第114話 恥じらいの朝

 ゆっくりとまぶたを開く。


 ぼんやりとかすみがかった視界の中で、肌色の球体が二重にブレながら揺れていた。意識がはっきりとしていくのにつれて、次第にそれは女の顔へと像を結んでいく。切れ長な潤んだ瞳、長いまつげ、少し乱れた赤い髪。目を覚ませば、鼻先が触れ合うほど近くに、グレナダの顔があった。


「……起きたのだな」


 そうささやいて、彼女は軽くついばむように、イルの唇へと自らの唇を寄せる。身体の上に感じる確かな重みと素肌の体温。彼女はイルの肩に頭を預け、微かに微笑んだ。


「起きてたのか……」


「ああ、旦那さまの寝顔を見ていたのだ。存外、かわいいものだな」


「……やめろってば」


 よだれが垂れてやしないかと、イルは思わず口元をこする。そんな彼の慌てようにグレナダはくすくすと笑った。


 見回せば、木の板を張り合わせただけの粗末な壁、その隙間から陽の光が差し込んでいる。どうやらもう朝が来たらしい。雨音はせず、小鳥のさえずりが時折、『ちちち』と響いていた。


 昨日は、森の中にドレスデン子爵の遺体を埋めて簡単な墓を造り、二人はそのまま森の中に見つけた猟師小屋で一夜を明かした。


 どれだけ長い間雨の中で抱き合っていたのだろうか。厚く垂れこめる雨雲は昼と夜の境を曖昧なものとして、時間の感覚はおぼろげ。手折った小枝と因果を入れ換えてグレナダの手枷を叩き壊し、この小屋に辿り着いた頃には、厚い雲の切れ間に時折、星明かりが顔を覗かせていた。


 雨に濡れた身体は冷たく、暖をとるものといえば互いの身以外には何もない。いや、そんなものは言い訳に過ぎない。二人は、引き離されれば死んでしまうとでもいうように強く身をいだきあい、感情の激するままに互いを求めあった。


 今まで感じたことのないような愛おしさが波のように押し寄せ、どれだけ強く抱きしめても満たされない。どうして自分たちは一つの身体ではないのかと、そんなどうしようもない渇きが、激しく二人の身体を揺さぶった。


 朝を迎えて冷静になってしまえば、なんともむず痒い恥ずかしさが押し寄せてくる。猟師小屋に残されていたボロボロの毛布と寝藁ねわらの間、そこで触れ合う彼女の素肌、その温もりの生々しさに、イルの頬はどうしようもなく熱を持つ。


 すぐ近くで目にしてもグレナダはやはり綺麗だ。その美貌と地位を思えば、このボロボロの小屋と相手がこんな男だということがあまりにも不相応で、心苦しく思えてくる。


「なあ、後悔してねぇか?」


 イルのそんな一言にグレナダは不愉快げに唇を尖らせると、彼の鼻をぎゅっと指先で摘まんでじり上げた。


「いてててて……お、おい! 何すんだよ!」


「何をするではない! それが初めて妻を抱いた男のいう科白せりふか? 馬鹿者が。目覚めたらまず『愛している』。それから『世界で一番綺麗だ』と、そうささやくのが、円満な夫婦関係のコツだと聞くぞ!」


「誰だよ、そんなこと言ったヤツは……」


「ふむ、リムリム殿だったかな」


「乙女かよ……」


 実際、ああ見えて、リムリムの思考はかなり乙女チックなのだ。


 グレナダは苦笑しながら手を放すと、再び彼の胸に頬を寄せて静かにささやく。


「後悔してないかと言われても、身も心もお前のものにされてしまったことが、自分でも不思議なぐらいに嬉しいのだ。後悔など入り込む余地もない。それに……昨夜、お前が全てを話してくれたことが何より誇らしい。そう思っている」


 昨晩、イルは全てを話した。


 自分の身の上については、この国に流れてくる以前のことは、自分でも曖昧な記憶しかないこと。衛士のガスパーに拾われて養子として迎え入れて貰えたこと。それがすごく嬉しかったこと。ガスパーを殺したこと。おやっさんを殺したこと。自分の身に宿った呪いのこと。恐らく、グレナダの父の死もこの呪いが元凶であることも。そして、いつかはグレナダのことすら殺してしまうであろうことも……。


 彼女は相槌も打たずに静かにそれを聞き、そして全て聞いた上で、こう言ったのだ。


」と。


 思わず唖然とするイルを見つめ、彼女は更に言葉をつむいだ。


「父上を殺したのはお前ではないということだな。その呪いなのだな。ならば、私は何一つ迷うことなくお前を愛することが出来る。そして、私はお前を殺すことが出来なかった。お前も私を殺せなかった。つまり、私たちはその呪いとやらに打ち勝ったのだ。私たちの愛は、その呪いに打ち勝ったのだ」と。


 これを聞いて、イルは感動した……とでも言えば話としては美しいのだろうが、実際のところはというと、ただ呆れた。どんだけポジティブなんだお前は、と。


 呪いを退けたという訳ではなく、いうなれば据え置きになっただけ。いつまた牙を剥くか分かったものではない。グレナダの主張する愛というヤツは、頼りにするには余りにもおぼろげで曖昧に過ぎる。グレナダのことを愛していないのかと言われれば、たぶん愛しているのだと思う。それだけに、彼女を危険に晒すことを分かっていながら抱いてしまったのは、イルの心の弱さとしか言いようがない。


 グレナダは黙り込んでしまったイルを上目遣いに見上げながら、こう呟いた。


「なあ、旦那さま、姫殿下の愛した男というのは、父上のことなのだろうか?」


「たぶん……な」


 身分違いの恋をした。二人で国を捨てる約束までした。でもどうにもできなかった。


 子爵はそう言っていた。


 裏切りたくは無かったのだろう。でもどうにもできなかったのだ。姫殿下は子爵のそんな思いを知っているのだろうか? それを知ってもまだ、一族を根絶やしにしなければ気が済まないほどに、彼を恨むのだろうか?


 グレナダは静かに目を瞑ると、誰にいうでもなくこう呟いた。


「私は姫殿下を責めることなど出来そうにない。……愛する者の側にいる喜びを知ってしまってはな」



 ◇ ◇ ◇



 同じ頃――


「お前が星を観る者スターゲイザーか?」


 アラミス公は、少し戸惑うような口調でそう言った。


 銀猫に連れられてやってきたのは、黒いローブを羽織った少女。頭からすっぽりと黒いフードを被り、顔をベールで覆い隠した小柄な少女である。


 とは言っても、クリカラが『彼女』と言っていたから、少女だと思っているだけで、実際のところは良く分からない。見たままに表現すれば、ただの黒い布の塊である。


 彼女はアラミス公の戸惑いをよそに、コクリと小さく頷く。実に素っ気ない態度ではあるが、暗殺者とその依頼人という関係でしかないのだ。なにも打ち解ける必要がある訳ではない。むしろ一国の大貴族と暗殺者という立場を思えば、健全とさえ言える。


「彼女の眼だけ、は、見ないようにしてくださ、い。死にます、から」


 銀猫がそう念押しして、アラミス公は緊張の面持ちで頷く。目を見ただけで死ぬと言われれば、流石に心穏やかではいられない。


 叔母――ヴェルヌイユ姫がいるはずのメルヴィル湖畔、俗に夏の離宮と呼ばれる場所までは、約二日の行程である。馬車の座席には余裕があるのだ。普通なら同乗しても構わないのだが、うっかり彼女の瞳を目にすることにでもなれば、目も当てられない。そこで今回は彼女用に別途、一両、別に馬車を用意させた。


 今回は他にも同行者がいる。ミラボー伯爵を始めとする、彼と敵対する派閥の貴族たちである。普通なら絶対に共に行動するはずの無い相手。互いに表立って敵意を見せる訳ではないとはいえ、これもまた穏やかな気持ちではいられない一因である。


 だが、これは必要なことなのだ。彼らにもヴェルヌイユ姫が生きていることをしかと見届けて貰わねば、後から狂言だのなんだのと、言いがかりをつけられかねない。


 とはいえ、互いに騎士たちを同行させて警戒しあう寒々しい関係ではある。だから、念のためクリカラにもう一人暗殺者をつけてもらえないかと頼んだのだ。一度会ってしまったのだからもう同じことだと、ジゼルを護衛に付けて欲しいと依頼したのだが……すげなく断られてしまった。


「あの貴族からの依頼はもう回さないで欲しいと、彼女に強く、そう言われておりますので」


 実は今、彼の心を穏やかでないものにしている一番の原因は、『星を観る者スターゲイザー』でもなければ、『敵対する貴族たち』でもなく、この一言であった。

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