第55話 食人鬼(マンイーター) その3

 ディクスンは腰を抜かしたまま、ただ呆然とその様子を眺めていた。


 ゴクッ! と、大きなものを飲み下す音が響き渡って、少女の頭は拍動をめた。彼女は小さく息を吐き、冷ややかな目で騎士たちを見回す。真夏の夜にてつく空気。静寂が物理的な重みを帯びてし掛かってくるような、そんな気がした。


「ば、ば、ば、化け物めッ!!」


 そんな、重苦しい沈黙を破ったのは、甲高かんだかい女の声だった。ほうけるディクスンのすぐ傍で、序列十八位の女騎士レチナが叫び声を上げたのだ。彼女は青みがかった短い髪を振り乱しながら、腰の剣に手を掛けた。メイド服の少女が、レチナの方に物憂げな視線を向ける。そして、彼女は隅っこから引っ張り出された猫みたいに迷惑そうな顔をして、レチナをスッと指さした。


 次の瞬間――


「え?」という短い声を漏らして、剣のつかを握っていたレチナの手が、だらりと垂れ下がった。腰砕けに座り込んでいたディクスンの目の前に垂れた彼女の指先。それがピクン、ピクンと跳ねている。痙攣? 恐る恐る視線を上向うわむけると、少女の指先から伸びた漆黒の爪が、彼女の眉間を貫いていた。


「化け物という呼ばれ方は、あまり好きじゃないの。否定はしないけど」


 少女。いやがそう呟いて爪を引き抜くと、レチナはぐるんと眼球を上向かせて白目を剥き、ディクスンの上へと崩れ落ちてくる。


「ヒッ!?」


 レチナのほうけたような死に顔が眼前へと降り落ちてきて、ディクスンは思わずそれを払いのけた。


「さて、次はぁ、ど・れ・に・し・よ・う・かな」


「あ、あ、あぁ……」


 そのは涼やかに目を細めて、騎士たちの顔を順番に見回していく。騎士たちは一様に顔を引きつらせてうめくばかり。周囲には再び、耳をふさがれたかのような静寂が舞い降りた。


 動けば殺される――そんな絶望的な緊張感にさらされて、ディクスンの背を冷たい汗が滴り落ちていく。騎士たちのやけに間隔の短い呼吸音。エントランスの段差を滴り落ちていく血の水音がポタリ、ポタリと、やけに大きく響いていた。


 そんな、永遠とも思える数秒の末に――


「う、うわぁああああああっ!」


 耐えかねたかのように悲鳴を上げる者たちがいた。騎士たちではない。声のした方へと目をむければ、門を護っていた騎士団付きの兵士二人が、恐慌状態で門扉もんぴに飛びついているのが見えた。


 彼らは力任せにかんぬきを引き抜いて、重い門扉もんぴを押し開けようと必死に肩をぶつけている。そして、それがわずかに開きかけた途端――


「はーい、ざんねん」


 あからさまに嘲笑を含んだ少女の声が響き渡った。


 同時に、少女の背後で邪悪な気配が膨れ上がる。『ボコッ! ボコッ!』と、何かを穿うがつような音がディクスンの耳を打った。


(な、なんだ!?)


 戸惑う騎士たちの目の前で、彼女がぶるりとその身を震わせた途端、その背後で何かがぜた。彼女のその背を突き破って、何か、黒い影が飛び出す。それは黒い触手。獲物を捕食する爬虫類の舌に酷似した挙動、しなる鞭のような軌跡を描いて、それは凄まじい速さで庭を縦断し、兵士たちへと襲い掛かっていく。


 逃げ惑う兵士たち。見る見る内に鋭く尖った触手の先端が彼らを刺し貫いていく。飛び散る血、阿鼻叫喚の悲鳴、泣きわめきながら、許しを乞う声が響き渡る。そのあまりにも凄惨な光景に、ディクスンは「ひぃぃ」と、喉の奥に声を詰めてジタバタと後ずさった。


 それは余りにも絶望的な光景だった。エントランスから門までの距離は、約十三ザール(約四十メートル)。それだけの距離があってもダメなら、もはや逃げる手段などありはしない。


「あ……あぁ」


 騎士たちは絶望に打ちひしがれ、言葉にならないうめきを漏らしながら膝から崩れ落ちていく。そんな騎士たちを見下ろして――


「抵抗してくれないと、つまらないんだけど?」


 少女は不満げに頬を膨らませる。もはや、それを可愛らしいなどと思う余裕もない。余裕があったとしても思える訳が無い。


 誰かを盾にして逃げることはできないか? 自刃する方が楽に死ねるのではないか? と、騎士たちの脳裏に様々な葛藤が渦巻き始めたその時、


「この化け物めが! 騎士をなめるなぁああッ!」


 真上から声が響いて、唐突に槍をたずさえた騎士が、少女の頭上へと降ってくる。


 バルコニーから飛び降りて来た男の凄まじい豪槍。体重の乗った一撃。それは少女の肩口を砕き、勢いのままにその身をえぐる。彼女の小柄な身体は突風に吹き飛ばされた回転草タンブルウィードのごとくにゴロゴロと転がって、背後の噴水に激突して土煙を上げた。


 呆気にとられたような空気が漂い、騎士たちは身じろぎ一つ出来ずにいる。


 だが、状況を理解するに連れて、彼らの引き攣った表情に、次第に安堵の色が広がっていく。落ちて来たのは長身痩躯ながらも凄まじい膂力りょりょく。長い黒髪を一つにくくった美丈夫である。少女めがけて一撃を加えたのは、騎士団序列第五位、『烈槍』の二つ名を持つ騎士、ザールリンクであった。


「やったか!?」


「流石は、ザールリンク殿!」


「助かった!」


 騎士たちが口々に歓喜の声を上げる。だが、ザールリンクの表情に緩みはない。


諸卿しょけい、剣を取り給え! 相手はこの世ならざる化け物だ! 油断をするな!」


 慌てて抜剣する騎士たち。だが彼らの目の前で、少女はゆっくりとその身を起こす。彼女は肩に開いた風穴を気に掛ける様子もなく、ゆらりと立ち上がるとスカートの裾をはたいてほこりを払った。


「全く……不意打ちで大喜びだなんて、とんだ騎士道もあったものね」


「ほざけ!」


 これには流石のザールリンクも眉根を寄せる。普通であれば、即死してもおかしくはないだけの一撃なのだ。血の一滴も流れていなければ、それを失笑するだけで済ませようとは、まさに化け物というより他にない。


 背筋にうすら寒いものを感じながらも、ザールリンクは槍を手に身構える。


 馬鹿げている。怪力乱神を語るのは弱者だけだ。栄光ある近衛騎士にあるまじき行為。この少女にも、何かタネや仕掛けがあるに決まっている。


 口元だけに薄い嗤いを浮かべる無表情な少女。彼女を見据えて、ザールリンクは先ほど目にした、レチナをほふったあの爪の攻撃、その軌跡を思い起こす。


 この距離ならそれを繰り出してくるに違いない。ならば、それをかわすと同時に一気に間合いを詰める。


 待ち受けるザールリンク。少女は予想通りに彼の方へと指を指す。息を呑んでその挙動を見据え、「見切った!」ザールリンクは弾けるようにサイドステップを踏んだ。耳のすぐ傍で風斬り音が響く、顔のすぐ脇を通り過ぎていく鋭い爪。彼はそれを躱すと、槍を構えて一気に少女の懐へと飛び込んでいく。


「死ぬがいい! この道化が!」


 彼が槍を構えて突進すると、騎士たちが剣を振り上げて後に続いた。その中で一人、ディクスンだけが、これ幸いと這うようにして宿舎の中へと逃げ込む。無論、こんな状況ゆえに、それに気付いたものは居ない。


 迫りくるザールリンクの姿に、少女はわずかに頬を引き攣らせる。顔面目掛けて繰り出される槍。まさに紙一重。彼女は首を傾げてその穂先をかわすも、穂先のかすった髪が数本千切れて風に舞った。


「くっ! これをかわすのか!」


 ザールリンクの悔しげなうめきを気にもかけずに、少女は槍を掴んで力任せにへし折ると、大きくサイドステップを踏んで距離をとり、ザールリンクに続いて殺到してくる騎士たちを見据える。そして指先の爪を長く伸ばして身構えると、騎士たちは思わず足を止め、怯えるように後ずさった。


諸卿しょけい! 奴は我が槍をかわした! すなわち! 剣や槍が全く通用しない訳ではない! 臆するな! 攻撃の手を休めるな! 反撃のいとまを与えるな!」


 ザールリンクが折れた槍を投げ捨てて騎士たちの方へと声を上げた。騎士たちはやけくそ気味に「うわあああ!」と声を上げて、剣をひらめかせながら少女の方へと殺到する。半恐慌状態の無茶苦茶な剣筋。少女を取り囲んで、振り下ろされる無数の剣。鋼の刃、鋼、鋼、鋼。まさに乱刃といった様相である。だが、少女はその剣林を長く伸びた爪で的確に振り払いながら、うんざりとした表情でため息を吐いた。


「羊が群れても、狼に敵わないことぐらいわかるわよね?」


「やかましい! 化け物! 正義の鉄槌を食らうがいい!」


 騎士の一人がそう声を上げる。


 だが次の瞬間――


「正義?」


 そんな呟きとともに、少女の口元が、下弦の月のように歪む。


 そして、騎士たちは我が目を疑った。前触れもなく少女の身体がどろりと溶けだして、コールタールのような真っ黒な粘液へと変わり始めたのだ。思わず後ずさる騎士たちの目の前で、ドロドロの液体と化した少女の身体が水風船が弾けるかのごとくに破裂した。その真っ黒な液体は、突き出された剣に絡みつき、剣を握った騎士たちの腕を這い上がり始める。


「グレナダとかいったっけ? 女一人を罠に嵌めて、見殺しにするのが正義?」


 頭だけを残して粘液と化した少女。その身体に捕食されて飲み込まれていく騎士たち。出遅れたおかげで難を逃れた者たちは、腰砕けになって足で必死に石畳を蹴って後ずさる。


「バカな! い、一体、何なんだ、貴様は……」


 ザールリンクが思わず頬を引きつらせると、少女はあざけるような悪意まみれの微笑みを浮かべた。




夜の住人ノクターナル





 ザールリンクは思わず息を呑む。それは王都を騒がし続けている暗殺集団の名であった。

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