第76話 約束は守られない。後編

「うわはははははははっ!」


「ち、父上、なにもそんなに笑わなくとも良いではありませんか!」


 グレナダがぷぅっと頬を膨らませると、父親がにんまりと揶揄からかうような顔をした。


「お前の、そんな年頃の娘のような態度を見れるとは思いもしなかったのでな」


「年頃の娘ですよ、アナタ」


 イルたちは今、大広間に通されて豪勢な料理の並べられたテーブルを囲んでいる。なんとも騒がしい父娘のやりとり。それをよそにイルは身を縮めて、おずおずと手近な料理へと手を伸ばしている。正直肩身が狭い。場違いな気がする。周りを取り囲むメイドたちの視線が気になって仕方ないのだが、イルの他には、誰もそんなことを気にする素振りも無かった。


 そっと視線を上げて観察してみれば、心底楽しげな父親の笑い顔。そのすぐ隣に寄り添って、口元を手で隠しながら上品に笑う奥方。父親にからかわれてはグレナダが慌てふためいて声を上げている。どうやら家族の仲はすこぶる良好らしい。貴族も庶民もあまり変わりのない、一家団欒と言って良い光景がそこにあった。


(まあ、険悪な食卓に放り込まれるよりはマシだと思うしかねぇな……)


 そう考えた途端、イルの脳裏を姫殿下の寒々しい食卓がよぎる。王族ってのは、貴族ともまた違うということなのだろう。あの陰険兄貴はちゃんと約束を守ってくれたのだろうか。


「しかし、見れば見るほどに、婿殿は頼りないな」


「アナタ、また……失礼ですわよ」


 話の矛先が、唐突に自分の方へと向いたことに気付いて、イルは思わず身を跳ねさせる。


「何が失礼なものか。娘の婿ともなれば、これから先は我が息子となるのだ。言うべきことは言うとも。まあ少々頼りなくとも問題ない。ワシがみっちり鍛えてやれば、たとえ赤子であろうとも、ひと月もあれば素手で熊をくびり殺せるぐらいにはなる。どうだ婿殿? ひと月ぐらいはこちらに居れるのだろう? なんなら衛士団の方には、長期の休暇をとれるようにワシから口添えしてやろう」


「え……あ、いや、その」


 グレナダのしごきを思い出し、恐らくは、それ以上であろう父親のしごきを想像して、イルは思わず頬を引き攣らせる。そんな彼を見かねた訳ではないのだろうが、グレナダが口を挟んだ。


「父上、我々は数日のうちには戦地に向かわねばなりませぬ、ゆえに明日には王都に戻らねばならぬのです」


「むう……そうか。そうであったな。ならば、戦地から戻ってからの楽しみにとっておくとしよう。王家への忠誠を尽くし、その身を粉にして働いてくるがいい」


「無論でございます。忠誠無比と音に聞こえしドレスデン家の娘として、その婿として、恥ずかしくない働きをして参りますとも」


 忠誠無比とは大げさなようにも思えるが、それこそがドレスデン家の誇りなのだそうだ。ここへ至るまでの馬車の中、グレナダに聞いた話では、この父親はなんと、先代の近衛騎士団長らしい。未だ四十代後半、剣の腕が衰えた訳でもなく、グレナダですら未だに一対一で剣を交えれば子供のようにあしらわれるほどだというのだから、とんでもない強さである。引退するには若すぎるように思えるのだが、彼はグレナダが近衛騎士団への入団が決まったのと同時に身を引いたらしい。


 曰く、自分がいては親の七光りだと、娘がそしられるかもしれない。才能ある娘の将来、自身がその障壁になるのは本意ではないと、あっさり引退したのだそうだ。もしかしたら結構な親バカなのかもしれない。


 彼の後がまにはキングストンという、王家への忠誠心の厚い人物が据えられる予定だったのだが、最後の最後になってそれがひっくり返る。王家の一部からサイクスを強く押す声があったのだそうだ。王家からの声となれば、忠誠心の塊のような人柄の彼に選択肢はない。だがその結果、サイクスがあんな事件を起こして、王家に弓を引き、最後には近衛騎士団が解体されることになったのだから、その心中はいかばかりだろうか。


 父親とその娘ばかりが騒がしい夕食の席。父親のほうは娘が婿を連れて帰ってきたのがよほどうれしかったのか、結局、終始大はしゃぎと言ってもよいぐらいのはしゃぎっぷりである。ここへ来る前に聞いていた話では近衛騎士団の解体を知って、ふさぎ込んでいると聞いていたのだが、そんな気配は毛ほどにも感じなかった。


 そして夕食が終わるや否や、父親ははしゃぎっぷりもそのままに、勢い余ったのかとんでもないことを言い出した。


「婿殿、この屋敷はな、風呂が自慢なのだ」


「へぇ……風呂ですか」


 正直、イルたち庶民には『風呂』というのは、余り馴染みが無い。衛士長屋にあるのは共同の水浴び小屋ぐらいのものだ。無論『風呂』がどんなものかを知らない訳ではないし、王都にも浴場というものは存在している。ただし一回の入浴で一週間分の飯代が吹っ飛ぶのだ。今まで入ろうなんて気を起こしたことなど無かった。


「うむ、折角だ、我が娘とともに是非入ってくるといい」


「はいぃ!?」


 グレナダの方を見ると真っ赤になってうつむいている。おい、やめろ。なに覚悟を決めたみたいな顔をしてやがんだよ。


「えーと、僕らは清いお付き合いをさせていただいているので、そ、そういうのはちょっと……。そのそういう色々は、戦地から帰ってきてからにしようって決めてるんで、そ、その方が生きて帰ってこようって気になりますから!」


「なるほど、今時、珍しいほど禁欲的な男だな。婿殿は。うむ、だが男とはそうでなくてはならん。よし! わかった。ならば、今夜はワシと父子の絆を深めることにしようではないか!」


「は?」


 イルがぽかんとした顔をした途端、父親はまばたきするまもなく彼へと歩み寄り、その身体をひょいと小脇に抱え上げた。


「ちょ、ちょま!」


「うはははは! 男同士の裸の付き合いといこうではないか!」


「グ、グレナダ、おい、な、なんとかしてくれ!」


 遠ざかっていくイルの悲鳴じみた声を聴きながら、グレナダは折角決めた覚悟の行き場を持て余して頬を膨らませ、母親は口元に手を当てて上品に笑った。


 ◇ ◇ ◇


 かめを掲げた女神の像から、とめどなく湯が流れ落ちる。白い湯気の立ち込める豪華な浴場。金に縁取られた壁。陶磁の床に大理石の浴槽。その広さは衛士長屋のイルの部屋の数倍ほどもあった。


「どうだ、気持ちが良いだろう!」


「……はあ」


 熱い湯は確かに気持ちが良いが、気は休まらない。気力をガリガリ削られてるような気さえする。すぐ隣へちらりと目を向ければ、上機嫌に鼻歌を歌うグレナダの父親の姿がある。筋骨隆々の肉体。年齢など全く感じさせない。


「あのぉ……子爵さま?」


「なんだ、他人行儀ではないか。お前と私はもう親子なのだぞ」


「は、はあ」


「パパでもダディでも好きなように呼べばよい。おすすめはパピーだ」


「呼べるか! って……す、すみません」


 ついつい素に戻って声を荒げてしまったことに気付いて、イルは身を縮める。


「ははは、構わんよ。むしろそうでなきゃいかん。こちらは、お前の育ちの悪さを知った上で婿に迎えているのだ。いつまでも猫を被られては、気持ちが悪くてかなわんからな」


 育ちの悪さという言われ方には、ちょっと引っかかるものがあるが、イルは観念したとばかりに肩を竦める。


「ああ、もう……。言っときますけど、俺にゃあ、学もなんにも無ぇんで、言葉遣いは相当汚ねぇですからね。後で文句言わないでくださいよ」


「構わんと言っているであろう」


 父親はそう言って大きく頷くと、イルはため息交じりに問いかけた。


「しかし、よく許しましたね。こんな何処の馬の骨とも分からねぇ男に娘をくれてやろうだなんて」


「身分違いの恋ならば、私も通った道だからな」


「そうなんですかい?」


「ああ、二人で国を捨てて逃げる約束までした。だが結局、私はこのドレスデン家を捨てることは出来なかったのだよ。今となっては言い訳もできん。彼女には、いくら詫びても詫びたりんが、もはやどうすることも出来はしない。そういう訳だ。娘の身分違いの恋に、反対する気になど到底なれん」


 グレナダのは恋では無いだろう。只の勘違いでしかないと思うのだが。


「それにだ。お前についていえば、どこの馬の骨ともわからぬ人間という訳ではないのだよ」


「どういう意味です?」


「実は、アラミス公とアストレイア姫殿下から、それぞれにお前を推薦する書簡を頂戴しておる。アラミス公のは随分ひねくれた文面ではあったが、まああのお方の気質は存じておる。なにより驚いたのが、姫殿下がお前のことを高く買っておられることだ。あのお方は確かに幼いが、王者の血なのだろうな。その眼は確かでいらっしゃる。臣下の身としては無下に出来よう筈もあるまい。その上、アラミス公はお前の身の卑しさを拭うために王家筋のサリュート家との養子縁組まで用意してくださるというのだ。正直言って、未だに私の目にはひ弱で惰弱な若造としか見えんが、それはわが目に曇りがあるのだろう」


「いや、たぶん子爵さまの目が一番正確なんじゃねぇですかねぇ」


「ははは、まあいい。正直忠誠心の欠片もなさそうなお前に、あのお二人がなぜこんなに入れ込んでいるのかは分からんが、それはそれでいいのだ」


「はあ」


「私自身は、王家への忠誠を至上のものとしてここまで生きて来たのだし、娘にもそれを叩きこんできた。だがな。笑ってくれて構わないぞ。娘が姫殿下の盾になって死にかけたのだと聞いた時には、正直自分が正しかったのかどうか分からなくなったのだ」


「なにがです?」


「私がその場にいたなら、私も喜んで姫殿下の盾となったことだろう。だが、娘の父として、一人の父親として耐えられない。そう思ったのだ。卑怯でも良い、情けなくとも構わないから、娘に生きていて欲しい。そう思ってしまったのだ」


「なんでぇ……歳ばっかり喰ってる割にゃあ、つまんねぇことに悩むもんだ。そんなの当たり前じゃねぇですか。娘が死んで喜ぶ父親なんているわきゃねぇ」


 相当に無礼な物言いではあるが、父親は気にする様子もなく、ただ小さく肩を竦めた。


「やはりお前は私や娘とは違うのだな。違う価値観の下で生きている。だから、だからこそ頼みたいのだ。娘はこれからも変わらず王家のために身を投げ出そうとすることだろう。そんな娘を、我が娘を、お前の妻を、ずっと守ってやって欲しいのだ」


 そして、彼は水面に鼻先が触れるほどに頭を下げた。


「頼む」


 イルは、ただ眉間に深い皺を寄せた。


 そうやって頭を下げられても、イルは返事の一つも出来ずにいた。それはそうだろう。この時点では既に、彼は心に決めていたのだ。もうすぐ行方をくらますことを。これから向かう戦地で、戦死を装って居なくなってしまおうと、そう心に決めていたのだ。


 だから、この約束は守られない。


 そして、彼の気持ちはここで更に固まった。正直、この武骨な父親は善人だったのだ。自分の父親として殺さねばならない運命は、避けられるものであれば避けたい。そう思ってしまったのだ。



 ◇ ◇ ◇



「……んなさま、おい、旦那さま、どうしたというのだ。手が止まっているぞ」


 はたと我に帰れば、膝を枕に寝転がったまま、グレナダが怪訝そうな顔でイルの方を見上げていた。周りを見回せば戦地の天幕の中、どうやらわずかばかりの時間、物思いにふけってしまっていたようだ。


「あ、ああ、すまねぇ」


「他の女のことを考えていた訳ではあるまいな」


「そうかもな」


「そんな気もないくせに。まあ良い、さあ、もっといたわれ」


「へいへい」


 イルは、グレナダにも情が移りつつあるのを感じている。この女の傍は、意外なことに居心地が良かったのだ。


(戦争、長引かねぇかなぁ……)


 ただの先延ばしでしかないのだが、姿をくらますにしても、もう少し先であって欲しい。それがイルの偽らざる本心であった。

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