後ろを振り返る。


 そこには、ライゼルさんが立っていて——彼の体を一本の剣が貫いていた。

 足元には、夢喰いの短剣が落ちている。


「あ……」


 剣がずるりと引き抜かれる。すると支えを失ったように、ライゼルさんは前のめりに倒れこんだ。


 それを、背後から公爵が見下ろしている。公爵は荒く呼吸を繰り返したあと、左手から赤く濡れた剣を落として、自身も崩れ落ちた。


「だ……誰か! 誰か、助けて!」


 大声で叫びながら、私はライゼルさんが落とした短剣を蹴って部屋の隅に移動させる。そして公爵に駆け寄り、ぐったりと折れ曲がる体を助け起こした。


 手のひらの出血は大したことはない。けれど傷の辺縁は不自然に赤黒く変色していて、全身にはべっとり汗が滲んでいる。腕はぶるぶると小刻みに震えていた。

 そうだ。あの短剣には兄様にすら膝をつかせた毒が塗ってあったはず。

 手を切っただけで、こうはならない。公爵もまた、兄様と同様に毒で体を蝕まれているのだろう。


 大丈夫ですか、なんて呑気に訊けるような状態じゃなくて、どう声をかければいいか分からない。


 ふと視線を床に向けると、公爵が落とした長剣が目に入った。刃先を伝って、赤い血が滴っている。

 ——私が、持っておけと言った剣。それはまだ、公爵の腰に提げられたままだったのだ。


 公爵と主寝室へと向かったとき、こういう状況になることも多少は想定していた。だから無理やり剣を持たせた。

 私は、なんて考えなしだったのだろう。私は公爵に、自らの手で友人を——


「問題……ない」


 狼狽える私にそう言うと、公爵は苦痛を耐えるように息を吐いて、立ち上がった。

 とても問題ないようには見えない足取りで、彼は倒れ臥すライゼルさんに歩み寄る。


 その横顔はライゼルさんをまっすぐと捉えていて、青い瞳は険しく、激しい怒りを湛えていた。

 

「どういうつもりだ、ライゼル」

「……」

「お前は——誰に刃を向けていたのか、分かっているのか!」


 ライゼルさんはすぐに答えず、傷口を押さえながらゆっくり公爵を見上げた。彼の体の下には、赤い血だまりができていた。


「……クリュセルド、安静にした方がいい。短剣の刃には、毒が使われているはずだ。……動くと、まわりが早くなる」


 公爵が現れてからはじめて、ライゼルさんが言葉を発した。声はかすれて聞き取りづらく、口調はどこか悲しげだ。


「毒など……! お前は騎士の誇りを忘れたのか!」

「そんな誇りを抱いたことは……一度もない」

「な……」


 信じていた友人の言葉に、公爵は絶句した。

 そしてまた、体を大きくふらつかせながら崩れ落ちた。すかさず後ろから支えようとした私も、引きずられて一緒に床へと倒れこむ。


「ライゼル殿、入るぞ!」


 ちょうどそのとき、半開きのドアから見慣れた人影が現れた。トリス兄様だった。


 兄様は一歩踏み出して、室内の惨状に目を見開く。そして途方に暮れる私と目が合うと、必死の形相でこちらへと駆け寄ってきた。


「レア、無事か!」

「あ……は、はい」


 もしかしたらどこか怪我をしているのかもしれないけれど、自分のちっぽけな痛みにかまけている余裕はなかった。


「お前の叫び声が聞こえるから来てみりゃ、これは……」

「今はそんな話をしている場合じゃないです! こ、公爵様が、毒で大変なことに! それに、ライゼルさんが怪我をして大変なことに!」


 ふざけているつもりなんてないのに、気が動転して馬鹿みたいな言葉が出て来てしまう。それでも兄様は真剣な顔で頷くと、「失礼する」と言いつつライゼルさんの体に手をかけた。


 うめき声とも悲鳴ともつかない音がライゼルさんから漏れ出てくる。


「——まずいな」


 傷口を目にして、兄様が呟いた。その言葉に、ぐったりしていた公爵がぴくりと反応した。

 公爵は何か言いかけたけれど、その間にも騒ぎを聞きつけた人が続々と部屋になだれ込んできて、彼の言葉はざわめきにかき消される。


「旦那様!」


 数人の使用人が悲鳴をあげながら駆け寄ってきて、公爵と私を取り囲んだ。


「誰か、早く執事長にお伝えして!」

「それより医者に診てもらう方が先だろう」

「領兵にも連絡しないと」


 そんなやり取りが私たちの頭上で飛び交う。

 「一体何が起きた」と口にする人はいなかった。それもそうだろう。何が起きたかなんて、荒れた室内と傷つき倒れるライゼルさん、そして血がべったりついた剣を見れば明らかだ。

 それでも、不自然なほどその話題を口にしようとはせず、少しの恐怖を顔に浮かべながら、使用人達は数人で公爵を支え、部屋の外へと速やかに出て行った。


 取り残された私は、やはり運び出されようとしているライゼルさんに目を向ける。

 今尚赤い血だまりを広げるライゼルさんは、素人目に見ても重症だ。それなのに、彼は強引に自身を持ち上げようとする兄様の手を振り払って、首を振っている。


「俺のことは、いい……。それより……を……」

「いやいや、とにかく手当しないと冗談抜きに死ぬぞ」

「早くしないと……」


 息も絶え絶えなライゼルさんと、戸惑い気味な兄様の声。


 恐る恐る近付いて耳をそばだてていると、ライゼルさんが首だけをこちらに向けた。

 すでに殺意は瞳から抜け落ちていて、ただ救いを求めるように彼は私を見つめる。


「頼む……」

「え?」

「セレニアを……」


 それだけ言って、ライゼルさんは糸が切れたように項垂れた。


 私は周囲を見回す。すでに室内には顔を真っ青にさせた使用人が入り乱れ、扉の外には中を覗き込む招待客の姿があった。

 あまりの展開に停止しかけていた頭が急に鮮明になって、代わりにヒヤリとした感覚が足元から這い上がってくる。


 ライゼルさんは失敗した。そして、その事実は既に多くの目に晒されている。


「兄様!」


 目の前にいる兄様の腕をひく。

 その拍子に、無理やり抱えられつつあったライゼルさんが、床にぼとりと落ちた。兄様がぎろりとこちらを睨む。


「おい! 気をつけ——」

「一緒に来て! セレニアちゃんの部屋に行かなきゃ!」


 それだけ言って、返事は待たずに部屋を飛び出す。あれほど人気のなかった廊下は、いつの間にか騒動の様子を伺おうとする人で溢れていた。

 目を丸くしてこちらを凝視する人々を横目に、私は中央棟へと向かって必死に足を動かす。


 ……さっきはあえて深く考えないようにしたけれど。

 セレニアちゃんが命を落としたループで、私はライゼルさんを大声で追及した。あの後、ライゼルさんは私との一件を敵に悟られたと考えて、セレニアちゃんの様子を見に行ったんじゃないだろうか。そして、本当にセレニアちゃんは失敗の代償に殺されていた。


 だとしたら、今回もセレニアちゃんが危ない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る