第66話 食人鬼(マンイーター) その5

「ほ、本当に、だ、大丈夫なんだよ……な?」


 ディクスンは机の陰から顔を出して、恐る恐る執務室の中を覗き見る。自身の息遣いだけがやけに大きく響き渡っている。痛いほどの静けさ。油が切れかけているのか、カンテラの灯りがチカチカと不気味に明滅していた。


 イル君――団長がそう呼んでいた暗殺者が去って、優に一刻ほども経つというのに、彼は恐ろしくて机の下から出ることさえ出来ずにいたのだ。無論、団長を助け出そうなどとは微塵も思わない。思える訳が無い。


 更にしばらく時間が過ぎて、彼はどうにか震える身体を、え切った心を叱咤しったして、犬のように机の下から這い出し、四つん這いのまま扉の方へと向かう。


 わずかに開いた扉の間から廊下の方を覗き込んでみても、物音ひとつ聞こえてこない。ただ粘つくような深い闇が、そこを満たしていた。


 ゴクリと喉が鳴る。


 このまま朝が来るまで机の下に隠れていた方がいいんじゃないか? でも、今すぐにでも、この場から逃げ出したい。大丈夫、奴らはもう帰ったんだ。俺は生き延びたんだ。


 そんな風に葛藤しながらも、最後には意を決して彼は廊下へと歩み出る。扉のきしむ音、自分の足音、その一つ一つにいちいち怯えながら、彼は蛞蝓なめくじさながらの歩みでエントランスへと向かった。


 一歩一歩が重く息苦しい。この宿舎はこんなに大きかっただろうか。出口はこんなに遠かっただろうか。だろうか、だろうか、だろうか、何もかもが疑わしく、恐ろしい。そんな心持ちのままに、体に纏わりついてくる粘ついた闇を掻き分けながら、廊下をにじり歩き、彼はついにエントランスホールへと足を踏み入れる。


 だが、その途端――


「ぴっ!?」


 あまりにも濃厚な血の匂いに、彼は思わず大声を上げそうになって、慌ただしく自分の口をふさいだ。


 そこにあったのは、余りにも醜悪な光景。カンテラの薄明かりの下、石畳の床に、まるで深紅の絨毯のように挽肉が敷き詰められている。赤黒い肉クズが無造作に広がって、流れ落ちた血が、石畳の隙間に流れ込み、紅い幾何学模様を描き出していた。


 ホールの隅に転がっているのは、ベコベコにへこんだ甲冑の残骸。それを見れば、この挽肉が元々は何者であったのか。考えたくはないが、容易に想像がついた。


 喉の奥から苦いものがせり上がってきて、ディクスンは思わず目を白黒させた。うめき声を押し殺しながら壁に背を押し付けて、逃げ出すように外へと歩み出る。一刻も早くここから逃げ出したい。神経が焼き切れそうな気がした。この先何十年と、この光景を夢に見そうな、そんな予感がある。もう耐えられなかった。


「うわぁあああああ!」


 彼は音を立てるのも構わずに、玄関扉を蹴破って外へと転がり出る。自分が立てた音にもかかわらず、彼はその音の大きさに驚き、「ひっ!」と声を漏らして、その場にうずくまった。


 宿舎の外はシンと静まり返っていた。誰の気配もない。ディクスンは恐る恐る顔を上げて周囲を見回す。やはり誰の姿もない。あの恐ろしい化け物の姿もなければ、あれだけいたはずの同僚たちの姿も無い。ただ、そこかしこに水玉模様を描く、血の痕の他には何も無かった。


 気が付けば、東の方で空が白み始めていて、悪夢の一夜は明けようとしている。早起きな鳥たちのさえずりがチチチと響いて、彼は思わず深い安堵のため息を吐いた。


 生きている! 俺は生きている! 生き残ったんだ!


 同僚たちの仇を討とうなどとは、微塵も考えなかった。もう関わり合いになるのはごめんだ。騎士ディクスンは、ここで死んだのだ。これから、実家に帰って風呂にでも入ったら、すぐにこの国から逃げ出そう。他の国で一からやりなおすぐらいの事は訳もない。この地獄から生還したのだ。何を恐れることがあろうか。


 ああ、俺は生きている! 生きているんだ! 俺は!


 神への感謝を胸に、ディクスンは噴水の脇を通り抜けて、門の方へと向かう。思わず駆け出しそうになる気持ち、湧き上がってくる歓喜を無理に抑えつけて、彼は慎重に歩いていく。


 いつも威張り散らしていたベルモンドも、俺を侮って小突いてばかりだったレチナも、みんな、みんな惨めに死に絶えた。団長はたぶんまだ生きている。でもじきに死ぬ。だが、俺は生きている。こうやって自分の足で立っている。


 門のかんぬきに手をかけた瞬間、思わず歓喜の声が、口を衝いて溢れ出しそうになった。


 もう良いかもしれない。喜んでいいのだ。声を大にして口にして良いのだ。俺は生還したんだと。


 だが、その瞬間――



「あら? 



 少し低めの少女の声が彼の鼓膜を揺らした。聞こえてきたのはすぐ後ろ。背筋が冷たく凍り付いた。


 まるで、鍋の底に残った野菜くずを見つけたかのような物言いである。ささやかな悦びすら含んだ、明るい声音であった。


 ディクスンが、錆びついた歯車のようにぎこちなく振り向けば、すぐ後ろにメイドの姿があった。


 肩までの黒髪に紅い瞳。大人しそうな雰囲気のかわいらしい少女である。だが、彼は知っているのだ。嫌というほど見せつけられたのだ。この少女が、災厄そのものだということを。


 彼は恐怖に目を見開く。身体が強張こわばって、膝から崩れ落ちる。「うそだ……うそだろ」と、かすれた声が、口から零れ落ちるのを拒むように、口蓋こうがいの裏にへばりついた。


 感情のない目。少女の小さな口が、口だけが、赤い赤い下弦の月のように歪んだかと思うと――


「じゃあ、いただきまーす」


 ――彼女の顔の真ん中に黒い線が浮かび上がって、メリメリと音を立てて左右に割れた。

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