第57話 野良犬少女クレリック その1
騎士団宿舎に、独りの少女が
夜も更けて、道行く人の姿も絶えた裏通り。野良犬の遠吠えが遠く、近く響き渡る薄汚れた路地裏。そこに女が独り、静かに
身体にピタリと張り付くような皮のチューブトップに、股がみの浅い際どい
彼女は暗闇に目を細め、通りの向こうに目を凝らす。
近衛騎士の宿舎から、スレイマンの屋敷へのルートは『銀猫』が既に調査済み。獲物を乗せた馬車は、必ずここを通るはずだ。
「さぁて……みんな! 姉ちゃん、今日もガッポリ稼ぐかんな!」
癖の強い赤毛を掻き上げる『
◇ ◇ ◇
「『
「そう見えますか?」
「恐れなが、ら」
目を伏せて頷く銀猫に、クリカラは静かに微笑む。
思い入れは、確かにある。
「あなたも知っての通り、本来、暗殺者の格付けはS、A、Bの三等級。Cなどという等級はありません。彼女にはなんの呪いも宿っていませんからね……便宜上、そう呼んでいるだけです」
「じゃあ、どうし、て……」
「彼女を使うのかって?」
「……そうで、す。『
「そうですね……」
クリカラは静かに目を閉じると、慎重に言葉を選ぶ。言葉にしてしまえば、あの時、彼女が抱いた思いから、どうしても少しズレてしまう。それでも強いて言うのなら――
「……希望でしょうか」
「希望?」
銀猫は、ガラス玉のような目を
――やはり伝わらない。
クリカラはわずかに苦笑しながら、古い記憶へと意識の指先を伸ばす。多少なりともあの時、自分の胸に宿った想いを伝えようと思えば、始まりから話すしかないのだと。
「少し昔話をしましょうか。今のあの娘は二代目。先代の『
「あの
「彼は彼なりに、何か考えがあっての事だとは思いますけれど……ですが、今から十年前、彼は亡くなってしまったのです」
「もしかして、失敗……したのです、か?」
「ええ、そう。ですが、それは暗殺者の世界では良くある事。死んだ者の事を、わざわざ振り返らないというのは、この世界の鉄則です。私も、彼のことなど翌朝の朝食時には、すっかり意識の外へと追いやってしまっていました。もちろん、彼が面倒を見ていた子供の事など考えもしません」
銀猫も、それは当然だとばかりに頷く。
「ですが……二ヵ月ほど経ったある日、みすぼらしく汚れた子供がここに押しかけて来たのです。七歳の女の子でした。もつれた赤毛に泥まみれの足下、骨と皮ばかりで目だけがギラギラしていて、野良犬のようだと思ったのを覚えています」
クリカラは記憶を手繰り寄せる。
「全く見覚えのない浮浪児でした。さっさと追い払おうとしたのですが、彼女は私をそのギラギラとした目で見据えて、こう言ったのです『神父さまが暗殺者だったのを知っている。私の話を聞いて! じゃないと、今すぐ衛士詰所に駆け込むから!』、と」
「それはまた……怖い者知らずというか、なんという、か」
「ええ、本当に。ワタクシも呆れたものです。ですが、それで分かりました。彼女は『
「正体を知られるとは……先代の『
「まあ、すでに死んだ者を罰することも出来ませんから……。ともかく、私も理解しました。彼が亡くなった後、子供たちは食べる者も無く、死の淵に追いやられているのだと。ですが、そんなこと私には何の関係もありません」
「当然で、す」
「実際、その時私は、そのまま売り払うのと、
「……身寄りのない子供が、奴隷商人の屋敷に押しかければ、そうなっても仕方がありませ、ん」
銀猫が引き攣った微笑みを浮かべ、クリカラは自嘲気味に口元を歪める。
「とりわけ、その頃の私は
「は? 七歳の子供がです、か?」
「ええ、おかしいでしょう。言葉の意味を理解するまでの数秒の間、私も随分間の抜けた顔をしていたと思います。その後はもう、我慢できませんでした。おかしくて、おかしくて。あれほど笑ったことは、後にも先にもありません」
クリカラは、思い出したかのように口元を緩める。
「ですが、彼女は目をギラギラさせながら、こう繰り返すのです。『どんなヒトだって殺してみせる。お金が欲しい。お金がいるの』って」
「やはり、怖い者知らずとしか言いようがありません」
「ええ、本当にそう。私も子供の
銀猫は思わず目を見開く。
「まさか……」
「ええ、そのまさかです。私は彼女にこう言いました。『良いでしょう。丁度、簡単な依頼が一つあります。それをこなせば、あなたを雇ってさしあげましょう』、と。もちろん、本気ではありません。憐れんだ訳でもありません。自分の欲望に殺されてしまえば良いのだと、心の底から
「それで…………その娘は仕事を受けたのです、か?」
「ええ、何度も何度も頭を下げて、嬉しそうに礼を言って……。この娘は頭がおかしいのだと、私にはそうとしか思えませんでした。確かに彼女に与えた仕事は簡単なものです。暗殺者たちならば、呆れるほどに楽な仕事でした。標的は、北門詰所に所属する衛士の一人です」
「衛士……」
もの言いたげな銀猫を見据えて、クリカラはこくりと頷く。
「衛士にも色んな人間がいます。標的となった男は、ことあるごとに賄賂を要求し、支払わなければ罪をでっちあげて投獄する。そんなことを繰り返しているならず者でした。依頼人は我が子を無実のままに獄中死させられたご婦人です」
「……どうしようもない小物です、ね。確かに、
「ええ、腐っても衛士。日常的に剣を振るっているような人間です。私もあんな子供に、どうこう出来る相手だとは思っておりませんでした。そうですね。思い返してみれば、獅子が獲物を
「……非道いお人だ」
ため息交じりに銀猫がそう呟いて、クリカラが苦笑する。
それは暗殺者集団の元締めとしては、誉め言葉と受け取るべきなのだろうか。
「とはいえ、その娘が殺されて『はいお終い』という訳には参りません。依頼は依頼として、ちゃんと達成されねばなりませんからね」
「それはもちろんで、す」
「そこで、私は『
「『
「知らなくて当然でしょうね。彼が引退したのは、もう随分以前のことですから……。補助とは言っても、その娘のことを手伝わせるつもりはありません。私は彼にこう依頼したのです。その少女が殺されるなり、逃げ出すなりした後、速やかに標的を境界線の向こう側へ。もし逃げ出したなら、標的もろとも、娘にもとどめをさしてください、とね」
そう言って、クリカラは緑のカーテンの向こう側をじっと眺めた。
「あの日もこんな静かな夜。路地裏に野良犬たちの遠吠えが、やけに大きく響いていたのを覚えています」
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