第116話 終わらせるには良い日
「そんなに怖い顔をするでない。他愛のない
どこか幼稚な悪意を感じさせる薄笑い、悪気の欠片もなさげなヴェルヌイユ姫。アラミス公はそんな彼女の傍へと歩み寄り、表情一つ変えずにこう語り掛ける。
「姫殿下、王宮へ戻りましょうか」
すると、彼女は小馬鹿にするように肩を竦め、
「なんじゃ、雅味を
だが、気だるげに笑うそんな彼女に、アラミス公は決定的な一言を告げる。
「
途端に彼女は、ピタリと動きを止めた。バルコニーの向こう側に、一羽の白いカササギが羽を広げ、湖の形をなぞるように飛んでいる。微かに響いたその鳴き声が、否が応でもこの場に舞い降りた重苦しい静寂を意識させた。
「そうか……来ぬか。存外意気地のない男じゃのう。一族を根絶やしにされようというのに、仕返しの一つもしに来ぬか。まったくつまらん、つまらんのう」
長い沈黙の末に、彼女はどうにか言葉を紡ぎだす。言葉は揶揄するようでありながら、その声は潤んで震えている。
「姫殿下……いえ、叔母上、もう良いのです。そんな演技は必要ないのです。失礼ながら、叔母上が彼に宛てた手紙を拝見しました」
「なっ! …………そうか、見たのか、知ってしまったのじゃな。ははっ、その上で二度も振られた
「いいえ、私は叔母上、あなたを笑ったりしません。笑ったりできる訳がありません」
そして、アラミス公は声を震わせながら告げた。
「彼はもう来れぬのです。彼は、もう……
その瞬間、彼女は跳ねるように身を起こした。まるで雷に打たれたかのような挙動。彼女が強い衝撃を受けたのは、誰の目にも明らかだった。唇は開いたままに硬直し、眼を盛んにしばたたかせて、喜怒哀楽のどれにも属さない表情でアラミス公を見据える。
「う……うそじゃ! う、嘘を吐くな! お主とて言って良いことと悪いことがあるのだぞ! 確かに
「嘘ではありません。彼は先王……お爺さまとの約定と、あなたへの想いの間で押しつぶされてしまったのです」
「バカな! そんなバカげた話があるものか! 信じぬ! 絶対に信じぬ! 父上は既にこの世におらぬ。約定になど何の意味があるというのじゃ! あの方を縛る鎖は、ドレスデンの家だけではないか!」
「叔母上っ! ドレスデン子爵がどんな人間であったか、今一度思い出してください。王家と交わした約定を、時が経ったからと反故にするような男ではないことは、あなたが一番ご存じのはずでしょう」
「そんな……そんな、バカな……ことが、い、いやじゃ、い、いや……じゃ」
彼女は力なく背もたれに倒れ込み、
アラミス公は、改めて叔母の顔を覗き込んだ。
彼女のその瞳には既に光はなく、表情と呼べるものは、もはや何も残っていなかった。胸の内で膨らんだ感情が大きすぎて、どこからも取り出せずにいる。彼の目には、そう見えた。なまじ見目が麗しいだけに、絶望という表題をつけた彫像のようでさえある。生きるために必要な何かが彼女の身体から止めどもなく零れ落ちていくような、そんな錯覚さえ覚えた。そこにあったのはあまりにも憐れな、弱弱しい一人の女の姿であった。
(だが……やらねばならぬ)
彼は、背後で静かに
「伯母上、彼女の目を見てください。特別な力を持つ者です。多少、気を落ち着けることもできましょう」
アラミス公の声がやけに低いのは、声が上擦りそうになるのを必死に堪えているから。血の繋がった肉親を手に掛ける。その事実が重く、重く、彼に
(父上もこんな気持ちを味わったのだろうか。そうであろうな……)
彼が静かに背を向けると、黒づくめの少女が、
黒いヴェールを被った人物。それがゆっくりとヴェールを外すと、そこには、なんとも垢抜けない少女の顔が現れる。赤い髪に薄っすらとそばかすが散らかった鼻先。『田舎者』という言葉を
(……吸い込まれそうな瞳じゃな)
姫殿下がぼんやりとした頭で、そう思ったのと同時に、
「……今宵、安らかな眠りを」
紅い瞳の少女は、彼女の頬に口づけるように顔を寄せて、その耳元で
それで終わり。ヴェルヌイユ姫には、これが一体、何だったのかはわからない。だが、それを考えるだけの気力もない。背を向け、肩を震わせている甥に、それを問いただす気も起らない。
少女が再びヴェールを被り直して立ち上がると、ぐじっ、と鼻を啜るような湿った音を鳴らして、アラミス公が振り返る。
「叔母上……もう一度お伺いします。王都に戻られますか?」
アラミス公がそう問いかけると、彼女はわずかに首を振った。そして俯いたまま、消え入りそうな声でこう呟く。
「すまぬが……トレド坊や、ステラノーヴァのことを頼まれてくれんかの」
「……わかりました」
アラミス公は硬い表情で一つ頷いて、
「叔母上、私はあなたのことが嫌いだと思っておりました。ですが……そうでもなかったようです」
だが、返事は返ってこなかった。行ってしまえとばかりに、ひらひらと振る手が見えただけ。
バルコニーの扉を閉じる音が、やけに大きく響き渡った。
◇ ◇ ◇
それから、アラミス公は庭先へと向かう。そこで、
「姫殿下はご病気で、療養中とのことでした。今も御加減がよろしくないそうで、もう誰とも会いたくないと、私も追い出されましたので……」
アラミス公がそう告げると不承不承ではあるが、貴族たちは馬車へと引き換えしていった。彼らの背を見送って、アラミス公は
彼女は驚き、盛大に戸惑った。それはそうだろう。ここでは姫殿下の世話をする者は、彼女の他にはいないのだから。だが、それが姫殿下のたってのご希望だと、そう告げると、彼女は戸惑いながらも渋々了承した。
ステラノーヴァを先に馬車に乗りこませ、アラミス公は馬車の傍で、『
「姫殿下の幸運を……確かに、全て奪い取ったのだな?」
正直に言ってこの黒づくめの少女に、返事を期待してはいなかった。弱さと言っても良いのかもしれない。自分が負った罪を、その重さを、ただ確認せずにはおれなかったのだ。
だが、彼女は大きく首を振ると――
「吸ってねぇだ。あん方には、吸い取れるような幸運なんて、もう一欠けらも残ってねがっただよ」
想像もしていなかったネーデル
「アンタは、あん方を殺したことにはならねぇ。気に病む必要は、なぁんも無ぇだ。何もせなくとも、あん方は今夜にも
吸い取るのではなく、
暗殺者が、幸運を置いてきたと、確かにそういったのだ。
アラミス公は、静かに空を見上げる。
晴れ渡る空、遠くに鰯雲。秋の気配が漂っている。夏の終わり。季節の終わり。不幸なる叔母の恋の終わり。そしてその苦悩に満ちた人生の終わり。
それにふさわしい、穏やかな日であった。
彼は、身を正し、深く
「……感謝する」
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