第58話 野良犬少女クレリック その2

「えーと、今月はマックィンとリーズだろ。それに、メリッサとテディーにシーリス……って」


司教クレリック』の二つ名を持つ暗殺者――ジゼルは指折り数えて、ため息とともに肩を落とす。


「うへぇ……やべぇな、誕生日バースデーラッシュだよ。元締めに頼み込んで、もっと仕事ふってもらえないかなぁ。うーん、無理だろうなぁ……」


 誕生日には七面鳥ターキーを一羽。自分が定めた決めごととはいえ、弟や妹が増えれば増えるほどに、誕生日バースデーが固まることもあり得る訳で。


 C級とはいえ暗殺の報酬が極端に少ないという訳ではないけれど、それでも二十一人の子供を養おうと思えば、やはり余裕は無い。もちろん、表の顔である修道女シスターとしての収入なんて、雀の涙のようなものだ。


 そもそもが貧民街の見すぼらしい教会。周りもみんな貧しいのだ。


 角のテルマおばあちゃんは、もう何年も同じ服を着回している。それでも毎月、おばあちゃんは「少なくてごめんね」なんて謝りながら、小銭を寄付してくれる。いつもいつも、それを受け取る度に、ジゼルは申し訳なくて泣きそうになる。無駄遣いなんて出来っこない。


 風に吹き寄せられた落ち葉のように、皆で身を寄せ合うだけの日々。それでもいつかは弟や妹たちを学校に通わせてやりたい。そう思う。自分に学がないだけに余計に憧れるのだ。そのためには苦しくとも、たとえ少しずつでも、貯金はしていかなきゃならない。


「どっかにポンと金出してくれるようなヤツ、いないかなぁ……いないよなぁ」


 ため息交じりにそう独り呟いた途端、ジゼルはガバッと顔を上げる。


「いた! いたわ! 『最悪イルネス』のヤツが、しこたま貯めこんでやがるって双子のヤツが言ってたわ!」


 彼女は先日一緒に仕事をした、双子の言葉を思い出したのだ。実のところ同じ仕事をしても、S級の暗殺者とC級の暗殺者では報酬は五倍ほども違う。それは、随分金も貯まってることだろう。


「たしかアイツ、衛士長屋に住んでるって言ってたよな……。リム姉さんに聞いてみるか」


 なにせ愛人を囲えるぐらいだ。今度、弟や妹たちを引き連れて、表の顔でしれっと家まで寄付を募りに押しかけてやろうと、彼女は心に決めてニシシと笑った。


 そうこうする内に、通りの奥の暗闇から、小石を跳ね飛ばす車輪の音が聞こえてきた。どうやら獲物が来たようだ。


「さて、お仕事、お仕事! みんな! ねーちゃん、頑張るからなー!」


 ジゼルはどこか楽しげにそう声を上げると、手にしたクォレルを通りの向こうへ向けて、片目をつぶった。



 ◇ ◇ ◇



 同じ頃、クリカラは遠い日の記憶を思い起こしていた。ジゼルについての記憶。十年前、野良犬みたいな小さな女の子に仕事を与えた、その日の夜のことについて。


 その夜、野良犬の遠吠えを聞くともなしに聞きながら、クリカラは稼ぎを数えていた。指先に感じる銀貨の冷たい感触。血と欲望に塗れた汚い金。一体、こんなものに何の価値があるのかと、そう自問しながら彼女はそれを積み重ねていく。母親から元締めを引き継いで、すでに二年。そんな思いはおりのように心の奥にわだかまって、ずっと彼女を責め立てていた。河原で石を積むかのようなやるせなさを覚えながら銀貨を積み上げ、やがて二袋目の銀貨を数え終わるのとほぼ同時に、扉の向こうに人の気配を感じて、彼女は静かに顔を上げた。


「誰ですか?」


「……ワシじゃよ」


 彼女の問いかけに応じたのは、『古狼アルトヴォルフ』のしわがれた声。時刻は正子しょうしをいくらか回った頃、確かに依頼した仕事が終わっていてもおかしくはない頃合いである。


 手にした銀貨をテーブルに置いて、彼女は扉の方へと歩み寄る。扉を開くと、そこには小柄な老人が独り、神妙な顔をして立っていた。


 見た目はどこかの商家の隠居した先代、もしくは人の善い好々爺といった老人。その腕前とは裏腹に、彼はそんな穏やかな雰囲気をもつ暗殺者だった。


 お金に頓着しない人柄で、暗殺者にしては珍しく前払いを求めないばかりか、報酬を受け取りに来るのはだいたい数日後。いつまで経っても取りに来ないので、赤猫に届けさせることもしばしばだった。それゆえ仕事が終わって、すぐに彼が訪ねてくるというのは、かなり意外な気がした。


「……ご苦労さまでした」


 クリカラが戸惑いながらそう声を掛けると、彼は小さく首を振った。


「ワシは何にもしておらんよ」


「では……仕事はまだ終わっていないということですか? なにか問題でも?」


「いんや、すでに標的は境界線の向こう側……なにも問題などありゃしない」


「では、なにが……」


 そこまで言いかけて、クリカラは思わず首を傾げる。


 ポタ、ポタと、どこからか微かな水音が聞こえてきたのだ。


 だが、緑のカーテン越しに、窓の外には煌煌と月が輝いているのが見える。雨が降っている様子はない。そんなクリカラを見据えて、『古狼アルトヴォルフ』は、静かにささやいた。


「ワシは……ただ連れてきてやっただけじゃよ。この娘の血の匂いで、野良犬どもが騒いでおるからの」


 その瞬間、クリカラは驚愕に目を見開いた。


古狼アルトヴォルフ』の背後、そこに……あの少女が立っていたのだ。


 ただでさえ見すぼらしい姿だった少女は、頭から浴びた返り血のせいで、どす黒い血まみれの姿。だが、ポタポタと滴り落ちていたのは、返り血だけではない。


 それは、彼女の血。彼女自身の血。


 鼻先には生々しい真一文字の大きな刀傷が走り、そこから溢れ出た血が、彼女の顎を伝って滴り落ちて、廊下にどす黒い水玉模様を描いていた。


 職業柄だろう。「これはもう、バラさなければ売り物にならないだろう」。クリカラの脳裏を、そんな思考がよぎった。


 目を見開いて言葉を失うクリカラを見据えて、『古狼アルトヴォルフ』が肩を竦める。


「言っておくが、ワシは手を貸しちゃおらん。元締めよぉ、あんたこのお嬢ちゃんと約束したんじゃってなぁ。ワシは確かに見届けたぞ。このお嬢ちゃんは標的ターゲットを独りでブッ殺した。この皺首しわくびを懸けても良い」


「そんな、まさか……」


「アンタの負けじゃよ、元締め……」


 クリカラが驚愕の表情を向けると、少女は静かに顔を上げる。カンテラの灯りがわずかに洩れる廊下、薄暗い闇の中、彼女は肩で息をして、小さな身体は寒さに耐えるかのごとくに震えていた。傷が痛むのだろう。赤黒く染まった顔の上で、二つの目が潤んでいる。どう声を掛ければ良いのか、何をどう言えばよいのか、それが分からなくなって、クリカラはただ茫然と少女を見つめた。


「お、お金を……」


 絞り出すような声が、少女の唇の間から零れ落ち、その切実な響きに、クリカラは思わず身を跳ねさせる。かすれ、小刻みに震える小さな声、やがてそれは絶叫にも似た叫び声となって、奴隷商人の屋敷、その廊下に響き渡った。


「お、お金ぇをぉ、く、ください! や、やくそくぅ! みんあ゛待ってるのぉおお! 約束したんだからぁ! おなか一杯食べさせてあげるって! 死んじゃダメだって!」


 傷ついた鼻腔から口の中にまで、血が流れ込んでいるのだろう。叫ぶ言葉は不明瞭、飛び散るつばきは、どす黒い血の色をしていた。


 言葉を失って立ち尽くすクリカラへと弱弱しい足取りで歩み寄り、少女はすがりつくように声を上げ続ける。


「おね゛がい……! おかね゛を……! おかねをくだ、くださいぃ! 待ってるんだからぁ……! はやくしてあげないと……あの子たちが、かわいそうなの!」


 その言葉を耳にした途端、クリカラは思わず呆然とした。


 ――かわいそう? かわいそうですって?


 それは衝撃的な出来事だった。


 こんな状態になってまで、誰かを「かわいそう」なんて口に出来るのか。守銭奴のごとくに金をくれと連呼して、金のために人を殺めるような子供が、誰かのために、自分の身をボロボロにしてまで「かわいそう」などと叫べるのか、そんな人間が?


 だが、クリカラは静かに息を整えて、小さく首を振る。


 それが……いや、それ……人間というものなのか、と。


 その瞬間、クリカラは小汚いこの娘のことを、血に塗れた、この世で一番惨めではないかと思うようなこの娘のことを、と、そう思った。


 夜明け前の青い静寂、雑木の赤い紅葉もみじに例えるには密やかで、真夏の陽光とも違う。雨上がりの虹でもない。宝石の煌めきは更に遠く、大輪の向日葵とは対極かもしれない。


 それでもやはりそれは美しかった。確かに美しかったのだ。


 言葉にすれば途端に胡散臭くなってしまうけれど、その美しさはたぶん、泥沼の中で淡く色づいたはすつぼみに似ているのだ。と――


 ――クリカラはそう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る