第68話 蜘蛛の巣の蝶

「ふわぁあああああぁぁ」


 大通りに、イルの大あくびが響いた。


 朝焼けが東の空を燃やしている。あと数刻ほどもすれば、詰所に顔を出さねばならない時刻ではあるが、イルは言うまでもなくサボる気満々。どうせ、姫殿下もグレナダも詰所に顔を出せるような状況ではないのだ。一緒に行動しているはずなのに、イルだけが顔を出せば、それはそれでややこしいことになる。


 うん、仕方ねぇ、仕方ねぇ。


「とっとと帰って寝るとするか……」


 眠気交じりの緩んだ声。だが、そう口にした途端、イルはハタと気がついた。すっかり忘れていたけれど、二日前に家を出る時には、ニーシャとリムリムが彼を巡って言い争っていたのだ。


 女二人が一人の男を取り合って言い争う状況。羨ましいと思う者もいるだろう。だが、そいつは多分、ガチの修羅場と言うものを味わったことがないだけだ。いつ矛先が自分に向かってくるか分からない、あの居た堪れなさを味わったことが無いだけだ。一旦、矛先が自分の方に向かったが最後、それまで角を突きつけ合っていた女二人が、謎の連帯感を発揮して二人掛かりで責めて来たりするのだ。イルの方から口説いたわけでも、手を出した訳でもないのに、いわゆる色男が払わねばならない負債の部分だけを支払わされるようなものである。腑に落ちないとしか言いようがない。


 流石に二日経った今でも、まだ言い争っているとは思わないが、一体どんな結末を迎えているのかは、想像もつかない。


「うっわぁ……、帰りたくねぇなぁ」


 とはいえ、足取りは鈍るも眠気には勝てず。イルは気が進まないままに、衛士長屋を目指して大通りを下っていく。やがて辿り着いた衛士長屋は、シンと静まり返っていた。それも当然、まだ奥方衆が井戸辺に集まる時刻にも到っていない。


「うう……」


 イルはなんとも弱り切った表情で一つうめくと、恐る恐る玄関扉の把手とってへと手をかける。


 だが、その瞬間――


「ひぃ!?」


 建付けの悪い筈の扉が独りでに開いて、イルは思わず飛び上がった。


「お帰りなさいませ、ご主人さま」


 内側から扉を開いたのはシア。成り行きで彼の奴隷となった少女である。彼女はイルと目が合うと、彼の動揺を気にもかけずにニコリと微笑んだ。


「て、てめぇ、な、なんで……」


「ご主人さまがお帰りになられるような気がしましたので」


「気がしたって……おまえなぁ」


 言動がいちいち怖いのだ。日に日に化け物じみてきているような気がする。最初に出会った頃の少し恥ずかしがり屋だが、優しげな女の子はどこへ行ったのだろう。正直、怖い。繰り返す、マジで怖い。


「ま、まあ、いいや。で、どうなった?」


 皆まで口にする必要はないだろう。無論『どうなった』とは、例の修羅場のことだ。すると、シアはニコリと微笑んだ。


「ご安心ください。お二人については、何も問題のない形に落ち着かせることができました」


「マジか! スゲエなおまえ」


「お褒めにあずかり光栄です。それでもニーシャさまを説得するのは、少し骨が折れましたけれど」


 イルは思わずホッと胸を撫でおろして、安堵のため息交じりに問いかける。


「じゃあ、リムリムのヤツは帰ったんだな?」


 だが、返ってきた答えは――


「いいえ、いらっしゃいます。昨日のうちにお住まいを引き払って、こちらに移り住んでいただきましたので」


「はぁあああああああっ!?」


 これには、イルも流石に目を剥いた。


「お、お、お、おま、それどういうことだよ!?」


 詰め寄ってくるイルに怯みもせずに、シアはただニコニコと微笑む。


「はい、『ご主人さまは正直、クズですので、放っておけばどんどん浮気をしかねませんよ? 目の届かないところで浮気をされるぐらいなら、目の届く範囲に都合の良い女を置いておくことは、許容範囲の負債ではありませんか』と、ニーシャさまをそう説得し、ご納得いただきました。というわけで、今朝から、リム姉さんもこちらにお住まいです」


「おかしい! おかしいと思わないか、それ!? お袋と妹と一緒に暮らしながら女を囲うとか、剛勇すぎるだろ、それ! ア、アイツはエロ女の方は、それで納得してるンかよ!」


「はい、最初は難色を示しておられましたが、お仕事から帰られた時には、何か心境の変化があったみたいで……まあ、正直普通ではありませんが、大丈夫です」


「なにがだよ!」


 声を荒げるイル。シアはその鼻先に指を突きつけて、きっぱりとこう言い放った。


「モテているとでも勘違いされても困りますので、はっきり申し上げておきますが、ニーシャさまもリム姉さんも、別にご主人さまをお好きな訳ではありません」


「お、おぅ……」


「ニーシャさまはただの惰性ですし、リム姉さんは子種だけが目的です」


「露骨すぎる!?」


「事実ですので。むしろ、お二人ともご主人さまはお嫌いです。特にリム姉さんに至っては、目が気持ち悪い。気持ち悪いっていうか嫌い。人としておかしい。あんな腐った眼をした人間は、たぶん路地裏で野垂れ死ぬに決まってる、むしろ死ね。と、そう仰られていました」


「全否定じゃねぇか!」


 どこをどう間違えたら、そこまで嫌いな男の家に転がり込もうなどと思えるのか。そんな男の子を産もうと思えるのか。さっぱり理解できない。


 思わず頭を抱えるイルの目を覗き込んで、シアはニコリと微笑んだ。


「まあ、ご主人さまは、ご不満かもしれませんが……大丈夫です」


「だから……なにが大丈夫だってんだよ」


「お二人とも、


 思わずイルは動きを止めた。


「同じ家に住まえば、もはや家族と言っても良いでしょう。家族ならばご主人さまの呪いで死ぬことになるのですよね? それなら、ニーシャさまにとっても、リム姉さんにとっても、死ぬ前に想いを遂げさせてあげることは、きっと悪いことではありません」


 蜘蛛の巣に掛かって羽を震わせる、二匹の蝶の姿がイルの脳裏を過る。


「て、てめぇ!」


 シアの胸倉へと手を伸ばし、イルは彼女の鼻先に顔を突きつける。だが、彼女にひるむような様子はない。口元に薄笑いを浮かべて、顔の筋肉が微笑みを形作った。だが目は笑っていない。覗き込んだ彼女の目の奥に渦巻く、深い深い闇を目にしてイルは思わず身震いする。彼は思わず胸倉を掴んだ手を放し、一歩二歩と後ずさる。そんなイルを見つめながら、彼女は、小さな子供に言い聞かせるような声でこう囁きかけた。


「最後までお傍にいられるのは、私だけですから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る