第75話 約束は守られない。前編

 テルノワール領内。王都へと続く街道を見下ろしてそびえ立つキルフェ城砦。それを包囲するミラベル・ゴア・フロインベールの三国連合軍の宿営地でのことである。


 日中、延々と繰り広げられた戦闘も今は収まり、大地に流れた血を写し取ったかのような夕暮れが暗闇の中に溶け切って、下弦の月が空へと昇る頃、フロインベール軍のひと際大きな指揮官用の天幕テントの内側で、女の甲高い怒声が響き渡った。


「えぇい! 忌々いまいましい! あやつら、私が女だと思ってあなどりおって!」


「落ち着けってば。俺にしてみりゃ、むしろありがてぇことだと思うんだがなぁ。なにせ戦わなくて良いってんだから」


 秀麗な面貌に、やる方無い怒りをにじませるグレナダを、イルがいつも通りのやる気の欠片もない態度でなだめる。


 三国連合軍は今、テルノワールの王都を目指して複数の経路から北へと進軍を続けている。そのうちの一軍の進路である街道近くの丘の上に、テルノワール軍の城砦が存在した。それがキルフェ城砦である。


 このキルフェ城砦は街道をふさいでいる訳では無いが、放置して進軍すれば、後方を脅かされるのは自明のこと。故に各国はそれぞれの軍勢から兵を割き、別働隊を組織してこれを攻略することとなった。


 フロインベールの別動部隊二百五十を指揮するのは、東門衛士団長のグレナダである。部隊長と言えば聞こえは良いが、現実としてはていの良い厄介払いであった。彼女は今でこそ衛士団の団長などという賤職せんしょくではあるが、少し前までは近衛騎士。それも最強と呼ばれた女傑なのだ。


 現在、フロインベール軍の総司令を務めている正騎士スロワーズなど足元にも及ばぬような地位にいた人間である。そりゃあ、やりにくいに決まっている。それが分かっているからこそ、グレナダも文句の一つも言わずに、こんな役回りを引き受けたのだが、ミラベル、ゴアの兵士たちにしてみれば、そんなのは知ったことではない。

 

 今日の戦闘で、キルフェの砦は既に陥落寸前。故に明日の城砦攻めは手柄の取り合いとなるのは必然。だが、この戦役への参戦を最後に決めたフロインベールの立場は非常に弱い。明日の城砦攻めにおいて、グレナダ率いるフロインベールの別働部隊は、有無を言わさず最後尾にて後方支援を振り分けられたのだ。言うなれば、『手柄を立てるのを、指を咥えて見ていろ』ということ。実質、戦力外通告である。


「くそっ!」


 グレナダは脱ぎ散らかした甲冑、その兜を蹴り上げて、緊張感の欠片もない顔つきで敷き布の上に胡坐あぐらをかく、イルを見下ろした。


「むぅぅ……私がこんなに苦労しているというのに、旦那さまはお気楽だな」


「…………そんなこたぁねぇよ」


 事実である。気楽ではない。胸の内は波風立ちまくりである。グレナダとは全く違う方向で、彼は彼なりに色々と必死なのだ。


 軍用の色気の無いモノとはいえ、目の前の彼女が身に着けているのは薄い短衣チュニックと、やたらローライズ気味な短袴ショートパンツだけ。甲冑に隠れて分からなかった、実に女性らしい曲線に、知らず知らずのうちに目が吸い寄せられる。あまつさえ、夫婦だということで、二人で一つの天幕、一つの毛布で身を寄せ合って眠ることを強いられているのだ。イルだって木石ではない。戦地であることを自分自身に何度も言い聞かせ、ここまで数週間あまりも手を出さずにえられているのは、奇跡だと言ってもいい。


 しかも、グレナダ自身はあまりにも無防備なのだ。流石は貴族のお嬢様といったところだろうか。結婚の式典を終えるまではは、絶対にしないと宣言したイルの言葉をまっすぐに信じ切っている。


 この状況が、イルにどれだけの忍耐を強いていることか。


 そんなイルの胸のうちも知らず、グレナダは「むぅ」と不満げに頬を膨らませると、イルの膝を枕にして、ごろりと寝転がった。


「……疲れた」


「重い」


「うるさい。疲れたと言っているのだ。すこしぐらい労わってくれても良いだろうに」


「へい、へい、お疲れさん」


「そうだ。私はお疲れなのだ。その……もっと労われ、労わるのだ、旦那さま」


「またかよ」


「うるさい、愛する妻が疲れたと言っておるのだぞ。お前には婿として、為すべきことがあるだろう!」


「へいへい……」


 イルは肩を竦めて、グレナダの頭へと手を伸ばす。サラサラの赤毛。形の良い頭。その感触を指先で感じながら、ねぎらうようにその頭を優しく撫でまわす。途端に「ふわぁ……」と、小さな声が彼女の形の良い唇から漏れ出した。


 彼女の顔を覗き込むと、幸せそうに目を閉じたまま、口元をむにむにと動かしている。


 共に過ごすようになって分かったのだが、グレナダは二人きりになると、いつもこんな感じ。勇ましい外面そとづらからは想像もつかない、甘えん坊さんなのだ。普段からそうしていれば良いのに、そうすれば、男たちは彼女の事をちやほやするに違いないのにと、そう思うのだが、他の男にこんな彼女の表情を見られるのは、なんとなくイヤだとも思う。独占欲めいたその思いに、イルは思わず苦笑する。そんな思いを抱くことの無意味さに、自分でも呆れるしかない。


 今のところ、まるでママごとのような夫婦生活ではあるが、頭を撫でる程度で済んでいるうちは本当にありがたい。子供を作れとでも迫られたところで、それはイルにしてみれば殺さねばならない相手を増やすことに他ならないのだから。


 口に出す訳にはいかないが、イルは既に心を決めている。あとはそのタイミングを待つだけ。申し訳ないとは思うが、それしかないのだ。


「……なあ、旦那さま」


 グレナダが、とろんと眠たげな目をイルに向ける。


「ん? なんだよ」


「そういえば、父上とはどんな話をしたのだ?」


 唐突なその問いかけに、イルは思わずグレナダの髪に伸ばしていた指の動きを止める。


「そりゃあ……言えねぇ。男同士の……その、約束だからな」


「むぅ……お前まで、女扱いするのか」


「ばーか、嫁扱いだ」


「……そうか、ならば良い」


 守れるはずのない約束なのだ。言える訳が無い。歯切れの悪い言葉を紡ぎながら、イルは、戦地へと赴く前に訪れたグレナダの実家での出来事を思い出していた。



 ◇ ◇ ◇



「父上に挨拶してもらおうか」


 グレナダがそんなことを言い出したのは、イルたちが子爵家別邸に移った二日後、休暇の前日のことである。


 衛士団員は交代で休暇を取るのだが、イルの休暇は今や全て、グレナダと同じ日に設定されている。無論休むこと自体は大歓迎なのだが、「父親に挨拶しにいくぞ」と言われると、その気の重さは絶望的としか言いようが無い。


 なんとか先延ばしに出来ないものかと言葉を重ねてみるも、「別に取って食われはせん」とグレナダは全く取り合ってくれない。ただでさえ、夜はニーシャとグレナダに左右からしがみつかれて、真面に眠ることもままならぬというのに、翌日早朝、陽が昇る前にたたき起こされて、無理やり馬車に載せられ、屋敷を出発することになった。


 馬車は王都を離れ、田舎道をのんびり南へ。途中、野辺で弁当を広げ、グレナダの膝を枕に食休み。イルが望んだ訳ではないのだが、「ふ、夫婦なのだからな」と顔を真っ赤にしながら、グレナダがイルの頭を抑え込んだというのが真相である。どうにも彼女には夫婦というものに対して、過剰な思い込みというか、憧れというか、何かしらそういうものがあるように思えた。


 そこから更に六刻ほども馬車で走って、陽も傾き始めた頃、


「うむ、我が領地に入ったぞ、あと半刻ほどもすれば屋敷に着く。どうだ、疲れたか?」


「いんや、俺ゃあ、寝てただけだからな」


 実際、馬車を走らせているのは、子爵家から派遣されてきたブレインという名の老齢の執事である。寝不足ということもあるが、イルはグレナダにもたれ掛かって、ひたすら寝ていただけなのだ。


「やけに大人しいではないか。お前はもっと嫌がるものだと思っていたのだがな」


「嫌がったら勘弁してくれるって訳でもねぇんだろ?」


「無論だ」


 夕暮れ時、赤光の中で緑の草が風に波打っている。地平線まで続く牧草地の向こう側に大きな屋敷が見えた。どうやらあれがグレナダの実家、子爵家の本邸らしい。


「すげえ辺鄙へんぴなところにあるんだな」


「そう見えるか? まあそうかもしれんな。だが、この周囲の牧場は我が家が直々に営んでいるのだ。ここから屋敷を越えて、更に南に二刻ほど走れば少し大きな町に出るのだが、領民の多くはそこに住んでおる」


「うぇ!? ちょ、ちょっと待て、じゃあこの周りの見渡す限りの土地は……」


「うむ、我が家の物だ。将来的には、兄弟たちと分け合うことにもなるのだろうが、大半は本妻との一人娘である私と、その婿であるお前の物になるはずだ」


「マジかよ……」


 事前に連絡が行っていたのか、屋敷に辿り着くと、玄関の前には多くのメイドたちがずらりと並んでいる。その中央には一組の壮年の男女の姿がある。恐らくあれがグレナダの両親なのだろう。


 二人とも四十代後半ぐらいだろうか。


 父親の方はがっちりとした大柄な体格。どちらかといえば蛮族と紹介された方がしっくりくるような、四角く男臭い顔立ちの、貴族というには雄々し過ぎる野性的な男性である。


 一方奥方の方は、多少年齢を感じさせるものの、目じりに優しげなしわの浮かぶ上品な美しい女性であった。どうやらグレナダは奥方似らしい、見た目は。


「父上、母上、ただいま戻りました」


「うむ、待ちわびたぞ!」


「こちらが私の伴侶、イルでございます」


 イルの方へと目を向けた途端、父親はわずかに眉をひそめる。


「うむ、まあ……事前に聞いていた通りではあるが……やはり、いささか頼りないな」


「アナタ、失礼ですよ」


 父親の反応は当然だろう。誰がどう見たって釣り合う相手ではないのだ。イルは苦笑しながら、グレナダの両親へと言葉を返す。


「いえいえ、奥方さま、子爵さまの仰る通りで。失礼でもなんでもありませんから。実際、俺ってヤツぁ、ほんと頼りないんですよね。今からでも遅くありませんし、子爵さま、どうかお嬢さんに『目を覚ませ! こんなヤツとの婚姻などワシの目の黒いうちは絶対に許さんぞ!』とか、なんとか言ってやってください」


「な! 貴様! この期に及んでまだ、そんなことを!」


 途端にグレナダが声を上げ、奥方はぽかんとした顔をして首を傾げる。だが、その途端、父親の大きな笑い声が響き渡った。


「うわはははははははっ! おもしろい! 我が娘よ、まさにお前の申しておった通りの男だな。庶民から貴族になれるというのに、欲が無いにも程があるわ。こいつは大物に化けるやもしれん。見てくれはどうしようもないが、それもまた良し。見てくれに左右されずに婿を選んだ、我が娘の確かな目が誇らしいぞ!」


「アナタ、見てくれはどうしようも無いって……先ほどよりも、もっと失礼なことを仰ってますよ」


 奥方が呆れまじりに、そうたしなめると、グレナダが大きく頷いて声を上げる。


「そうです、父上! イルは、その、見た目もそんなに悪いわけでは……。あの、よ、よく見れば、その、結構……いや、その、見慣れれば割と、その……わ、私はこ、好ましいと……」


 話の途中からしどろもどろになったかと思うと、最後には顔を真っ赤にしてうつむいてしまった娘の姿に、両親は一瞬ぽかんとした表情になる。だが、そのすぐ後に、イルの目に映ったのは、二人がなにか微笑ましいものでも見たかのような顔をして、笑いあう姿であった。

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