白い桜
とと
白い桜
気の抜けた笑顔とか、たまに見せる真剣な表情とか、考え事をするときに耳をさわる癖だとか。君に関わるすべてが輝いて見えて、いとおしくなる。
これを、この想いを愛や恋だなどと美しい名前で呼ぶのなら、この世界はなんて残酷なのだろう。
君が私にとってまったくの他人であればいっそ救われたのだ。君がこの世界で生きている事実から目を逸らすことができていたのなら、私はこれを恋だなどと気付かずにいられたのに。
否、たとえ出会い、恋だなどと理解できたとしても、今私が感じているようないたみなどなかったはずだ。
罪を犯しているいたみだった。罰と生きている苦しみだった。禁忌と定められていたのなら、神は私になんという欠陥を作ってくれたのだろう。唾棄すべき感情は、いつからか当然のような顔をして、私の心の最も深いところに住み着いてしまっていたのだ。
きっとそれは、切り離すことができない程に私の一部となっていた。美しくも醜い恋心。幼くて独りよがりで、本来ならば大切に慈しむべき心だ。
相手が君でさえなかったのなら良かったのに、という後悔は、賽の河原での石積みのように果てしない。後悔する度にまた次の後悔が生まれるのだから。
残酷だ、と吐き捨てて。まるで悲劇のヒロインのように悲嘆にくれて。そんな醜く歪んだ本当の顔を、優しくて穏やかな姉の画面で覆い隠した。同じ家で暮らし、共に食事をして下らない話をして笑いあって、そうして私は自分の想いを殺し続けていたのだ。これはあってはならない想いだ、と。
そして、君がいつも同じように笑いかけてくれるのを見ては安堵していた。隠しきれていることに、まだ家族で要られることに。君に、実の姉から思慕を寄せられるという傷を作っていないことに。
まったく、業の深いことだ。出会わなければよかったと、他人であれば救われたと、そんな事ばかり考えているのに、君の家族で要られることを幸福だと感じていたのだ。
救われるはずがない。そして、私は許しを乞うつもりもなかった。許されたくはなかった。だって、そうだろう。私を許せるものなどこの世界にあるのか? そんなはずがない。そしてまた、私はどこかの誰かが無責任に与えるような許しなど必要なかった。
私の恋の先には何もないのだから。そんな、正しくないことは次に続かないのだろうから。どう足掻いても、この恋はなんの命も孕んではくれやしない。
ならば、誰がこの過ちを許せようか。この恋は、生命の環の中にある生物としての己に対する、致命的な否定であったというのに。命を育むことを拒絶するような、おぞましい想いであったのに。
いっそのこと、君が私を嫌ってくれればよかったとも考えた。それは救いではなく、私にとってまだましなだけのの結末ではあるけれども。君が私を嫌いになってくれたのなら、私は大手を振って君から離れることができたのだから。
この恋から、思いから、目を逸らして逃げ出すことができたはずだから。どちらも地獄だとしても、今の緩やかな腐敗よりは、ひと思いにこの恋を殺してほしかった。じくじくと膿んだようにいたむ心を、一息で切り捨ててくれればよかったのに、と。
そんなことを考えては自嘲する。こんなたらればは意味がないのに、と。君は優しかった。だから、きっと私のこの恋心を知ったとしても、変わらぬ笑顔を向けてくれたことだろう。
拒絶したのは私の方だった。恐怖に逃げ出したのは、私だった。あの日、あの言葉を告げる君の無邪気な笑顔を見た瞬間、何かが崩れ落ちる音がした。あるいは、張り詰めた糸が切れるように。
絶望した。どう足掻いても、私が君のことを愛しているという事実を変えられないことに。ただひたすらに、絶望した。
だから。
……私は私の恋心を殺すことに決めた。
時計の秒針の刻む音がひどく耳に障る。この狭い一部屋では、私の心臓の音とその音しかしない。耳が痛くなるほどの静寂を、しかし、その時計の秒針ばかりが遮っていた。
私は、いっそ千切り取るような強さで耳を塞いだ。そして、明滅する画面に記された文字を、喰らいつくような強さで持って見つける。それはいっそ、睨みつけるように。
愛している、と。呻くように口にした。毒を飲み干すような心持ちで、もう一度ばかり繰り返す。――愛している。
君は。
私のことを、家族だなどとは思っていないと。あの日に、そう伝えてきた。同じ思いだったのだ。同じ恋慕を、互いに抱いていたのだ。そう知らされた瞬間、浅ましくも歓喜に胸が震えた。しかし、次の瞬間、大きすぎる絶望に目眩がした。
私は君のことを愛している。この心臓を抉り出して捧げても構わないほど。この首を切り落として、銀の皿に乗せ、君が踊ってくれればいいと夢想するほどに。心臓に巣食った感情は、私の核であり根本だ。
だからこそ、私は君への想いを殺さなければならない。この罪は罰はいたみは、私だけが背負えばいい。君は過ちを犯すような人生を送ってはならないのだ。私のたった一人、世界で一番愛しいひと。
君だけは、美しく、清廉で、なんの穢れもない人生を送ってくれ。このような狂った女のことなど、家族としてでも忘れてくれ。
そのようなことばかりを、祈っていた。
車窓は、見慣れない景色を映し出している。眺めるともなしに景色に視線を向けながら、手元の軽い荷物を抱え直した。財布と、通帳と、いくばくかの着替えと食料。
この心許ない軽さが命綱だ。
知らない地名の、人気のない駅で列車を降りる。見たことのないほどに閑散とした列車からは、やはり私しか降りる人などいなかった。訛りのきつい駅員に切符を手渡しながら、知らない土地の景色を見回す。
虫の鳴き声が五月蝿い。そう感じるというのに、いつぞやの時計の音よりは耳障りではなかった。耳を通り抜けて、また世界へと戻っていくような音を聞き流す。
訛りきった声が、ここに何しに来たのかと問うた。私は、ただ張り付けたように微笑んで、秘密ですとだけ答えた。見ず知らずの誰かに軽率に教えられるほど、私は軽い気持ちでここには来ていない。
私はここに、恋心を埋葬しに来たのだ。見覚えのない田舎町。聞いたことのない地名。――きっと、両親は、私が知らないとでも思っているのだろう。
ここは、私の生まれた町だ。
ここは、すでにいない私の本当の両親の、生まれ故郷だ。
履き慣れた簡素な見た目の運動靴と、見た目を気にしていない、動きやすさだけを追求した格好。誰もいない道を、人から伝え聞いた記憶だけを頼りに歩いていく。
君は、笑うかもしれない。ふと、下らないことが頭をよぎった。いっそ笑い飛ばしてくれればいい、と。愚かしい願望さえ抱きながら、私は足を進める。
やがて、一本の大きな木が見えた。
季節外れの桜が咲いている、と。一刹那ばかり錯覚した。錯覚だと理解したのは、その花弁によく似た白い翅が、ひらひらと羽ばたいていたからだ。白い、翅。
それは、蝶だった。
しばらく見上げていて、不意に既視感を覚える。そうだ。私はこの光景を、季節外れの白い桜の咲く光景を、知っていたのだ。目の前にある現実と、忘れていたはずの過去が重なり、酩酊にも似た感覚を覚える。ぐらつく頭で、私は確かに笑ったのだろう。
固く閉じ込めた記憶が、鮮やかに蘇る。
あの日。
私が君の姉になった日。君が私の家族になった日。
この、白い桜の木の下で、一つだけ約束を交わした。幼くて、ちっぽけで、目の前のことしか見えていない子供じみた約束を。
ずっと一緒にいようね、と。他の人みたいにいなくならないで、と。私はみっともなくも君に縋り付いた。私よりも一つ下の君は、私よりもずっと大人びた顔をして私を受け入れた。
ずっと。永遠に。変わることなく。同じ形で。正しい感情で。……そうして側にいることができたのならば、それはきっと、今ここにある現実よりもずっと優しい未来だ。それは、私が殺した未来だ。未だに生温い夢を見ている己を嘲るように、口角を歪める。
恋だとか、愛だとか、好きとか嫌いとか。誰かが定義した辞書に載っているような名称に、価値も意味もない。
ただ、君だけが美しい。
一歩。木に近づく。甘ったるい蜜の匂いがした。おそらくは、甘美な毒の匂いだったのだろう。近くで見ると、白い翅の蝶は、その大半が死に絶えていた。地面には、散った花弁のように翅が広がっている。
この蝶のように、この恋心も死んでくれたならばいいものを。
木に背をつけて、鞄に入れていたパンの安っぽい袋を開ける。蝶が一匹翔んで来て、そのままふらついて地面に落ちた。
恋は、この蝶のように死んではくれない。この想いは既に、私の一部となってしまった。心臓の半分が、君への想いでできているかのように。
だから。
――この想いは、私ごと葬ろう。
目を閉じる。
山の中だというのに、虫の声一つ聞こえない。私の心臓の音だけが、小さく鳴り響いている。
この町は、私の本当の父母の生まれ故郷で。
……
白い桜 とと @pico
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