第55話 食人鬼(マンイーター) その3
ディクスンは腰を抜かしたまま、ただ呆然とその様子を眺めていた。
ゴクッ! と、大きなものを飲み下す音が響き渡って、少女の頭は拍動を
「ば、ば、ば、化け物めッ!!」
そんな、重苦しい沈黙を破ったのは、
次の瞬間――
「え?」という短い声を漏らして、剣の
「化け物という呼ばれ方は、あまり好きじゃないの。否定はしないけど」
少女。いや
「ヒッ!?」
レチナの
「さて、次はぁ、ど・れ・に・し・よ・う・かな」
「あ、あ、あぁ……」
その
動けば殺される――そんな絶望的な緊張感に
そんな、永遠とも思える数秒の末に――
「う、うわぁああああああっ!」
耐えかねたかのように悲鳴を上げる者たちがいた。騎士たちではない。声のした方へと目をむければ、門を護っていた騎士団付きの兵士二人が、恐慌状態で
彼らは力任せに
「はーい、ざんねん」
あからさまに嘲笑を含んだ少女の声が響き渡った。
同時に、少女の背後で邪悪な気配が膨れ上がる。『ボコッ! ボコッ!』と、何かを
(な、なんだ!?)
戸惑う騎士たちの目の前で、彼女がぶるりとその身を震わせた途端、その背後で何かが
逃げ惑う兵士たち。見る見る内に鋭く尖った触手の先端が彼らを刺し貫いていく。飛び散る血、阿鼻叫喚の悲鳴、泣きわめきながら、許しを乞う声が響き渡る。そのあまりにも凄惨な光景に、ディクスンは「ひぃぃ」と、喉の奥に声を詰めてジタバタと後ずさった。
それは余りにも絶望的な光景だった。エントランスから門までの距離は、約十三ザール(約四十メートル)。それだけの距離があってもダメなら、もはや逃げる手段などありはしない。
「あ……あぁ」
騎士たちは絶望に打ちひしがれ、言葉にならない
「抵抗してくれないと、つまらないんだけど?」
少女は不満げに頬を膨らませる。もはや、それを可愛らしいなどと思う余裕もない。余裕があったとしても思える訳が無い。
誰かを盾にして逃げることはできないか? 自刃する方が楽に死ねるのではないか? と、騎士たちの脳裏に様々な葛藤が渦巻き始めたその時、
「この化け物めが! 騎士をなめるなぁああッ!」
真上から声が響いて、唐突に槍を
バルコニーから飛び降りて来た男の凄まじい豪槍。体重の乗った一撃。それは少女の肩口を砕き、勢いのままにその身を
呆気にとられたような空気が漂い、騎士たちは身じろぎ一つ出来ずにいる。
だが、状況を理解するに連れて、彼らの引き攣った表情に、次第に安堵の色が広がっていく。落ちて来たのは長身痩躯ながらも凄まじい
「やったか!?」
「流石は、ザールリンク殿!」
「助かった!」
騎士たちが口々に歓喜の声を上げる。だが、ザールリンクの表情に緩みはない。
「
慌てて抜剣する騎士たち。だが彼らの目の前で、少女はゆっくりとその身を起こす。彼女は肩に開いた風穴を気に掛ける様子もなく、ゆらりと立ち上がるとスカートの裾をはたいて
「全く……不意打ちで大喜びだなんて、とんだ騎士道もあったものね」
「ほざけ!」
これには流石のザールリンクも眉根を寄せる。普通であれば、即死してもおかしくはないだけの一撃なのだ。血の一滴も流れていなければ、それを失笑するだけで済ませようとは、まさに化け物というより他にない。
背筋にうすら寒いものを感じながらも、ザールリンクは槍を手に身構える。
馬鹿げている。怪力乱神を語るのは弱者だけだ。栄光ある近衛騎士にあるまじき行為。この少女にも、何かタネや仕掛けがあるに決まっている。
口元だけに薄い嗤いを浮かべる無表情な少女。彼女を見据えて、ザールリンクは先ほど目にした、レチナを
この距離ならそれを繰り出してくるに違いない。ならば、それを
待ち受けるザールリンク。少女は予想通りに彼の方へと指を指す。息を呑んでその挙動を見据え、「見切った!」ザールリンクは弾けるようにサイドステップを踏んだ。耳のすぐ傍で風斬り音が響く、顔のすぐ脇を通り過ぎていく鋭い爪。彼はそれを躱すと、槍を構えて一気に少女の懐へと飛び込んでいく。
「死ぬがいい! この道化が!」
彼が槍を構えて突進すると、騎士たちが剣を振り上げて後に続いた。その中で一人、ディクスンだけが、これ幸いと這うようにして宿舎の中へと逃げ込む。無論、こんな状況ゆえに、それに気付いたものは居ない。
迫りくるザールリンクの姿に、少女はわずかに頬を引き攣らせる。顔面目掛けて繰り出される槍。まさに紙一重。彼女は首を傾げてその穂先を
「くっ! これを
ザールリンクの悔しげな
「
ザールリンクが折れた槍を投げ捨てて騎士たちの方へと声を上げた。騎士たちはやけくそ気味に「うわあああ!」と声を上げて、剣を
「羊が群れても、狼に敵わないことぐらいわかるわよね?」
「やかましい! 化け物! 正義の鉄槌を食らうがいい!」
騎士の一人がそう声を上げる。
だが次の瞬間――
「正義?」
そんな呟きとともに、少女の口元が、下弦の月のように歪む。
そして、騎士たちは我が目を疑った。前触れもなく少女の身体がどろりと溶けだして、コールタールのような真っ黒な粘液へと変わり始めたのだ。思わず後ずさる騎士たちの目の前で、ドロドロの液体と化した少女の身体が水風船が弾けるかのごとくに破裂した。その真っ黒な液体は、突き出された剣に絡みつき、剣を握った騎士たちの腕を這い上がり始める。
「グレナダとかいったっけ? 女一人を罠に嵌めて、見殺しにするのが正義?」
頭だけを残して粘液と化した少女。その身体に捕食されて飲み込まれていく騎士たち。出遅れたおかげで難を逃れた者たちは、腰砕けになって足で必死に石畳を蹴って後ずさる。
「バカな! い、一体、何なんだ、貴様は……」
ザールリンクが思わず頬を引きつらせると、少女は
「
ザールリンクは思わず息を呑む。それは王都を騒がし続けている暗殺集団の名であった。
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