第63話 姫殿下の暗殺者 その1

「ひぃいいいいいいいっ!?」


 扉をノックする音が聞こえた途端、ディクスンは濡れた大理石の床に放り出された犬みたいに手足をばたつかせて、この部屋の一番奥、サイクスの執務机の下へと隠れた。


「おい、おい……」


 これには、サイクスも流石に呆れるしかない。


 いくら何でも怯えすぎだろう。これでは近衛騎士どころか、門衛としても使い物にならない。普通なら職を解いて叩き出すところだが、ディクスンも計画の一端を知る者の一人。事が成就するまで、牢にでも繋ぐしかないか。と、思いを巡らせる。


「入りたまえ」


 サイクスが返事をすると、恐る恐るといった調子で扉が開いた。そして、そーっと扉の隙間から顔を覗かせた人物を目にして、サイクスは思わず首を傾げる。


「キミは……?」


「いた、人がいた! いやぁ、やっと見つけましたよ。一体、何が起こってるんです?」


 サイクスの姿を目にした途端、安堵の表情を浮かべて部屋へと入ってくるその人物に、彼はいささか戸惑い気味に声を掛けた。


「イル……くんだったかな?」


「ええ、団長さま。その節はどうも」


「なぜ、君がこんなところにいるのかね?」


「なぜって……。夜間警邏の途中で悲鳴が聞こえてきやしてね。慌てて声の聞こえた方に来てみれば、ここですよ。門は開けっ放しだし、『おーい』なんて呼びかけてみても返事は無ぇし、中を覗いてみても誰もいねぇし。しゃーねぇってなもんで、おっかなびっくり入ってきたってな訳です」


「誰もいない? そんなはずは無いのだがな」


「はあ、そう言われても、実際、誰もいませんでしたし……」


 困ったような顔をして首を傾げる少年に、サイクスは違和感を覚えた。


「そんなおかしな状況の割には、君は随分落ち着いているように見える」


「そうですかねぇ? まあ、そういうのは、母親の腹ん中に忘れてきちまいましたから」


 褒められたとでも思ったのか、照れたような顔をして頭を掻く少年の姿を眺めながら、サイクスはそっと剣へと指を這わせる。


 この少年に怯えはつゆほども感じない。人を食ったような態度は今更だが、それにしてもこの状況で全くの自然体。だが、それが逆に、この少年の異常さを浮き彫りにする。サイクスの目は、決して節穴では無い。


 サイクスは椅子から立ち上がり、剣を引き抜いて、その切っ先を少年の方へと突きつける。だが、それを目にしても尚、イルは眉一つ動かしはしなかった。


「で、本当のところ……何をしにきたのだ?」


 サイクスが殺意を乗せた視線で睨みつけると、イルはただ苦笑した。


「いやはや流石、団長さまってとこですかね」


「答えろ」


「いや、なに、アンタに少しばっかり文句を言ってやろうと思いやしてね」


「文句?」


「ええ、アンタがお姫様を衛士詰所に寄こすような事をやらかしてくれたおかげで、こっちはとんだとばっちりですよ。なんです? あの脳筋女は。毎日、毎っ日、バカみたいにしごきやがって、殺す気かってーの! ありゃあサドですぜ、サド」


「ふっ……グレナダは、融通というものがきかんのでな」


「だから、ってか?」


 イルのその一言に、サイクスがスッと目を細める。


「……そうか、キミは姫殿下とずっと一緒にいたのだったな。今日も一緒にいたという訳か。しかし、よくもカルカタの暗殺者たちから逃げおおせたものだな」


「逃げおおせた? ご冗談、その暗殺者ってのは今頃、列を作って嘆きの川を渡ってらあ」


「ほう」


「グラントベリとか言ったか? そいつが全部吐いたぜ、団長さんよ」


「なるほど……キミが何者かは知らないが、頭はキレるようだな。こちらの襲撃を見越して待ち伏せていたというところか……。さて、どこから人数を集めたか知らんが、大したものではないか」


 実際、グラントベリほどの騎士と暗殺者五人を相手取ろうとすれば、普通の衛士なら百名単位。数の力で圧倒しない限り、勝ち目などない。


 ところが、イルはやれやれとばかりに肩を竦める。


「いんや、俺一人さ」


「ふっ……見栄を張るのも、大概にしてもらいたいものだな」


「まあ、信じないのは勝手だし、アンタが何を企んでいようが、誰をおとしいれようが、正直どうでもいいんだけどよ……」


 ボリボリと頭を掻きながら、イルはサイクスの方へと歩み寄る。


「ただ、アンタのは、ちとやりすぎだ。やりすぎちまったんだよ、アンタは。巻き込んじゃいけねぇものぐらい俺にだって分かる。サド女の方は仕方ねぇ、アイツも騎士だってんなら、いつ死んでもいい程度の覚悟ぐらいは出来てんだろ。だがな、小汚ねぇたくらみにあの姫殿下を巻きこむってのは、さすがにいただけねぇぞ、バカ野郎」


「随分、青臭いことをいうじゃないか。姫殿下に餌付けでもされたか? 野良犬」


「ああ、青臭い。青臭い。自分でもそう思うぜ。野良犬ってのも大体合ってる。だが餌付けされたって訳でもねぇ。アンタをぶっ飛ばしてやりたいってのは、ただの俺の感情の問題さ。だが、まあ別にそんなことで乗り込んで来やしねぇ。これでも一応、世間さま並みの分別ってのはあるんだ」


 芝居がかった調子で天井を仰ぎながら言葉を紡ぐイル。だが、彼は急にサイクスをじっと見据えた。


「ところが、ところがだ! 団長さまよぉ! 都合の良い事にアンタをぶっ殺すのに金を払っても良いってヤツがいたんだ。お蔭でここから先は、只の仕事。農夫が麦を刈り取るみてぇに、庭師が枝を落とすみてぇに、羊飼いが牛を追うみてぇに……俺はアンタを殺す。ただ殺す。そう、境界線は引かれちまったのさ。あんたが殺ろうとしたグレナダと、アンタが利用しようとした姫殿下は境界線のこっち側に残って、残念だが、アンタはもう境界線の向こう側だ」


 じりじりと近づいてくるイルを見据え、サイクスはわずかに後退りながら、その鼻先に剣を突きつける。


さえずるな、若造……言え! お前は一体、何者だ!」


 一瞬の沈黙。息を吸う音がスッと響く。


 そして、イルはニィと口の端を歪めて、こう言い放った。



夜の住人ノクターナル

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