第三.五章 外道一穴始末
第120話 請求書の回し先
「もう許してください。お金なんて本当に無いんです。正直、明日からどうやって食べていけば良いのか……」
大通りを一つ入った路地裏に、窮状を訴えかける悲痛な声が響いた。
そこにあったのは赤ん坊を抱きかかえ、小刻みに肩を震わせる女の姿。一つにまとめた髪の間から
そんな彼女をウザったそうな目で眺めて、その場にいるもう一人――小太りの女が口元を歪めて鼻で
場末のいかがわしい呑み屋にでも居そうな、やたら化粧の濃い中年女である。
「はん、知るもんかい。悪いのはそっちじゃないのさ。アンタんとこの子のせいで、ウチの子は将来を潰されちまったんだからね。ま、払えないってんならしょうがない。アンタんとこの子にも、ウチの子と同じ目にあってもらうだけさ」
「そんな!」
「それが嫌なら、今月分の治療費と慰謝料、銀貨三十枚! 三日後までに耳揃えて持ってきな!」
「む、無理です! もう本当にお金なんて……」
「知ったこっちゃないね。金が無いなら、身体でも何でも売ってつくりゃいいじゃないのさ。それともどうだい、アンタんとこの子、奴隷商にでも売っちまいなよ。面倒がなくなって一石二鳥ってヤツじゃないのさ」
「うっ、ううっ、ひ、酷い……」
泣き崩れる女を
表通りの
女はしばらくそこで声を殺して泣いた後、力なくとぼとぼと歩き始める。彼女の腕の中では何も知らない赤ん坊が、スヤスヤと寝息を立てていた。
彼女はもはや、どうしてよいのか分からなくなっていた。六歳になる男の子と今年生まれたばかりの女の子、二人の子供を抱えて、この先どう生きていけば良いのかと、途方にくれるばかりである。
戦争はひと月も前に終わったというのに、彼女の旦那は帰ってこない。旦那の代わりに帰ってきたのはわずかな遺品のみ。衛士団の団長だという若い女の人と、何度かあったことのあるチョビ髭の副団長が、旦那の戦死の知らせを携えて、彼女のもとへとやってきたのだ。
「私が不甲斐ないばかりに……すまない」
玄関先でのこと。唇を噛み締めるその若い衛士団長を前に、彼女は膝から崩れ落ちた。目の前が真っ暗になった。そして、思わず
どうしてアンタらが生きてるのに、ウチの旦那は死ななきゃならなかったんだ、と。
若い衛士団長は、ただ
どん底だと、彼女はそう思った。
だが、
その数日後のことである。
酷い時には酷いことが重なるもので、六歳になる長男が、よその子に怪我をさせてしまったのだ。詳しい状況はわからないし、長男はやってないとそう言っているのだが、男の子が一人、長男の投げた石に当たって失明したのだという。
見るからに柄の悪い父親と、小太りの母親が乗り込んできて、慰謝料と治療費を要求された。「払わないってんなら、うちの子と同じように、お前んとこの子の目も潰してやるぞ」と、そう脅されて、ありったけの金を踏んだくられたのだ。
旦那の命と引き換えに手渡された、わずかばかりの弔慰金まで根こそぎである。
それでもまだ、彼女たちはお金を要求してくるのだ。
もはや、明日の食事にも事欠く始末。どうやって生きていけばよいのかすら、見当もつかない。
生きていくのってこんなに難しいことだっけ? こんなに辛いことだっけ? 全てを捨てて逃げ出そうか? 逃げ出すってどこへ?
疲れ切った頭に浮かぶ思いは、どれも涙で湿っている。胸に抱きかかえた娘が、石像でも抱いているかのように重く感じられた。
人間、転がり落ちるのは一瞬である。ついふた月ほど前には、当たり前にそこにあったはずの家族の暖かな団欒は、とても遠い日の出来事のように思えた。
彼女は絶望に追い立てられるように、当ても無くふらふらと歩いて、気が付けば貧民街。はたと気が付いて周囲を見回せば、ボロボロの教会の前に立ち尽くしていた。
「ありゃりゃ、どうしたってんだい、奥さん。酷い顔してるよ。ツラいことがあんなら神さまに話を聞いて貰いなよ。ちっとは気が楽になるってもんさ」
教会の入口の辺りに立っていた
「……じゃあ、少しだけ」
女がおずおずと返事をすると、
「はいはい、こっちにおいで、段差があるから
そう言って、
正直、彼女は信心深い方では無かった。だが、神さまだろうが、
バタンと扉が閉まってしばらくすると、カーテンの掛かった正面の小窓から、先ほどの
「悔い改めなさい、神は全ての罪を許したもう。汝の罪を告白なさい」
罪……自分は何か悪いことをしたのだろうか? だからこんなに苦しんでいるのだろうか?
一瞬そう考えた後、彼女は
今、自分に襲い掛かっている不幸を、哀しみを、苦しみを。
伴侶が戦死したことを。
子供二人を抱えて、どうやって生きていけば良いのかすら分からないことを。
お金を要求してくるゴロツキ夫婦のことを。
彼女は懺悔したい訳では無かった。ただ、誰かに聞いて欲しかったのだ。
言葉を
「……許せねぇ」
カーテンの向こう側で、
「許せねぇ! なんだそいつら! 旦那さん亡くしたばっかりの奥さん相手に、どんなむごい仕打ちさ! 悪魔でも、もうちっと空気読むだろうさ! 奥さん! そいつらは
カーテンの向こうで、ブチ切れて声を上げる
神さまというのは、もうちょっと荘厳で浮世離れしたものだと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。最近の神さまは、けっこう人情派なのかもしれない。
「お話を聞いていただいて、少し楽になりました」
「楽になったんなら、いいけどさ……奥さん、あんたこれからどうすんのさ」
「……そうですね」
その声には、
「中央教会で戦災孤児を引き取ってくださると聞いていますので、子供たちをそこにお願いして、私は……………………身を売ろうかと思います」
途端に小窓の向こう側から、ガタガタっと椅子を蹴って立ち上がる音が聞こえた。
「ダメッ! ダメ! ぜーったいダメだ! 馬鹿言っちゃいけないよ! 子供から離れちゃいけないんだよ! ウチの教会には親の無い子がたくさんいるんだけどさ、その子たちも平気な顔しちゃいるけど、時々寝言で言うんだ、パパ、ママって! 絶対離れちゃダメだ!」
「でも……もう本当に、どうしようもないんです」
「あーもう! わかった! あんた、アタシが話通しておいてあげるから、今日の夕刻、日の入り直前にここへいきなよ」
そういってカーテンの隙間から差し出された紙片には、簡単な地図が描かれてあった。
「な、なんでしょう、これ?」
「奴隷商クリカラの屋敷、その脇道から裏へ回ればいい。そこに行けばきっと分かるから。あ、勘違いしないでよ。別に子供を奴隷に売れって話じゃないからね!」
◇ ◇ ◇
「……まったく『
クリカラは盛大にため息を吐いた。
本日最後の依頼は赤子を抱いた若い奥方だったのだが、彼女が訪れる少し前に『
奥方の話には同情するしかないし、彼女に金が無いこともよくわかるのだが、暗殺者は慈善事業でも無ければ、正義の味方でもない。金のやり取り無しに取引が成立することは無い。
この辺りを『
「それで……銀猫、どうでしたか?」
「はい、あの奥さんのいう通りで間違いありません、ね。モジナ夫婦という
「で、あの奥方の素性は?」
「ユラ・クリンスマン、二十九歳。先の姫殿下の騒ぎに巻き込まれて、先日、衛士だった旦那が死んでいます」
「姫殿下の騒ぎに巻き込まれて?」
「はい、城砦で血を抜かれて死んだうちの一人で、す」
その話なら『
そうと知ってしまえば、クリカラとしても
クリカラは、溜息とともに小さく肩を竦めた。
「銀猫、『
「わかりまし、た」
だが、だからと言って、金のやり取り無しに仕事を受ける訳にはいかない。
「あと、請求書はアラミス公に回しておきなさい」
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