第67話 兄妹

 クリカラの屋敷の一室。


 アストレイア姫は、そこで来客用のベッドに横たわるグレナダの手を握りながら、窓の外へと目を向ける。空が白み始めていた。長い一日が終わるより前に、新しい一日が勘違いしてやって来たような、そんな気がした。


「王宮までお送りいたしましょう。姫殿下」


 背後から声がして、彼女は振り返る。そこにいたのは彼女の実兄であるアラミス公トレド。彼はいつも通りの陰気で不機嫌そうな表情のまま、そこにたたずんでいた。


「お兄さま……。でも、グレナダが」


「彼女のことを案ずる必要はございません。私の屋敷で、責任を持って療養させましょう。問題があるとすれば、それは回復した後のことにございます」


「後?」


「ええ、今回のことで近衛騎士団はテルノワールとよしみを結んで、この国を転覆させようとしていたことが判明いたしました。何も知らなかったとはいえ、彼女は近衛騎士団の所属、しかも第三位でございます。全くの無罪という訳にはいかぬでしょう」


 途端に、姫殿下は目を見開いて声を上げる。


「そんなのおかしいです! 彼女はワタクシを守るために、これだけの傷を負ったのですよ!」


「ええ、おかしい。おかしいのです。それが大人の……貴族の世界というものなのです。アナタは正しい。狂っているのはこの世界の方です。ですが、アナタもそのうち慣れます」


「そんなもの……慣れたくありません」


 彼女は目を伏せて呟く。消え入りそうな声が零れ落ちた。


「いいえ、慣れてください。慣れて抗ってください。理不尽だと嘆くだけなら誰にでもできましょう。しかし、それは弱者の権利、王族たるアナタの権利ではありません。理不尽を従え、それを捻じ曲げ、道理を通してこそ、民を救うことができるのです」


「民を救う……?」


 この陰気な兄の口から、そんな言葉が出たことが、彼女にはあまりにも意外に思えた。そして、その問いかけに兄は何も答えない。おそらくこの先も明確な返事を返すことは無いのだろう。


「グレナダ嬢については、命を賭して姫殿下を救った事を陛下に奏上いたします。とはいえ、それで罪一等を減じたとしても、騎士爵の剥奪は免れますまい」


「そう……なのですね」


「ええ、しかしながら、それで良いのです。むしろ何の罰も与えられなければ、他の貴族共に、あらぬ嫌疑をかけられて、人として誰にでもあるような小さな過ちをほじくり返されかねません。陥れることばかりに執心する者はいくらでもおりますゆえ。むしろ問題は、アナタとグレナダ嬢が夜の住人ノクターナルの正体を知ってしまったことです」


「私たちも彼らに狙われると、そう仰っているのですか?」


「無論、そうならぬように話はつけてございます。姫殿下については金で解決してありますし、グレナダ嬢については回復した後、彼らの監視できるところに配属するということで話はついております。いずれも、一切他言しないという前提ではございますが……」


「……私は誰にも申しません」


「ええ、是非そうしてください。彼らはこの国の暗部には違いありませんが、影の無い光はないのです。今でこそ、彼らとのやり取りは私が全て請け負っておりますが、陛下が第三王子であった時代から、王家と彼らは持ちつ持たれつの関係なのですから」


 持ちつ持たれつの関係。


 輝かしい王家。彼女は物心ついた頃から、その呼称に言いようもない薄っぺらさを感じ取っていた。だが、今日この日まで、薄っぺらな覆いに隠されたその下にあるのは、もっと無味乾燥な寂しい風景。例えば、自分の他に誰もいない夕食のテーブルがその良い例だと、そう思っていた。だが、それどころでは無かった。そこにあったのは底のしれない深い闇。覗き込めば引き込まれそうな深い深い闇だ。


 彼女は思わず表情を沈ませる。そしてかすれた声でこう呟いた。


「私には、彼らを受け入れることなど、出来そうにありません」


「かまいません。黙していただければ、それで結構。必要であれば、彼らとは私が折衝いたします」


 彼女には金で人を殺める者を許容することなど、出来そうにない。だがその反面、イルがあの場に居なければ今頃、グレナダの命はなく、彼女自身もどうなっていたか分からないのも事実。それに、あの目の腐った少年のことが、どういう訳かとても気になるのだ。


「イルにも……もうお会いすることは、なくなってしまうのですね」


 彼女がその名を口にした途端、アラミス公はビクリと身体を跳ねさせる。そして苦々しげに顔を歪ませると、どういう訳か、急に臣下としての口調から身内へのものへと、その話し方を改めた。


「あー、その……なんだ……あの目の腐った男だがな。私はあの男が嫌いだ。実に腹立たしい。素直に金を受け取れば良いのに、なんで私が、こんな……」


「どうしたのですか? お兄さま」


「な、なんでもない!」


 どこか慌てたような雰囲気の兄に、アストレイア姫は首を傾げる。兄は何か、とても言い難い事、いや言いたくない事を無理に口にしなければならない。そんな雰囲気を醸し出していた。


「そういえば、お、お前も夕食を食べておらぬのだろう。王宮に帰る前に、その……我が屋敷で夕食……いやもう朝食か。朝食を食べていかないか? 一緒に」


 姫殿下は思わず目を丸くする。


「よろしいん……ですの?」


「も、もちろんだ。それに……お前さえよければ…………だが、週に一度ぐらいは夕食を共にするのもよいかもしれんな」


 姫殿下の表情が、ぱあっと明るく輝いた。


「はい! 是非お願いいたします!」


「う、うむ」


 アラミス公は、ぶっきらぼうに背を向ける。


「その……なんだ。一応、申しておくが、ええっと……勘違いのないように言っておく。私はお前のことを嫌ってなどおらぬから……その、なんだ……」


 明後日の方向を向いてごにょごにょと消え入りそうな声。背を向けていても首まで真っ赤になっているのが分かる。


「お兄さま、ワタクシもお兄さまが大好きです!」


「そ、そうか、はは、ははは……」


 聡明な彼女には分かっている。この偏屈者の兄が誰かに強制されねば、こんなことを口にするはずがないことを。そして、誰がそれを強制したのかを。


 それはきっと、あの濁った眼をした少年。今なら分かる。彼のことが気になっていたのは、そのやる気なさげな瞳の奥に、この不器用な兄の姿を見たから、見た目は全然違うけれど、どこか似ている。そう感じたからなのだと。そして、たとえ彼に強制されたからだとしても、兄のこの言葉に嘘はないのだと。


(ありがとう……イル)


 姫殿下は胸元で手を握り、窓の外、明け行く空を見上げた。

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