第112話 重なる二つの影

 グレナダは思わず息を呑む。


 覆い被さってくるイルの姿。その必死の表情を目にした途端、世界から音という音が消え去った。時の流れが遅くなって、雨粒の一滴一滴が粘つくように宙空にとどまって見える。彼の唇が『グレナダ』と、そう動くのが見えた。ダメだ! やめろ! やめてくれ! 胸の内で必死にそう叫ぼうとも声は出ず、意識だけが身体の外へと飛び出してしまったかのように、指先一つ動いてくれない。


 そんな彼女の目の前で、父親の振り下ろした大剣が、ズブズブと彼の肩口にめり込んでいく。肉を切り裂き、骨を砕いて、刀身がゆっくりと彼の胸元まで食い込んでいく。


 いやぁぁあ――――――!!


 彼女は絶叫した。いや、絶叫したのだと思う。だが、もはや自分が何を叫んでいるのかすら、分からない。そんな彼女の上へと、力なく彼の身体が覆い被さってくる。し掛かってくる確かな重み、伝わってくる暖かな体温。彼女は必死でその身体を抱き止めた。


 だが、次の瞬間、彼の、その肩越しに見えた光景に、彼女は戦慄した。色を失った彼女の唇の間から「あ、あぁ……」と、吐息の洩れるがままに声が零れ落ちた。


 降りしきる雨粒に、赤い雫が混じって落ちる。彼の肩越し、その向こう側。そこにあったのは左肩から袈裟懸けに身を切り裂かれ、激しく血を噴き出す父親の姿。見開かれた父親の、その目は、呆然と宙空を見つめ、驚愕の表情のままに唇が虚しく動く。その手から滑り落ちた大剣が、ガランと重い音を立てて地を打った。


「父上ぇええぇぇえええぇぇ―――――!!」


 彼女自身の絶叫が耳を切り裂いて、世界に音が戻ってくる。グレナダは、我を忘れて必死に手を伸ばした。


(何だ!? 何だこれは? いや……これはあの時と同じ。そうだ、あの時と同じだ)


 暗殺者の襲撃を受けて、イルに救われたあの時と同じ。何が起こっているのかはやはり分からないが、彼女はもう知っている。知ってしまっている。どんな結果が待ち受けているのかを。


「……すまねぇ」


 耳元に、彼のそんな囁きが聞こえた。途端に、彼女の視界の中で、ぐらりと父親の身体が揺らぐ。グレナダは思わずイルの身体を跳ねのけた。


「父上っ!」


 だが、伸ばした手は届かない。


 父親はそのまま真後ろに倒れこみ、どさりと鈍い音が雨音に混じる。彼女は必死に泥を掻いて、父の傍へと這い寄った。水たまりの中に広がっていく赤い色。泥の中へと父親の命が拡散していく感触が、彼女の正気をむしばんでいく。


「あ、あぁあぁ……い、いやだ、や、やだ、ああああァ!」 


 彼女は、もはや自分でも何をしているのか判らなくなっていた。ただ、父の身体から流れ出る血をとめようと、必死に両手で傷を押さえつける。掌は赤く染まり、指の間から赤い血が零れ落ちた。


「父上、父上ぇ…………」


 声が潤み始めて、言葉尻が弱弱しく消えていく。だが、次の瞬間、父親の震える手が彼女の頬を撫でた。思わず目を見開いた彼女に、彼はどういう訳か弱弱しいながらも満足そうな表情で一つ頷いた。そして次の瞬間、力なく垂れ落ちた彼の手が地面を打って、命の燃え尽きる音がした。


「おお、あ、あ、あ、あぁおおおおおおァああ!」


 断末魔の獣のような呻き声を上げて、彼女は父の身体を必死に揺する。


 戦場で幾多の死を見て来たのだ。彼女に、これがどんな状況なのかが理解できない訳はない。もはや手の尽くしようのないことだって分かっている。ただ頭がそれを受け入れることを拒否しているのだ。


「ちちうえぇ、父上、目を、目を開けてくれ、お願いだ、お願いだからぁああああ!」


 どれだけ呼んでも、揺らしても、もはや彼が返事をすることはない。




 父親の冷たい身体に取りすがって声を上げるグレナダ。イルはそんな彼女をぼんやりと見ていた。取り乱す彼女の姿を、感情の無い瞳でただ見ていた。


 彼女が取り乱すのは当然。イルはそう思う。だが、彼自身はというと、胸の奥に形のはっきりとしない嫌な感触がわだかまっているだけ。三人の父親を殺し、今、四人目を手に掛けたというのに麻痺してしまったかのように、感情がはっきりとした形をとってくれないのだ。


 自分は、どこか大切な部分が壊れてしまっている。イルはそう思った。


 しばらくすると、グレナダがゆらりと立ち上がり、泥の中に転がっていた父の大剣を拾い上げるのが見えた。


「どうして……お前は……」


 締め上げられたかのような擦れた声、髪の先から滴り落ちる雫の向こうに、俯いたまま立ちつくす彼女の姿が見えた。どうして、そう問われても、イルに言える言葉は一つしかない。


「……すまねぇ」


 だが、彼の言葉、その響きが消え去るより前にグレナダが獣のように吠えた。


「誰が助けてくれと言った! 誰が父上を殺してくれと頼んだ! 誰が……誰、がっ!」


 ギリギリと歯を食いしばる彼女の頬を滴り落ちるのは雨か、涙か。彼女は剣を手にゆらりとイルの方へと歩み寄ってくる。そんな彼女の姿を見上げて、イルは思った。



 ――やはり、こうなった、と。



 後悔はしていない。覚悟は出来ている。彼がその身に宿した呪いは、生易しいものではない。彼女と想いを通じ合わせることが出来た。そう思えた途端に、この呪いは全てを奪い取りにきたのだ。まさに『最悪』の名にふさわしい悪辣さである。


 だが、イルは決めた。


 決して、この女を殺させはしない。


 そう決めたのだ。


 その時点で彼は諦めた。


 一度諦めてしまうと、むしろここまで生きながらえてきたことの方が不思議に思えた。もっと早くに諦めているべきだったのかもしれない。そうすれば良かったのだ。自分は一体、何を怖がって生にしがみついてきたのか、と。


 全力で抑え込めば、受動的発動パッシブの発動を抑え込める。


 そうすれば彼は死んで、彼女は生き残る。それで良い。それで良いのだ。それでも良いと思えるほどに、彼は彼女に生きていて欲しいと、強くそう願ってしまったのだ。


 これが世に言う『愛』というものなのかは分からない。そんな思いを抱いたことはないのだ。違うかもしれない。いや、違うだろう。もっと自分勝手で一方的な……いうなれば、只のわがままだ。彼女が望んだことではないのだから。


 イルは小さく苦笑して、先ほどグレナダがそうしたように、こうべを垂れて、静かに首筋を晒した。


 痛いのは苦手なのだ。出来れば、痛みを感じる暇もないように、一撃で仕留めてくれればありがたい。グレナダの腕なら、きっとそれぐらいは訳も無いだろう。


 頭上で剣を振りかぶる風斬り音が聞こえてきた。やっと終わる。これで終わるのだ。悪くない、と思う。納得して死ねるのだ。悪かろうはずがない。


 イルは従容とその瞬間を待ち受ける。


 だが、一向に剣が振り下ろされる気配がない。


 イルが静かに顔を上げると、剣を振り上げたまま、グレナダは顔をぐちゃぐちゃにして泣きじゃくっていた。美人が台無しだと、イルは思わず口元を緩める。だがその途端、彼女の手から滑り落ちた大剣が地面を叩いて、彼女はその場にぺたんと座り込んでしまった。


「う、ううっ、うぇええええええええ」


「……泣くんじゃねぇよ」


 大声を上げて泣きじゃくる彼女に、イルが呆れ混じりにそう呟いた途端、彼女は彼に縋りつき、そのままその頭を胸元に抱き寄せた。それは溢れる感情を持て余したかのような乱暴な挙動。呼吸もままならないほどに、強く抱きしめられて身をよじる彼の耳元で、グレナダは呻くようにこう囁いた。


「旦那さま、私はおかしくなってしまった。おかしくなってしまったのだ。父上を殺した憎い男が……。旦那さまが……。死なずに生きていることが、うれしくて、でも、かなしくて、そんなお前が憎くて……そんな自分が憎くて、旦那さま、私は、おかしくなってしまった。おかしくなってしまった……」


 夜の闇を怖がる子供のように身を震わせながら、彼女はイルを抱きしめる。


 しばらくして、イルは静かに顔を上げると、彼女の目を見つめ、そして静かにこう囁いた。


「俺は……俺はただ、おまえに生きていて欲しいんだ」


 そして彼は、彼女の唇を自らの唇で塞ぐ。


 激しく降りしきる雨の中。抱き合う二人の影が重なりあって、一つになった。

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