第5話ループ2-1



「いーやー!!」


 渾身の力を込めて私は叫ぶ。時刻はすでに夜。式も終了した今、もはや私が抗えるタイミングはここだけだった。


 …………て、あれ?


 気付くと私は、柱にしがみついていた。ついさっき、私は主寝室で……あれ?


「お嬢様!」


 後ろから強い力で引っ張られ、私の体は柱から引き剥がされる。

 突然私が力を抜いた反動か、私を引っ張る侍女たちはそのまま床に勢い良く倒れ込み、私もまた侍女たちの上にどさっと落ちた。

 体の下で、何かが潰れる音がする。


「か、カトレアお嬢様! いきなり力を抜かないで下さいまし!」

「……あ、ああ、ごめんね、みんな」


 慌てて侍女たちの上から降りる。そして、自分のお腹を確認した。

 痛くない。生まれて初めて着たシルク素材のナイトドレスに穴はあいていない。もちろん血はついていない。


 ——一体、これはどういうことだろう。

 私はついさっきも、柱にしがみついていた。けれど、騒ぎを聞きつけた兄様に剥がされて、そのまま主寝室へと連れて行かれて。半分放り込まれるようにして入った部屋に入ったとたん、誰かにお腹と胸を刺された……。


 白昼夢? 未来予知? それとも妄想?


 目の前に広がる光景は、記憶通りなら刺されるよりも前のものだ。柱にしがみつくなんて特殊な状況、何度もあるわけないし、勘違いしようもない。


「て、テレサ。何だか変じゃない? 時間が巻き戻ったような変な感覚があったりしない?」

「何を言っているのですか。もしかして、寝ぼけています?」


 テレサが眉を顰める。その言葉に嘘やごまかしの響きはない。

 私以外の人々は、この状況に戸惑っている様子すら見せていなかった。

 この違和感は、私だけに降りかかっているようだ。


 何が何だか分からない。ただ、皮膚に食い込むあの冷たい感触と、燃えるような痛みだけは生々しく今も思い出すことが出来る。


「いたた……」


 侍女のイネスが床に座り込んだままでいる。彼女は足首をおさえ、眉間にしわを寄せていた。どうも今の衝撃で、足首を捻ってしまったらしい。


「大丈夫、イネス?」


 座り込むイネスの顔を覗き込むのはペトラ。


「もう、慣れない靴を履くから足を捻るのよ」

「結婚式だから新しいものを使いたかったの」

「だからって踵の高い編み上げ革靴なんて……ちょっと気合い入りすぎじゃない?」


 年若い2人は、そんな会話をしている。同年代の侍女同士、親しいのかもしれない。


「ごめんなさい、大丈夫かしら」


 私もまたイネスに近づき、足首の具合を確認しようと手を伸ばす。けれどイネスはすっと足を隠すようにひいて、立ち上がった。


「お気になさらず」


 素っ気なく返される。その横顔に、ペトラに見せた気安さはない。


「落ち着いたみたいですね。それなら支度をしましょう。旦那様をお待たせしすぎです」


 年長——と言っても、20歳前後だろう——の侍女ハリエが、ちょっと落ち込む私の両肩を掴んで、そのまま鏡台の前に移動させる。そして有無を言わさぬオーラを放ちながら、私の髪を櫛で梳かし始めた。

 それを好機、と言わんばかりにペトラとイネスも私を囲み、香水を振りかけたり淡いピンクの口紅をさしたりしてくる。


 さっき見た夢(?)と違う。前回は身支度を終えないまま、トリス兄様に担がれ主寝室へと運ばれた。けれど今は、侍女に髪を整えられ、香水を振りかけられている。

 やっぱりさっきの夢は、結婚が嫌すぎて、私が生み出した妄想なの? 扉の方を見ても、兄様が現れる気配はないし。


「急に大人しくなって。どうしたのですか、一体」


 テレサが鏡越しに私の顔を覗き込む。本気で心配そうだった。


「まったく。あんなに素晴らしい結婚式を挙げた後だというのに、お嬢様は一体何が不満なんです」

「いや不満というか……えーと……」


 上手く言葉が出ない。寝起きで上手く頭が働かないような、あるいは何かに化かされた後のような。

 あまりのことに状況を理解しきれなくて、間抜けに口をパクパクさせるしかできない。


「結婚されたばかりで、すこし緊張されているのですよ。ね?」


 そう言うのはペトラ。慇懃なイネスやハリエと異なり、彼女は初めから私に親しげだ。


「私も奥様の気持ち、ちょっと分かります。あんなに綺麗な旦那様がお相手だと、何だか怖くなっちゃいますよね」

「ペトラ」


 ハリエがペトラに鋭く目配せする。使用人が気安く喋るな、と言いたいのだろう。

 ペトラは身を縮こませるが、私としては的外れでも語りかけてくれたのが嬉しかった。現実感のない恐怖が少しだけ薄まる。


「いいの。それより……えっと。公爵様は、本当に部屋でお待ちなのかしら」


 先ほど見た夢では、待ち構えていたのは黒布の男だった。何者かは分からないけれど、あれが公爵だとはちょっと信じがたい。


「行けば分かります。ということでお部屋へ移動しましょう。いいですね、奥様」


 ハリエは強引な論法を展開し、こっちの返事も聞かず移動の準備を進めていく。

 いつの間にか鏡の中には、そこそこ身綺麗になった私の顔があった。


 公爵が待つ部屋に行きたくないし、あのお綺麗な顔を見たくもない。

 けれど、確かめる必要はあると思った。

 あの生々しい記憶が、ただの幻であると自分に思い知らせたい。この恐怖はただの勘違いだと、確信したい。


「私が奥様をご案内します」


 申し出たのは白昼夢と同じくイネス。けれど彼女は足首を痛めたばかりだ。

 ハリエもそれを覚えていて、首を振る。


「あなた、さっき足を痛めていたでしょう」

「でも——」

「じゃあ、私行きます!」


 ペトラが元気良く手をあげる。これもまた違う展開だ。


 相変わらず不安と恐怖が渦巻くけれど、夢と異なる光景に、少しだけ救われたような気がした。

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